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No370 壬申の乱 宮滝を出発か(3) [日本大好き]

さあ、皆さんはどのように考えられますか?  私は天智天皇と大海人皇子は、唐にやられることを知っていたから、わざと、古人大兄皇子が隠遁して、なお天智天皇に殺されたことを知ったうえで、吉野に隠遁したと考えました。
 それ故に、天智天皇に殺されるおそれはありませんが、大海人皇子が大友皇子を攻撃するおそれはあったかも知れませんから、大友皇子の方がいつでも、攻撃できるように警戒したかも知れません。
 ただ、先のことになりますが、大友皇子もこのことは知っていたのではないかと考えています。
 そうなりますと、大海人皇子は、住み家を変える必要はなかったようにも思えます。ただ、日本書紀には、次の様な文章があります。
【また、近江京より大和京に至るあちらこちらに監視人を置いてある。また宇治橋の橋守に命じて、皇大弟の宮の舎人が、自分たちの食糧を運ぶことさえ禁じている】これは聞いただけですから、大海人皇子は調べさせたら本当であったと書かれています。
 
 この文章は、少し辻褄が合わない所がありますから、全く信用するわけにはいきませんが、事情が事情ですから、警戒はしたと見ていいと思われます。
 
 そうなりますと、もう一か所、住み家にしたところがあります。
宮滝から2kmほど下流にきたところに大名持神社があります。近鉄の吉野行きの電車は、上市と云うところで、90度に右折して吉野川を渡ります。この上市から吉野川右岸に沿って上流2kmの所に、大名持神社があります。
 こちらから行きますと、神社に近づきますと、二つの山が見えます。標高260mの
妹山と対岸の標高272mの背山です。西方上市の集落から眺めた山の形は、円錐形で、普通神体山特有の山形だとどの本でも書いておられます。どうして、円錐形になるのか、説明しておられる方はありません。
 自然に出来た山では円錐になることはないのではと思っています。全くないかと云いますと、少しはあると思いますが、多くのものは、目印になるように成形されたのではないかと想像しています。
 一番多く見られるものは、港です。海から船で入ってくる時に、見える山に多いと思います。海の仕事をしておられる方は、そのようなことを考えないで、日常目印らしておられるはずです。
 次は、昔の重要な街道に見ることができると思っています。
(多岐原神社 http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-01 ここに見られる山が見えますと、左にとって、峠をこえますと、瀧原宮です)
 御神体だから、山に入ることを禁止したのは、後の世になってからではないでしょうか?
そのために、この妹山は、鬱蒼とした妹山樹叢を呈し、昭和三年 天然記念物の指定を受けています。山中には、ツルマンリョウ・ルリミノキ・テンダイウヤク・ホングウソウ・ホングウシダなど、珍稀な温地性植物が繁茂しています。特にヤブコウジ科に属するツルマンリョウは東亜固有の植物で、わが国では、屋久島・山口県とこの地のみに成育する珍しいものです。 山腹一帯にはアラカシ、イチイガシ、ツクバネガシ、カゴノキ、ツブラジヒ、スタジヒ、サカキなどの常緑広葉樹・山頂には自然性のヒノキの群落がヒトツバ・ウラジロなどを下草として繁っています。
 ちなみに、ツルマンリョウの学名アナムティア(Anamtia stoIonifera Koidz)は大名持神社の名にちなんで小泉博士が命名されたものです。
(全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 より) 
 又、妹山は、黒雲母千枚岩、絹雲母千枚岩、石英片岩等の岩石からなる小孤立丘陵であるので、一層入山を禁止されたのかも知れません。このように特殊な岩石を作っている時は、理由があるはずです。宮滝に離宮がおかれたのも、この辺りに理由があったかも知れません。
 対岸の背山も円錐ですから、目印になりましたが、この山の上は、狼煙を上げて通信をしたはずです。
 【大名持神社】http://kamnavi.jp/as/yosino/oonamuti.htm には、地図を掲載しておられますから、クリックしてご覧ください。
 この神社は、式内社です。どのような神社かは、以前に、
【No275 多岐原神社 その3】http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-01-17 において書いています。もう一度、書こうと思いますが、長くなりますので、次回にします。
多岐原神社も大名持神社も、天皇家にとっては、重要なところでしたので、神社が設けられるようになったと考えています。
 その後、重要な神社は皆、藤原氏が管理する神社となりました。判り易いものは、式内社です。
 大名持神社も式内社でしたが、少し特殊だったのではないかと考えています。

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太郎

スピリチュアル・メモリー 女神の物語
http://plaza.rakuten.co.jp/beautifulgoddess/diary/200802190000/

熊野本宮神が陸奥国に上陸した6年後には、多賀城(現在の宮城県多賀城市)が築かれて、陸奥国の国府と鎮守府(軍の基地)が置かれることになりますが、蝦夷の抵抗は非常に激しく、征討は容易なことではありませんでした。
そこで鎮守府将軍であった大野東人は、蝦夷征討の祈願のために、霊験あらたかな熊野本宮神をこの地に迎えることを、元正天皇に願出たのでした。

それでは熊野本宮神とは、どんな神なのでしょうか?
現在の熊野本宮大社の主祭神は、家都美御子神(けつみみこのかみ)で、それは須佐之男命(すさのおのみこと)とされています。
しかし、それは明治維新以後のことで、平安後期以降は浄土信仰と共に神仏習合が続き、熊野は極楽浄土と見なされていました。
熊野本宮に祭られてきたのは、阿弥陀仏如来でした。
そして、更に遡ると平安初期には、熊野巫神(くまのいますかみ)となり、ここで名前が消えてしまいます。
しかし、また更に遡ると、藤原氏の氏神を祀る春日大社に伝わる秘伝書「古社記断簡」によると、熊野本宮熊野証誠殿の神は、瀬織津姫であると記されています。

他に、「紀伊続風土記」には、「月ヶ瀬村領地北岸に祓の宮があり、幹の回り一丈の櫟(いちい)の木を御神木として祭る。 祭神は瀬織津姫。」とあります。
実は、熊野本宮神が陸奥国に上陸後、仮安置されたところは現在の舞根神社であり、それは瀬織津姫神社なのです。
熊野大神、熊野本宮神とは、瀬織津姫だったのです。

蝦夷征討の前線基地として機能していた鹿島神宮と香取神宮の祭神は、鹿島神が武甕槌神(たけみかずちのかみ)で雷神、香取神が経津大神(ふつぬしのかみ)で剣の神と、それぞれ武芸の神として祀られています。
それなのに何故、武芸の神を差し置いて、瀬織津姫が迎えられたのでしょうか?

それは、まだこの時点では日本書紀が編纂中であったことと、鹿島・香取の武芸の神が祀られる前だったからではないでしょうか。
そして、何よりも瀬織津姫の穢れを払う禊の力が強力だったからだと思います。


 だ・・・ そうです。 以上、、、 太郎

by 太郎 (2008-06-02 18:30) 

vetty

熊野本宮神の資料 ありがとうございました。 チンプンカンプですが、そこがいいとこだと思っています。いつかは、解明しなければならない部分です。私がは以前調べる気になりましたが、チンプンカンプンですので、まず、基本からと、全国に祭られてある熊野神社からと思って、始めました。

熊野神社・熊野宮の一覧表http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1096.html です。たった、これだけで中断しています。

by vetty (2008-06-02 22:04) 

太郎

 
 仰るとおりに存じます。

  ただ私の脳は 理系でも文系でもありません。。
  熊野を感じるとき、、 今出会える情報に
 この時代に 「生」を得たモンとして・・・
 ありとあらゆること 見聞き・それなりに興味持ったことを、
 残したいと存じます。
  vetty サンには  vetty サンのあり方あると存じます。
 太郎にもタロウ あります。
 情報は vetty サンの 「それなりの vetty サンが蓄積したものを」 少しでも おすそ分けいただければと・・・・

 できるだけ 加工せずに コメントいたします。
 これかも よろしくお願いします。     太郎


by 太郎 (2008-06-02 22:39) 

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