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No473天孫降臨(46)  シルクロード (3) [日本大好き]

ついでですから、もう少し書いてみます。秦の時代も、漢の時代も、匈奴の侵略を受け、それを撃退はしていましたが、何処までも追跡することはしなかったのでしょうか? 敵の様子を偵察するのと、月氏国とで挟み打ちをする気持ちはあってもおかしくありません。
張騫が派遣されたのは、いつのことかと云いますと、紀元前139年とされています。

此の時に、おかしなことを書いてある方もおられます。
「漢では大月氏に対して、対匈奴の同盟を説く使者を募集しており、張騫はこれに自薦して見事に選ばれた」と書いておられます。と云う事は、危険承知の使節団であったことが判ります。
 漢の勢力圏である隴西(今の甘粛省)から出た直後に匈奴に捕らえられます。ここでは、10年間捉えられましたが、妻もも与えられ、子供もできましたが、逃げ出し中国へ帰っています。
 
『ウィキペディア(Wikipedia)』は、次の様にも書いています。「張騫が西域を旅している途中で蜀(四川)名産の竹と布を現地の人が持っているのを見てどうやって手に入れたのかを聞いた所、身毒(しんどく。インドを指す)の商人から買ったと言う。このことにより蜀から雲南→ビルマを通ってインドへと繋がるルートがあることを知った張騫は武帝に対して雲南を漢の支配下に入れ、このルートを通じて西域と繋がり、匈奴へ対抗することを長安に帰ってきた直後から何度も進言した。」
 なぜ、このように、張騫のことは詳しく書かれていますが、絹のことはあまり書かれていません。
「張騫の部下は遠く安息(パルティア)にまで達した」と書いてあるものもあります。
 安息(パルティア)は、当時、インドから回っても、天山南路を通っても、重要な所であったことが判ります。
 張騫よりまだ以前に、パルティアから絹を運んでくるユダヤ人がいたのでしょう。逆に、日本から絹を運ぶユダヤ人がいることを秦の始皇帝は知っていたからこそ、徐福を派遣したと思われます。
 素晴らしい国が、海の向こうにある噂を聞いたのは、始皇帝だけではありませんでした。
 それは、天照大御神や須佐之男命や月読命でした。この三人は、匈奴や漢人に追いやられて、文化の高い日本へ移住する決心をしました。絹があるからではありません。気候が温暖で住みやすく、高い文化があったからだと思います。
 彼らの前に、日本へやって来た人たちがいました。その人たちの名前は、古事記の最初の方に書いてあります。
 その中の伊弉諾神と伊弉諾神が、高天原に都を定め、全国制覇を行います。
伊弉諾神と伊弉諾神には、沢山の子供が生まれます。その中の特別に素晴らしい子供として、先ほどの天照大御神や須佐之男命や月読命が、三貴人として、古事記に記るされています。

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