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No328 夏見廃寺と軍事施設 [歴史番外編]

壬申の乱には、多くの疑問点があります。壬申の乱のことは、日本書紀にしか書かれていません。古事記の序文に当たるところには、壬申の乱のことだと思われることが書かれているのに、そのことについて書いた人はおられません。
 私の勉強不足の所為かも知れません。(一度確かめてください) 

日本書記を作ることは、天武天皇が考えられて、古事記も作るように命令されたことになっています。古事記ができて僅か、12年後に完成していますから、古事記は、国内向けで、日本書記は外国向けというように考えられています。
 しかし、それではおかしいところがいっぱいありますので、そこを研究した人によって、古事記は、朝廷が作ったものではなく、偽物である説が有力になっています。

 そこで、日本書記が日本国の正史とされています。壬申の乱の所を読んで頂きますと、そのままでも、少し、脚色するとテレビデラマになるほど詳しく書かれています。

 私はひねくれ者ですから、詳しく書くほどに、書いておかないと誤解を招くと考えて日本書記の作者は、詳しく書いたと考えたくなります。

例えば、大海人皇子は、このままでは、大友皇子にやられてしまうと決心をして吉野を出発したことになっています。
はじめから、大友の皇子をやっつけるのであれば、北へ進路をとり名張、伊賀となります。
逃げるのであれば、和歌山は、または、伊勢神宮を通って、信州だったと思われますが、そうではありません。
 吉野を出発した時は、舎人などの戦力は20人ほどです。女官は10人ほど、馬もなしとなると持ち物も無かったことになります。
 北の進路はおかしいです。
 
余程、名張は安全であったと考えなければなりません。名張の次は、東へ行って、一志町美杉村へ行った方が安全なのに、伊賀へ行っています。
伊賀は、大友皇子のお母さんの故郷です。一番危ないところです。
お母さんは、壬申の乱の後に、ふるさとに帰っています。

 そこで、名張も伊賀も、大海人皇子にとって安全な土地であったのであろうということを調べています。

他のホームページで、次の文章を見つけました。
【壬申の乱探訪名張編】http://sanzan.gozaru.jp/bb/bb60/bb60.html

「この名張の地は、伊勢神宮あるいは斎宮との関連が深く、大来皇女の次に斎王となる当耆皇女(=託基 たきのひめみこ=父・天武 母・宍人臣カジ媛娘)も夏見郷に墾田を持っていたことが伝えられています。また、奈良時代に入りますが、やはり斎王となる酒人内親王が名張郷に栗林持っていたとされています。斎王になる皇女達の御料地としての存在も考えさせられます。
 また、名張の夏見に含まれる地には、伊勢神宮領(多良牟六箇山=たらむむこやま)が広大な面積を持って存在していたことが知られています」

以上です。ここに書かれたことの根拠を探してみましたが、 WEBでは見つけることはできませんでした。
 このことが正しければ、名張の地は伊勢神宮あるいは斎宮との関連があったとみていいと思われます。

関係はあったのですが、その後、勢力を強めるために、天武天皇の菩提を弔うためと称して、天皇家の拠点を作ったのではないかと推理しています。
 
どなたにも、信用されていませんが、群馬県辺りで作られた絹は、質が良かったらしく、新潟、福井、丹後に運ばれて大陸へ輸出されました。大部分は、九州まで運ばれて、やはり中国・ヨーロッパに運ばれたと考えています。このようにいくつかのシルクロードがあったのですが、その一つとして、名張川を利用したルートがあったと思われます。
秩父の絹はどうして運ばれたか】 あたりに書いています。

 地図で、名張のところを探してください。美杉村の上太郎生を通過した名張川は、名張の村に入ってから、180度のカーブを切って、向きを変えています。このような所は、ぶつかった相手は、岩盤のある所です。内側のカーブは、水量が増えるたびに、大洪水となり、川床は増え、肥沃な土地になります。必ず、人が集まって集落を形成します。

 いろいろの面で重要な集落になります。
 夏見廃寺は、高いところに造られています。
地図では高低差は判りませんが、カシミールという地図ソフトによりますと、40mの標高差があることになっています。現在は良く判りませんが、川を航行する船などは、手に取るように判ったと思われます。(高知性集落の役目をしたと考えています)

 この廃寺の近くに、名居神社と宇流富志弥神社の二つの式内社があります。
 次回は、この神社のことを書いてみます。 

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太郎

 一個の疑問がありました・・。
 漢民族の在り様は チベット問題にしても 少数民族に対する政策は かの国に一貫したものがあります。
 ところがこのサイトにある漢民族は 結構 【控えめ】 ですね。
 この国では 漢民族の横暴を 決して許さないような・・・
 何かが あった・ &まだあるのでしょうか??
 
by 太郎 (2008-03-19 22:25) 

太郎

 蝦夷征伐の苦難の史実を見る時。
 蝦夷は 中央から見て 「外的の」 ひっくるめられた総称であったとすれば・・

 中国大陸と 全くに異なって 【 地形的に 】、、
 この国は 攻め落とすことの出来ない 「不可能」な国だった。
 
 国津は全国的だった・・ 天津は「国譲り」 を得た。
 中国は 大陸と異なってこの国を得意の力で 支配することが出来なかった。。
 よりましな政策として 天津を傀儡的に利用した。。。。
 こんな具合に 考えても良いのではないのでしょうか。
 
by 太郎 (2008-03-19 23:34) 

vetty

日本の古代史は、ユダヤ人と中国人が重要な役割をしていたことに仮定しますと、多くの謎が解けます。その代わりに、ご指摘の通りの新しい疑問が生じてきます。 蝦夷のことは、私の頭の中に、全くありません。別のことを知りたくて、昨晩、日本書紀の斉明天皇のところを読みましたら、5年の17日に、蝦夷のことが書かれています。船軍180艘を使って蝦夷の国を討ったとあり、多くの蝦夷とその捕虜に饗応をし、物を与えています。7月29日に、洛陽に連れて行き天使に差し出しています。中国に対するお土産は、蝦夷がなによりのものであったらしいです。天皇も天子も、蝦夷には興味があったことが分かります。
 私は中国人と書いていますが、正しくありません。中国を治めていた人とたちは、次々と交代しました。しかし、どの中国人も、日本の絹がほしかったのではないかと考えています。 もっと、細かく解明しなければなりませんが、いつのことになるやらです。 絹を確実に手に入れるには、傀儡政権樹立がもっとも良かったのではと思っています。 その最大のものが、壬申の乱では・・・・。
by vetty (2008-03-20 07:42) 

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