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No472天孫降臨(45)  シルクロード (2) [日本大好き]

前回、シルクロードについて書こうと思いながら、脱線しました。張騫の遠征の話を書くつもりでした。
 張騫のことを書くと云いましても、中国の歴史を知りませんので、泥縄ですが、この辺りの歴史を過剰書きに書いてみます。
 
①紀元前403年前で、~221年で韓・魏・趙・燕・斉・楚・秦の「戦国の七雄」が広い中国を割拠。
② 221年中国を統一 (秦の始皇帝)
③ 楚の項羽,劉邦などが挙兵し,秦を滅ぼす。
④202年 劉邦が項羽を破り,中国を統一
⑤ 武帝 〔第7代の皇帝(在位前141~前87)。〕は,匈奴を討つ計画をたて,漢と協力しその背後から匈奴を攻撃する同盟の相手に,イリ地方にいた月氏を選び,使節を派遣することにした。張騫は,使節募集に応じ,前139年(建元2)ごろ,従者100余人とともに出発した。

上に書きましたものは、WEBからお借りしました。 すべて、出所が記されていませんので、どれほど、正確であるか判りません。張騫のことも、結構詳しく書かれていますが、信用できるかどうか分かりません。
 
 「従者100余人とともに出発した」とあります。ともに出発したと云う事は、どう言うことでしょうか? 荒野を何日も過ごせるように、食糧運搬の人たちでしょうか? 

匈奴というか、北方の民族が攻め入ることは、常であったらしく、それぞれの集落では、城壁というか、防護塀を作っていたらしいです。全部、連なっていたわけではないので、すべてを連ねて、しかも現在残っているような堅固な城壁(万里の長城)を完成させたのが、秦の始皇帝とされています。その後も、北からの侵入が続けられたらしく、漢の7代の武帝が、匈奴をやっつけるために、挟みうちにしようと、月氏に交渉に出かけたとなっています。
 ところが、張騫一向は、匈奴の捕虜となり、10年間囚われの身にありました。脱出を試み、逃げ出しますが、殆ど仲間はいなかったことになっています。

出所は確かでありませんが、多くの書かれた文章には、その後、シルクロードを通じて、絹の移動が活発になったと書かれています。同じ、表現が多いところを見ると出所は、同じと思われます。

私が考えますのには、あまり根拠はないのですが、月氏は、匈奴に攻撃され北と南に分かれて逃げたのではないかと思います。現在、クチャという町が、月氏がいたところではないかと思っているのです。この町は仏教国であったらしく、遺跡は残っていますが、現在はイスラム教を信じる人が多いそうです。
 国を手放して逃げたと思われます。 南へ逃げて来た人たちが、日本へやって来て、仏像はなかったのですが、仏教の考え方などを伝えたのではないか、最も、いくつかの証拠らしいものはあります。山の名前をつけたときに、「セン」と呼んでいました。大山や弥山です。岡山、鳥取に多くあります。

 最近は、本当のことでないかと言われているものに、「徐福の伝説」があります。秦の始皇帝が、不老長寿の薬を見つけてくるように、徐福と言う人を派遣したという言い伝えがあります。 
 3000人ほどの老若男女を派遣したことと、どうやら、はじめから日本を目指して派遣したことが大切です。当時、不老長寿の薬と思われていた節のあの水銀が日本には豊富であったこと。3000人ほどの老若男女という編成は、不老長寿の薬を見つけるためではなく、日本は、どのような国であったかは、知っていた上で、移民もしくは、支配するのが目的であったかも知れないと想像しています。日本全国に、上陸したという所が残っています。

さて、問題の張騫は、徐福の頃より、60年ほど後のことになります。

 【武帝 〔第7代の皇帝(在位前141~前87)。〕は,匈奴を討つ計画をたて,漢と協力しその背後から匈奴を攻撃する同盟の相手に,イリ地方にいた月氏を選び,使節を派遣することにした】
 と書かれていますが、武帝は、北方のことは、あまり知らなかったのではないでしょうか? 
 秦の始皇帝は、どうして、日本を知っていたかと言いますと、日本へ行ききする人たちが、西安を通過していたのでしょう。
 
 瓊瓊芸命の兄は、火明命といい、京都府の天橋立のところに降臨したとされています。ここにある籠神社の祭神になっています。この神社には、二つの鏡が残されていますが、一枚は前漢の制作であることが判っています。
 確かなことは判りませんが、瓊瓊芸命が鳥取県の高千穂に降臨したときは、紀元前150年前後ではないかと考えています。
 この頃、高千穂のあたりは、伯耆国と呼ばれていましたが、この辺りの神社には、古事記に登場する神々がいっぱい祀られています。
 前回書きましたインド経由のシルクロードではなく、クチャを回る絹の道が、紀元前200年ころから、利用されていたと考えています。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、
「シルクロードという語は、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『シナ China 』(1巻、1877年)においてザイデンシュトラーセンSeidenstrassen (ドイツ語で「絹の道」の意)として使用したのが最初で、彼の弟子ヘディンがその中央アジア旅行記の一つの書名にこの言葉を使用し、・・・」と記されている通り、特定の道が存在したわけではありません。

同じ道を経由して、インドから仏教が伝えられたと思われます。このように考えますと、
仏教の思想は、中国より、日本の方が先に伝わったのかも知れません。

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