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No378 国栖の人と大蔵神社 [日本大好き]

No377 国栖の人と浄見原神社と同様に、大蔵神社のことも調べる気になり、次の所に記して置きました。

資料No21 大蔵神社
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/06/no20_4fc9.html

『平成祭礼データ』によりますと、
 吉野町の東南端、川上村に通ずる衣笠山の南斜面に鎮座する旧指定村社で、国栖郷一円の鎮守であった。祭神は大倉比売命・鹿韋津比較売命・石穂別命。創祀不明。
 『大和志』に川上鹿塩神社として「在= 樫尾東川南国栖三村之交界- 今称= 大蔵明神- 国栖荘七村民家相共預= 祭祀- 」とあったことで式内川上鹿塩神社とされた時代もあった。
 本殿に接して、神宮寺の寺屋敷や庭園などがある。東川村・南国栖村の氏神であったが、明治の神仏分離で別当等は廃寺となった。数十年前までは東川と南国栖が祭典に参加した。
 神前一対の石灯籠の右側は弘化四年(847)東川若連中から、左側は天明六年(1786)国栖郷から寄進している。 
 その後、東川は当社分霊を自村へ遷祀して氏子から離別するに至った。例祭は九月一日初遡祭として親しまれてきた。 本殿は切妻造・桧皮葺の三間社で、内陣に安置の神像はいずれも鎌倉期の作。社宝に中世以来奉納の古鏡多数あり、中の一面に「大蔵大明神、正応五年(1292)五月弐拾五日 藤原□□敬白」との針書がある。

【国栖郷一円の鎮守であった】という記述が、どこまで正しいかどうか判りませんが、この地域は、神武天皇以前からの天皇家が安心して居れる地域だったと思われます。

この様な状況下ですから、清滝における生活は安全であったと思われます。持統天皇は、清瀧を30回以上訪れています。 これも謎の一つですが、清滝は天武・持統天皇にとっては、安全なところだったと思われます。

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