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No298 伊勢国の一之宮 [日本大好き]

伊勢国には、一之宮の言われている神社が二社あります。

 椿大神社  鎮座地は、鈴鹿市山本町御旅1871
 都波岐神社・奈加等神社 鎮座地は、鈴鹿市一ノ宮町1181

社伝によれば、椿大神社は垂仁天皇27年、倭姫命に下った神託により、猿田彦大神の墳墓の近くに「道別大神の社」として社殿が造営されたのを創始とする。書物における初見は、天平20年(748年)6月17日の『大安寺伽藍縁起並流記資材帳』である。

都波岐神社は、由緒不明。奈加等神社も由緒不明ですが、社伝によれば、雄略天皇23年(479年)、勅により造高雄束命(猿田彦の八世の孫という)が現在地の伊勢国河曲郡中跡村に2つの神社を造営し、それぞれ都波岐神社・奈加等神社と称したのが始まりと伝える。延喜式神名帳では両社とも小社に列している。承暦3年(1079)、2社に対して正一位の神階が授けられた。

このファイルを書き始めたものの、タイトルの「一之宮」の意味が良く判っていません。あまり、はっきりした定義はないようです。いい加減なことを書きますと、随分、昔から、その国で、権力というか、支配力が強かった神社のようです。神社の祭神には、階位があり、正一位などという神階を持つ神もあります。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の解説をお借りしますと、
一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。通常単に「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多い。
一宮の起源は、国司が任国に赴任したときなどに巡拝する神社の順番とされる。ただし、何らかの文書によって定められていたのではなく、由諸や社勢などによって自然発生的に決まったものであった。二番目に参る神社を二宮、三番目を三宮のように呼ぶ。律令制崩壊の後も、その地域の第一の神社として一宮などの名称は使われ続けた。元々が社勢などによって自然に決まったものであるため、時代によって一宮が変遷したり、同時期に二つ以上の神社が一宮を争っていたりする。現在ではすべての神社は平等と言うことになってはいるが、かつて一宮とされたことのある神社のほとんどが「○○国一宮」を名乗っている。

以上ですが、読めば解るかと言いますと、少しは判りますが、やはり、良く判りません。
どこが判らないかと言いますと、例えば、「社格」が高いとありますが、これが判りません。
 『ウィキペディア(Wikipedia)』では、「社格」について、説明がしてありますが、これが又、よく理解できません。ここでは、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十に書かれている延喜式神名帳に掲載されている神社を式内社といい、この神社が朝廷から指定された社格が高いような記述になっています。
 現在でも、式内社とされている神社は、それを自慢にしておられるところがあります。
歴史家も、そのように認識しておられるようですが、私は、式内社は、形式は、朝廷が決めたようになっていますが、中身は、藤原氏の支配力が強い神社だと思っています。

WEBに書かれている神社の説明でも、例えば、伊勢国の一之宮のように、二社ありますと、両方の神社が、自分所の神社が、一之宮だと争っているように書いてあります。
 備前の一之宮は三社あります。ただ、名乗りをあげることで争っているだけではなく、何らかの事情があったはずです。

都波岐神社奈加等神社ともに、延喜式神名帳では両社とも小社と記載されていますから、古社であることは間違いありません。延喜式神名帳に記載されている神社名は、都波岐神社です。

したがいまして、椿大神社は、神社名が異なりますから、一之宮ではなさそうですが、言い伝えがあるとしますと、一之宮ではないであろうとは、断定できません。その点、
都波岐神社奈加等神社は、神社名の表記が同じであることと、町の名前が、いつから付けられているか判りませんが、「一宮町」ですから、また、承暦3年(1079)、2社に対して正一位の神階が授けられたとありますから、この後に、一之宮と言われるようになったかも知れません。では、その前は、椿大神社が一之宮であったのかも知れません。

両方の一之宮ともに、祭神は、猿田彦神ですが、椿大神社の由緒には、猿田毘古命と表記しています。これは、古事記に書かれているサルタヒコの表記の仕方です。都波岐神社の方は、神社が書いている表記はわかりませんが、「猿田彦大神」らしいです。

又、椿大神社には、多くの合祀の神があります。
配祀 天津彦火瓊瓊杵尊 栲幡千千比賣尊
合祀 高御産巣日神 天照大御神 五男三女神 天之穗日神 豐受大神 大穴牟遲神
合祀 速玉男神 伊邪那美大神 大事忍男神 保食神 迦具土神 建速須佐之男命
合祀 大山津見命 木花佐久夜比賣命 大雀命 品陀別命 菅原道眞 彌都波能賣命
合祀 大山咋命 宇迦之御魂神 八百萬神 息長帶比賣命 天津日子根命 天眞名鶴命
合祀 志那都比古神 板倉家祖先 白髮大神主 祭神不詳

境内摂社 式内社 伊勢國鈴鹿郡 縣主神社 倭建命 建貝児王
境内社 式内社 伊勢國三重郡 椿岸神社  主祭神 天之宇受女命

配祀の 天津彦火瓊瓊杵尊は、降臨する時に、猿田毘古命がその案内をしたことになっていますから、配祀されていてもおかしくはありませんが、その歴史が古いかどうかです。
その他の合祀の神は、高御産巣日神や伊邪那美大神や志那都比古神の漢字を確かめてください。
 古事記にかかれてあるママの漢字です。
式内社になった神社は、殆ど、日本書紀に書かれている漢字に改められています。
三重県は、90パーセントが明治時代になってから、合祀されたといわれますから、神の名が古事記のままであるということは、椿大神社の周りには、天皇家を崇拝する人たちがいっぱい住んでいたが、明治時代になってから、これらの神社は、全部つぶされたことになります。
 例えば、もし、平安時代のようなときに、一之宮だったとしますと、椿大神社の祭神は、
「猿田彦大神」と書き換えられたと思います。しかし、江戸時代になってから、猿田毘古命と書くようになったのかも知れません。

ただ、椿大神社の由緒に、次の様な記述があります。
当社創建以来、山本神主家は代々「猿田彦命」を襲名していたが、崇神天皇のころに神名使用を禁じられたために「行満」(修験神道)と称し山本家の祖先神となったという。(行満神主の頃に獅子舞が創始され、当社の獅子舞は日本最古とされている。)
 仁徳天皇の御霊夢によって「椿」に名を社名とし、光孝天皇仁和年間に「伊勢一の宮」、そして醍醐天皇期に「延喜式内小社」に列格。中世期は一の宮として発展し、また仏教の影響も受け、修験もさかんとなる。(サルダヒコ神の末裔であり、山本氏の祖でもある行満大明神は修験の祖として役行者を導いたとされる。)
 
根拠はありませんが、光孝天皇仁和年間に「伊勢一の宮」、と呼ばれていたとありますから、古い時代は、椿大神社が伊勢一の宮と呼ばれたのかも知れません。


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