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No377 国栖の人と浄見原神社 [日本大好き]

ここ三ヶ月ほど、「壬申の乱の謎」を解くために、いろいろのことに時間を費やしてきました。
 素人のくせに生意気なようですが、プロの方が考えておられる「壬申の乱」ほど、意見の分かれる部分はないのではないかと思っています。
 日本書紀を読む限りでは、大海人皇子が戦いのために、吉野(宮滝?)を出発したときの人数では、どのように戦っても、大津朝廷の正規軍に勝つことは不可能です。

 大海人皇子は、天智天皇から皇位を継承するように、依頼されましたが、断って吉野に隠遁しました。多くの人は、着々と準備をしたと書いておられますが、どのように準備をしたのかを書いた人は一人もおられません。吉野へ行ってからは、大友皇子の方の監視もあったでしょう。それでも、活発に、マサカのときの為に、準備をしたとしても、6ヶ月で準備は不可能です。

 私の単純な疑問は、このようなことではなく、大海人皇子は桑名の方へ移動しましたが、通った所が、名張と伊賀でした。
伊賀は、大友皇子の母親の出身地ですから、大友皇子の支配が及ぶところと考えました。このように考えた時は、ただそれだけのことでしたが、少しずつ調べますと、一番危険な所の様に思えました。
 一番安全なところは、櫛田川に沿ったところは、紀元前から、猿田彦を祭る神社などがあって安全の筈でした。
名張から、少し遠まわりですが、櫛田川を下りますと安全のはずです。ところが、名張では夏見廃寺があるように、天武天皇と関係が深いと考えていましたが、この名張では、行軍に参加する人は、ゼロでした。私か危険と思った伊賀では100人ほど、協力者があったことになります。この矛盾を説明しませんと、壬申の乱の謎は解けません。

 戦争となりますと、武器の力が圧倒的ですと勝つことができますが、人数が少ないと通過するところの集落の住民からのゲリラを受けますと、ひとたまりもありません。
 やはり、大海人皇子は安全な所を通過した筈、では、どのように安全であったかを確かめるつもりになっています。

前置きが長くなりましたが、No735において、見てきましたように、この辺りは、神武東征のコースにダブルようです。
 神武天皇が、宇陀のあたりにやってきたときに、どうして、尾があるのか判りませんが、大磐押しのけてやって来た人のことが古事記に書かれています。天皇がお前たちは、誰かと聞かれたら、神武天皇が来られるのを知っていたと言ったことになっています。
 これと似た話があります。
ニニギに命が、天孫降臨した時に、分かれ道がおおいところでニニギの命を待っていた神がいました。この神も、ニニギ命が高天原から降りてくるの知っていて、待っていたと言ったことになっています。
 国栖の人は神武天皇が来る前から、知っていたことになります。

さて、本題に入ります。
吉野の宮滝から、上流に少し上りますと、菜摘、矢治の地名が見えます。その他に、樫尾、国栖があります。
樫尾の「尾」が、さきほど書きました「尾のある国栖の人たち」かも知れません。(樫尾は、鹿塩かもしれません。どなたか考えてください)
問題は、この国栖のことです。ここに、浄見原神社があります。どこかで聞いたことのある名前です。天武天皇が、天皇になった時に定めた宮の名前が、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや)です。
 
吉野町観光課の説明よりますと、次の様に書かれています。
 【吉野は古く、古事記・日本書紀の神代編にその名を現します。古代の吉野は今の吉野山を指していたのではなく、吉野川沿岸の地域をそう呼んでいました。
 古事記日本書紀に書かれていることが、そのまま歴史的事実とは言えませんが、記紀に伝える模様を裏付けるように、縄文弥生式の土器や、そのころの生活状態を推定させる、狩猟の道具がこの付近からも発掘されています。
 記紀には「神武天皇がこの辺りへさしかかると、尾のある人が岩を押し分けて出てきたので、おまえは誰かと尋ねると、今天津神の御子が来られると聞いたので、お迎えに参りました、と答えました。これが吉野の国栖の祖である」という記載があり、古い先住者の様子を伝えています。
 又、記紀の応神天皇(今から約1600年前の条に、天皇が吉野の宮(宮滝)に来られたとき、国栖の人びとが来て一夜酒をつくり、歌舞を見せたのが、今に伝わる国栖奏の初まりとされています。
 さらに、今から1300年ほど昔、天智天皇の跡を継ぐ問題がこじれて戦乱が起りました。世にいう壬申の乱で、天智天皇の弟の大海人皇子は、ここ吉野に兵を挙げ、天智天皇の皇子、大友皇子と対立しました。
 戦は約一ケ月で終わり、大海人皇子が勝って天武天皇となりました。
 この大海人皇子が挙兵したとき、国栖の人は皇子に味方して敵の目から皇子をかくまい、また慰めのために一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供して歌舞を奏しました。これを見た皇子はとても喜ばれて、国栖の翁よ、と呼ばれたので、この舞を翁舞と言うようになり、代々受け継がれて、毎年旧正月14日に天武天皇を祭る、ここ浄見原神社で奉納され、奈良県無形文化財に指定されています】

 由緒はなく、いつから神社があったかは分かりませんが、案外、地名は古くからあったのかも知れません。そうなりますと、地名は「国栖」ではなく、「浄見原」だったかも知れません。
吉野町観光課の説明を読んでいますと、由緒は判らないので、関連したことを書いておられます。全体の雰囲気は、国栖奏の奉納のことが主になっていますから、飛鳥浄御原宮が先にあって、その後、浄見原神社が出来た感じを受けますが、逆で、浄見原から、飛鳥浄御原宮の名前が付けられたかもしれません。

壬申の乱の時は、進軍したであろうコースから離れていますから、浄見原神社のある国栖は寄らなかったと思いますが、この辺りは、式内社はなく、藤原氏の勢力範囲で無かったことになります。
ただ、藤原氏の勢力範囲で無かったのではなく、神武天皇がやって来た時、以前に関係があったことになります。
 絹を運んでいたルートだったのではないかという仮説になります。
だから、国栖の人たちは、神武天皇をお迎えし、東征を助けたと思われます。

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