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No330 名居神社と宇流富志弥神社 (2) [日本大好き]

名居神社は、いつ頃できたか判りませんが、全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁によれば、
「日本書記によれば推古7年に大和地方が中心の大地震があって諸国に地震の神が祭られた伊賀では当名居神社がそれであろう。ナイは地震の古語である。江戸時代は国津大明神と稱し比奈知川上流に散在する国津神社の惣社であった」とあります。
 これだけでは、歴史上、なにが判るのかと言いますと、なにも判りません。

地名の比奈知と国津神社の惣社であったことは、なにかヒントになるのではと思いますが、調べていません。
【太陽の道】で出てきます北緯34度は、名居神社のところでも見られます。
http://www.begin.or.jp/sakura/sai10.htm をご覧ください。ここにある地図にも、国津神社が見えます。このようなことを考え合わせますと、名居神社も【太陽の道】と関係あるのかも知れません。

宇流富志弥神社は、社頭掲示板によりますと、「当社は延喜式内国史現在社にて主祭神宇奈禰命は神武建国の始め一国の瑞穂と氏族の安泰を祈願するために祭祀される。天正伊賀の乱にて沿革誌等兵火に遭い焼失するも古文書によれば貞観15年(873)宇奈禰神従5位とあり後神位階昇進し永徳元年従一位に昇進神園大麿に見ゆ。天武天皇3年圭田42束4カ所を以て祭祀するとあり。文徳天皇仁寿元年官幣を受け国司より幣帛を賜るとある。鎌倉幕府開府により廃止となるまで歴代崇敬篤く・・・・」
 神位階がどんどん昇進しするのは、伊勢国で見て頂きました。
No292阿射加神社  http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-02-09
多度神社 http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-03-04

伊勢国の神社と同じように、宇流富志弥神社も、860年ころには、藤原氏の勢力下にはいっていったのではないでしょうか?
主祭神の宇奈禰命が、どのような神か判りませんが、由緒には、「神武建国の始め一国の瑞穂と氏族の安泰を祈願するために祭祀される」との文章に、神武天皇の名が見られます。

神武天皇は、九州から神武東征を行ったといわれています。この時に、ユダヤ人の助けがなければ、成し遂げることが出来なかったと考えています。このように考えますと、この神社の「宇流富志弥神社」という名前は、富志弥は判りませんが、「宇流」は、「ウル」ではないでしょうか?
「ウル」はユダヤの神さんで、牛のことです。「ユダヤ人と牛」 
 に書いています。続けて、神武東征とユダヤ人のことも書いていますので、読んで頂ければと思います。

阿射加神社の主祭神は猿田彦大神です。この神は、ニニギ命が高天原から降臨してきたときに、道案内をした神です。時代は、紀元前100年ころになるでしょうか?

名張にある古墳は、No324 名張市の古墳 に掲載しました。
琴平山古墳では、立派な甲冑が出土していますから、5世紀のころの古墳と思われます。

このように考えますと、三重県の阿射加神社を経由し、名張を通るシルクロードは、紀元前から使われていたことになります。阿射加神社の周りには、3世紀ころの古い古墳しかないことは前に書きました。
 その後、阿射加神社より北の方が、藤原氏による支配力が増して行ったと思われます。

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