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No329 名居神社と宇流富志弥神社 [日本大好き]

名居神社と宇流富志弥神社は、三重県名張市にある式内社です。名張市には、この二つの式内社しかありません。
名張市は、古代の国で眺めますと、伊賀国に属していました。
伊賀国には、阿拝郡、伊賀郡、山田郡、名張郡がありました。 その時の中心と思われる所には、国府がありましたが、国府は阿拝郡にありましたから、名張郡は中心から離れたところに位置していたことになります。
 
平安時代の康保4年(西暦867年)に施行された三大式の一に、延喜式があります。醍醐天皇により延喜五年(905)八月に編纂を開始、二十二年後の延長五年(927)十二月に完成したとされています。その延喜式の中に、延喜式神名帳というものがあります。ここに記載されている神社を式内社と呼んでいます。
全部で、3000弱の神社が掲載されています。掲載されている神社は、現在残っている神社のどの神社に当たるかは、正確なことは判りませんが、多分、この神社であろうというようなことが判っています。次のホームページには、現地へ行かれて、写真を撮られ、由緒などを調べられたことを掲載しておられます。
神奈備神名帳 http://kamnavi.jp/en/index.htm
延喜式神名帳 http://www.genbu.net/engi/index.htm

どの国に、式内社がどれだけあるかを一覧表にしてみました。
【式内社と祭神】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html
全部完成していませんが、凡その数字を知ることができます。上に書きましたように、延喜式は醍醐天皇が作られたことになっていますが、実際に作った人は、当時、作った人の都合の良いように式内社を定めたのではないかと思っています。
証拠はありませんが、藤原氏によって、式内社が定められたのではないかと推察しています。
式内社を説明した文章には、殆どの方は、「式内社は、祈年祭や新嘗祭に朝廷から奉幣を受ける神社である」と書いておられます。奉幣を受けるとは、どういうことかよく判りませんが、朝廷が由緒正しい神社であると認めていると理解されているところがあります。
【式内社と祭神】に見られるように、九州以外で少ないところは、伯耆、安芸、美作、飛騨、安房、上総、下総が極端です。この国には、天皇に関係ある歴史が、いっぱい感じ取れます。地名なども同じです。
 逆に、多いところから発見される古墳・遺跡などには、共通の特徴がみられます。例えば、この近くには、高地性集落が見られたり、環濠集落があったりします。
式内社として認めて貰った神社の氏子たちは、藤原氏から、絹の生産・売買などになんらかの権利を貰っていたのではないかと想像しています。
 推察や想像ばかりでは、お話になりませんが、式内社の少ないところは、天皇勢力が強くて、藤原氏は、式内社を増やすことが出来なかったと推察しています。

式内社と祭神http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html 
の伊賀国をご覧ください。25社しかありません。 伊賀国は、元々、天皇の勢力の強かった国のはずです。しかし、次第に、藤原氏が式内社を獲得していきました。
阿拝郡  9社
山田郡  3社
伊賀郡  10社
名張郡  2社

伊賀国がいつ出来たか判りませんが、伊賀国は、元は、伊勢国の一部でした。680年(天武天皇9年)に、伊勢国から分立したとされています。当初は2郡だったが、後に阿拝郡、山田郡、伊賀郡、名張郡の4郡になりました。どうして、分立したか判りませんが、このころに、伊勢国は、天皇の力がなくなりつつあったのではないかと思います。そこで、天武天皇の支配を強めるために、分けたのではないでしょうか? (同じ、ケースが美作国ではないでしょうか? 美作の式内社は、11社です)

面積や山などによって、式内社の数は、違ってくると思われます。そこまでは、調べていませんが、このままの数字で判断しますと、伊賀国は、天皇勢力が強かったと考えていいと思います。

 名居神社と宇流富志弥神社は、名張の少ない式内社であることが、歴史的には大切です。
名居神社の祭神:大巳貴命 (大巳貴命の表記は、日本書紀に書かれている書き方です。大国主命のことです)
配神 少彦名命 天児屋根命 市杵嶋姫命 事代主命 蛭子命
(ここに書かれている神も日本書紀に書かれている書き方です)
 神社は、三重県名張市下比奈知2092に鎮座。夏見廃寺から東700mぐらいの所です。

 宇流富志弥神社の祭神 : 宇奈根命
配祀  天照大神 武甕槌神 經津主神 天兒屋根神 姫大神
配祀 大物主神 火之迦具土神 宇迦之魂神 建速須佐之男神
配祀 仁徳天皇 應神天皇
この神社の地図をご覧ください。http://www.geocities.jp/engishiki01/iga/bun/ig070402-01.html
神社の西の旭町とか、南町は道路がまっすぐですから、歴史が新しいことになります。宇流富志弥神社は、現在は、少し高い所に遷座しているそうですが、900年頃、名張川の川岸にあったと思われます。ということは、その頃から、洪水の危険があるのに、名張川を生活の基盤にする集落があったことになります。
 地図を東のほうへ移動しますと、夏見廃寺があります。

長くなりましたので、  次回に、もう少し 考えてみます。

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