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No371 壬申の乱 宮滝を出発か(4) [日本大好き]

壬申の乱の始まりは、吉野であることは確かですが、出発したのは、多くの方は、宮滝だと思っておられます。
 別にどこでも構わないのですが、それでは、どうして、吉野に隠居していたのか理由が判りません。
 理由はいろいろあったでしょうが、一番は、逃げることにあったと思います。誰からかと云いますと、大国・唐から逃れることにあったと思います。
661年に、百済を助けるために、日本は、軍隊を派遣したことになっています。そして、負けました。
 たった二行に書きましたが、唐と云う国は、これで、お仕舞で許してくれる国だったでしょうか?
おかしいですね。私は許してくれないと思っているのですが、その後、日本へ攻めてきて、日本を占領したとはどこにも書いてありません。遠かったからでしょうか? いくらでもやっつけることは可能でした。中国は10万単位の兵力を派遣する国でした。海があるなど問題にならなかったはずです。
 
占領するより、傀儡政権を樹立して、唐の思うままにしたかったのではと考えています。そのためには、天智天皇も天武天皇も邪魔になりました。そのことは、両天皇ともよく知っていましたから、天智天皇は自分に死が近いことを知った時に、大海人皇子に、逃げるように勧めたと思われます。日本書紀には、天智天皇が大海人皇子に皇位を継ぐように勧め、大海人皇子が断って、天皇のために、仏門に入って修行することになっています。吉野に隠遁しましたが、修行をしている様子は書かれていません。
日本書紀に書かれている通りでしたら、壬申の乱で勝ことなど出来なかったはずです。 避難所の施設として、大名持神社と桜木神社があったように理解しています。

大名持神社は、いつ造られたか不明です。判っている資料を記しておきます。
【祭神】大名持御魂神 (合祀)須勢理比咩命 少彦名命

この祭神の大名持御魂神と大名持命はどのように違うのか判りません。
大名持命は「おおなもちのみこと」と読むのでしょうか? よく似た神に、大己貴神があります。この神は、「おおなむちのかみ」と読むのでしょうか?
すべて、同じ神のようです。

延長五年(927に完成した延喜式神名帳 によると、大和国吉野郡十座の一つとして金峰神社とともに名神大社に列せられています。
 菅原道真らの撰進した史書『三代実録』(901)に貞観元年1月27日、大和国従一位大己貴神正一位とあります。この大己貴神という名前は、大国主神の別名です。しかし、日本書紀では、大己貴神と書き、古事記では、大穴牟遅神と書かれています。
 
貞観元年(八五九)全国で新階・新叙の神社は二六七社に 及んでいますが、正一位という極位を授けられたのは、わずかに大名持神社と河内国 枚岡神社のみであり、伊勢神宮・宇佐八幡は別にして、山城国の上賀茂・下賀茂の神 、鹿島・香取春日の諸神に次ぐ神階を授かった極めて神徳崇高な社だそうです。

 大海人皇子が宮滝に居た頃は、大穴牟遅神が祭られていましたが、式内社になってからは、大穴牟遅神は使うことは禁じられて、大穴牟遅神の音を残す大名持命をなのっていたのではないでしょうか?
その後、いつからか判りませんが、大名持命も許されず、「御魂」を入れて、大名持命の「命」を嫌がって、「神」と直し、「大名持御魂神」になったのではないでしょうか?

貞観元年(八五九)の頃と云いますと、藤原氏の力が強かった頃です。鹿島・香取春日の諸神、枚岡神社、奈良の春日大社など、すべて、藤原氏と関係あります。

大名持神社は、現在は、河原屋・立野の氏神ですが、古くは龍門郷二十一か村の大社でしたが、明治十二年八月、河原屋外二十四か村の 郷社とすることに群衆合議で変更されました。
このようなことから考えますと、藤原氏は、大名持神社のところは、重要な拠点ですので、式内社としましたが、実質的には、龍門郷二十一か村を支配下におくことは出来なかったのではないかと想像しています。
 ただ、今後、まだまだ、調べませんと正確なことは判りません。

 となりますと、大海人皇子は、ただ、逃げるためだけに吉野を選んだのではなく、此の地は重要であったから、逃避の地として選んだと考える必要があるかも知れません。



 このファイルと関係ありませんが、調べているときに、白村江の戦いのことを書いたページがありましたので、掲載しておきます。このテレビは見ませんでしたが・・・・。

NHKの描く捏造白村江の戦い
http://sky.geocities.jp/jyunpujyunpu/nhksptaikanokaisin/hakusonkou

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太郎

 先日TVで さきやま古墳群(埼玉県)と共に 「旧唐書」がでておりました。
初めて聞くものですが・・・ 情報がありましたら お教えください。  太郎

by 太郎 (2008-06-04 15:38) 

vetty

さきたま古墳群と「旧唐書」。 私も資料なしです。埼玉県は、以前から気になるところです。気紀玄前からの日本の絹の生産地です。これは田村誠一氏が考えられたことで、私は確認祖業ばかりしています。私は大阪ですから、どうしても、大阪が中心になります。5月の連休には、もう一度、名張と伊賀に行ってきました。歴史を考えるときには、頭だけで考えると間違いをおこすと思っています。たとえば、敢国神社に行ってきました。ここは伊賀の一宮です。行ってびっくりしました。他の国の一宮のつもりで行きましたが、地元の人が二組参拝されていただけでした。静かなものでした。国分寺跡予想していたものと全く違いました。発見いろいろです。今回一番驚いたことは、私の体力がなくなったことです。美旗古墳群の馬塚古墳群では、いつもの通り、腰をおろして、ゆっくりしていましたら、疲れて知らぬ間に1時間も寝てしまいました。さきたま古墳は、この体力では行けないなと思っています。行けるときのために、資料だけでも集めようかと思っています。
by vetty (2008-06-06 13:17) 

太郎

旧唐書を扱うHPに こんな書き込みもありました。
混沌として 方向性も見出せていないようですネ。

旧唐書と新唐書
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/WAandNIPPON1.htm
(5)次に海達。次に用明。亦、目多利思比孤と曰う。隋の開皇(五八一~六〇〇)の末に直り、始めて中国と通ず。

朝鮮半島史料の「日本」
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/WAandNIPPON2.htm
是の時、新羅の日月、光無し。日者、奏して云はく「日月の精、降りて我が国に在りき。今、日本に去る。故に斯の恠を致す」と。王、使を遣はし、二人を求めしむ。延烏曰く、「我、此の国に到る。天、然しむるなり。今、何んぞ帰らんや。然りと雖も、朕の妃、

織る所の細[糸肖](細かい生地の薄絹)有り。此れを以て天を祭らば、可なり」と。

仍りて其の[糸肖]を賜ふ。使人、来り奏す。其の言に依りて之を祭る。然る後、日月旧の如し。其の[糸肖]を御庫に蔵して国宝と為す。其の庫を名づけて貴妃庫と為す。天を祭る所、迎日県、又都祁野と名づく。

熊野本宮大社では 明治維新までスサノオが 祭られてなかったのなら・・・
少し 驚きです。。。
本宮・速玉共に 人為的な 権現(仮置き)的なものに感じられてなりません。

 


by 太郎 (2008-06-06 19:35) 

太郎

追加とさせていただきます!

http://www.city.gyoda.lg.jp/sekaiisan/pdf/teianshozenbun.pdf

古墳時代の中期から終末期にかけて継続的に造営されており・・・
埼玉古墳群に供給された埴輪を生産した窯跡や石室に使用した石材の供給地も判明していることも貴重である。
金錯銘鉄剣の文字資料は 宋書倭国伝にみられる倭の五王の叙任記事との関連から、・・・ 5 世紀における中国王朝を頂点とする東アジア政治史を具体的に証明することができる唯一の資料である。

by 太郎 (2008-06-06 22:37) 

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