No817神武東征(266) 神武天皇(209) 大物主大神(37) 日吉津村(19) [日本大好き]
前回の続きを記します。
手元に古事記を持っておられましたら、原文がどのように書いてあるか。翻訳文はどのようになっているか確かめてください。
原文
此者在美濃國藍見河之河上喪山之者也。其持所切大刀名謂大量。亦名謂神度劍【度字以音】故阿治志貴高日子根神者忿而飛去之時。其伊呂妹高比賣命。思顯其御名。故歌曰。阿米那流夜。淤登多那婆多能。宇那賀世流。多麻能美須麻流。美須麻流迩。阿那陀麻波夜。美多迩布多和多良須。阿治志貴。多迦比古泥能迦微曾 此歌者夷振也。
読み下し
此れは、美濃國藍見河の河上に在る喪山はこれなる也。其の持つ所の切れる大刀の名は大量と謂う。亦の名は神度劍と謂う。そして、阿治志貴高日子根神が忿(オコ)って、飛び去る時。其の伊呂妹(イロモ)の高比賣命、其の御名を顯(アラ)わそうと思って、そこで、歌って言いました。
阿米那流夜(アメナルヤ) 淤登多那婆多能(オトタナバタノ) 宇那賀世流(ウナガセル) 多麻能美須麻流(タマノミスマル) 美須麻流迩(ミスマルニ) 阿那陀麻波夜(アナタマハヤ) 美多迩布多和多良須(ミタニフタワラス) 阿治志貴(アジシキ) 多迦比古泥能迦微曾(タカヒコネノカミソ) と歌いました。
此の歌は 夷振(ヒナブリ)也。
検討します。
①「此者在美濃國藍見河之河上喪山之者也」 この文章は奇怪なる文章です。阿治志貴高日子根神が、死人と間違えられたと怒って、十握剣を使って、喪屋を叩き切りました。そして、急に、この文があります。その後は、太刀のことが記されていて、全く、関係ありません。
この文章の前後は、誰かが、抹消したことになります。ついでに、この文章も消せばいいのに、残しました。この文章と同じことが、日本書紀にあります。
「乃拔十握劒斫倒喪屋。其屋墮而成山。此則美濃國喪山是也」
このことから、日本書紀の編纂に関わった人が、古事記に細工をしたことがわかります。
この文章からですと、阿治志貴高日子根神は、弔いに美濃國藍見河に行ったことになります。
死んだ天若日子は、アマテラスの命令で、葦原中国の平定をするために、大国主命のところに派遣されました。美濃國藍見河のような山の中ではなく、葦原の茂っているところです。
古事記には、「会見(アイミ郡)の河上の喪山」と書かれていたのでしょう。会見を藍見河と書き改めるだけでは、判らなかったらいけないので、美濃国と付け加えました。
「会見(アイミ郡)の河上の喪山」とは、何のことだと云うことになると思います。
ウィキペディアによりますと
会見郡(あいみのこおり・あいみぐん・おうみのこうり)は伯耆国にかつて存在した郡である。『伯耆国風土記』逸文、『和名抄』などでは相見と記され、「あふみ」(おうみ)の訓が付けられている。古代から中世にかけては会見もしくは相見と両方の表記が存在し、会見(あいみ)の表記に統一されたのは近世以降である。
この会見郡という郡の名前がどうして、付けられることになったかは分かりません。地名に「墓」がつく所は、現在では少ないですが、昔は多かったのではないかと想像しています。
確か、現在では、14件ほどだったと思いますが、鳥取県の溝口町の西に「御墓原」という地名が残っています。その近くに、〔高姫〕という地名もあります。偶然かも知れませんが、阿治志貴高日子根神の妹の名前が、〔高姫〕です。
【No46 黄泉の国の第二病院】
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2006/11/no46__c628.html
に、「御墓原」は伝染病の隔離病院であることを書く気になっていましたが、こんな突拍子もない話は、どなたにも理解して頂けませんでした。
このページを下にスクロールして頂きますと、〔ココログ〕と書いた所があります。この上に検索する所がありますから、〔▼〕をクリックし、〔このブログ内の検索を撰び〕、キーワードに「御墓原」を入れてください。 なにを書いたか忘れましたが、一杯でてきます。
当時でも、伝染病で多くの人が一度に死んでしまうことは有ったのではないかと想像して今ます。その時は、厖大なお墓が必要になります。
倭の五王は柏原市に居た?
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page851.html
この中に書いておきましたが、高井田横穴公園となっている中に、200基ほどの古墳があります。感じは、古墳というよりは、洞窟といった感じです。はじめは、これだけ、多くの人が死ぬほどの戦いがあったのだと考え、〔タイトル〕も倭の五王と関係があるのかと考え〔倭の五王〕ました。
あまりにも、多くの人が死んだ時は、洞窟へドンドン、葬ったのではないかと想を入れました。
日本書紀では、喪屋を切り倒すと、喪屋は天から地上に落ちて山になったとあります。と云うことは、喪山とは上手く表現したものです。高井田横穴のようなものを喪山と太安万侶は名付けたのでしょう。
古事記の表現では、天高原は、美濃國藍見河の真上にあることになります。日本書紀の表現では、お葬式は、天高原で行われたが、阿治志貴高日子根神が、喪屋を壊したら、下界まで落ちて行った山になった。それが「喪山」だと記しました。
伯耆の国の会見の御墓原という所は、入院先でもあり、死んだら、直ぐに喪屋が作られたところでもあり、黄泉の国でもあったわけです。 そうかと思えば、古事記に書いてあるように、最後の別れに会いに行く所だったために、会見という地名が残ったと稗田阿礼は思いながら、訪問したと考えています。
日本書紀の編集者は、お葬式のあったところを高天原だと書いておきながら、その場所は美濃國の喪山だと書きました。
そうかと思えば、高天原は、九州の日向だと書いています。
そうではなく、古事記は、伯耆の国にあったことを書こうとしましたが、日本書紀の編集者は証拠を無くそうとしました。 天孫族が伯耆国とかんけいあることは、全て無くそうとしたと推理しています。
現在、鳥取県には、藍見河も、藍見という地名も有りません。
このように、隠したく思ったということは、「葦原中国は、伯耆の国にあった」ことの証明するようなものです。
②伊呂妹(イロモ)の高比賣命は、阿治志貴高日子根神と同じ母の妹。
③「其の御名」の御名は、阿治志貴高日子根神のことでしょう。
④歌の部分は、岩波文庫の訳によりますと、
天(アメ)なるや 弟棚機(オトタナバタ)の 項(ウナ)がせる 玉の御統(ミスマル)
御統に 穴玉はや み谷 二渡らす 阿治志貴高 日子根の神ぞ
注釈として、次の文があります。
天上界にいるうら若い機織女が、頸にかけておいでの、一本の
緒に貫き統べた首飾りの玉。首飾りの玉よ、ああ。その玉のよう
に谷二つにも渡って照り輝いておいでのアジキタカヒコネの神である。
この歌は雷神の電光を讃嘆したもの。
とあります。注釈を読んでも何のことか理解できません。
この歌と同じものが、日本書紀にも収録されています。日本書紀では、もう一首の歌が書かれています。これをどのように解釈したらいいのか、迷うところです。
⑤「其持所切大刀名謂大量」の「大量」は、「おほはかり」と、岩波文庫の訳では、振り仮名があります。
⑥会見町の御墓原の西の方に、「高姫」という地名があります。「高比売」との関係は?
参考に、日本書紀の同じ部分の原文を挙げておきます。
故味耜高彦根神登天弔喪大臨焉。時此神形貎自與天稚彦恰然相似。故天稚彦妻子等見而喜之曰。吾君猶在。則攀持衣帶不可排離。時味耜高彦根神忿曰。朋友喪亡。故吾即來弔。如何誤死人於我耶。乃拔十握劒斫倒喪屋。其屋墮而成山。此則美濃國喪山是也。世人惡以死者誤己、此其縁也。時味耜高彦根神光儀華艶映于二丘二谷之間。故喪會者歌之曰。或云。味耜高彦根神之妹下照媛。欲令衆人知映丘谷者。是味耜高彦根神。故歌之曰。阿妹奈屡夜。乙登多奈婆多廼。汚奈餓勢屡。多磨廼彌素磨屡廼。阿奈陀磨波夜。彌多爾輔■和■邏須。阿泥素企多伽避顧禰。又歌之曰。阿磨佐箇屡。避奈菟謎廼。以和多邏素西渡。以嗣箇播箇■輔智。箇多輔智爾。阿彌播利和■嗣。妹慮豫嗣爾。豫嗣豫利據禰。以嗣箇播箇■輔智。此兩首歌辭今號夷曲。』
手元に古事記を持っておられましたら、原文がどのように書いてあるか。翻訳文はどのようになっているか確かめてください。
原文
此者在美濃國藍見河之河上喪山之者也。其持所切大刀名謂大量。亦名謂神度劍【度字以音】故阿治志貴高日子根神者忿而飛去之時。其伊呂妹高比賣命。思顯其御名。故歌曰。阿米那流夜。淤登多那婆多能。宇那賀世流。多麻能美須麻流。美須麻流迩。阿那陀麻波夜。美多迩布多和多良須。阿治志貴。多迦比古泥能迦微曾 此歌者夷振也。
読み下し
此れは、美濃國藍見河の河上に在る喪山はこれなる也。其の持つ所の切れる大刀の名は大量と謂う。亦の名は神度劍と謂う。そして、阿治志貴高日子根神が忿(オコ)って、飛び去る時。其の伊呂妹(イロモ)の高比賣命、其の御名を顯(アラ)わそうと思って、そこで、歌って言いました。
阿米那流夜(アメナルヤ) 淤登多那婆多能(オトタナバタノ) 宇那賀世流(ウナガセル) 多麻能美須麻流(タマノミスマル) 美須麻流迩(ミスマルニ) 阿那陀麻波夜(アナタマハヤ) 美多迩布多和多良須(ミタニフタワラス) 阿治志貴(アジシキ) 多迦比古泥能迦微曾(タカヒコネノカミソ) と歌いました。
此の歌は 夷振(ヒナブリ)也。
検討します。
①「此者在美濃國藍見河之河上喪山之者也」 この文章は奇怪なる文章です。阿治志貴高日子根神が、死人と間違えられたと怒って、十握剣を使って、喪屋を叩き切りました。そして、急に、この文があります。その後は、太刀のことが記されていて、全く、関係ありません。
この文章の前後は、誰かが、抹消したことになります。ついでに、この文章も消せばいいのに、残しました。この文章と同じことが、日本書紀にあります。
「乃拔十握劒斫倒喪屋。其屋墮而成山。此則美濃國喪山是也」
このことから、日本書紀の編纂に関わった人が、古事記に細工をしたことがわかります。
この文章からですと、阿治志貴高日子根神は、弔いに美濃國藍見河に行ったことになります。
死んだ天若日子は、アマテラスの命令で、葦原中国の平定をするために、大国主命のところに派遣されました。美濃國藍見河のような山の中ではなく、葦原の茂っているところです。
古事記には、「会見(アイミ郡)の河上の喪山」と書かれていたのでしょう。会見を藍見河と書き改めるだけでは、判らなかったらいけないので、美濃国と付け加えました。
「会見(アイミ郡)の河上の喪山」とは、何のことだと云うことになると思います。
ウィキペディアによりますと
会見郡(あいみのこおり・あいみぐん・おうみのこうり)は伯耆国にかつて存在した郡である。『伯耆国風土記』逸文、『和名抄』などでは相見と記され、「あふみ」(おうみ)の訓が付けられている。古代から中世にかけては会見もしくは相見と両方の表記が存在し、会見(あいみ)の表記に統一されたのは近世以降である。
この会見郡という郡の名前がどうして、付けられることになったかは分かりません。地名に「墓」がつく所は、現在では少ないですが、昔は多かったのではないかと想像しています。
確か、現在では、14件ほどだったと思いますが、鳥取県の溝口町の西に「御墓原」という地名が残っています。その近くに、〔高姫〕という地名もあります。偶然かも知れませんが、阿治志貴高日子根神の妹の名前が、〔高姫〕です。
【No46 黄泉の国の第二病院】
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2006/11/no46__c628.html
に、「御墓原」は伝染病の隔離病院であることを書く気になっていましたが、こんな突拍子もない話は、どなたにも理解して頂けませんでした。
このページを下にスクロールして頂きますと、〔ココログ〕と書いた所があります。この上に検索する所がありますから、〔▼〕をクリックし、〔このブログ内の検索を撰び〕、キーワードに「御墓原」を入れてください。 なにを書いたか忘れましたが、一杯でてきます。
当時でも、伝染病で多くの人が一度に死んでしまうことは有ったのではないかと想像して今ます。その時は、厖大なお墓が必要になります。
倭の五王は柏原市に居た?
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page851.html
この中に書いておきましたが、高井田横穴公園となっている中に、200基ほどの古墳があります。感じは、古墳というよりは、洞窟といった感じです。はじめは、これだけ、多くの人が死ぬほどの戦いがあったのだと考え、〔タイトル〕も倭の五王と関係があるのかと考え〔倭の五王〕ました。
あまりにも、多くの人が死んだ時は、洞窟へドンドン、葬ったのではないかと想を入れました。
日本書紀では、喪屋を切り倒すと、喪屋は天から地上に落ちて山になったとあります。と云うことは、喪山とは上手く表現したものです。高井田横穴のようなものを喪山と太安万侶は名付けたのでしょう。
古事記の表現では、天高原は、美濃國藍見河の真上にあることになります。日本書紀の表現では、お葬式は、天高原で行われたが、阿治志貴高日子根神が、喪屋を壊したら、下界まで落ちて行った山になった。それが「喪山」だと記しました。
伯耆の国の会見の御墓原という所は、入院先でもあり、死んだら、直ぐに喪屋が作られたところでもあり、黄泉の国でもあったわけです。 そうかと思えば、古事記に書いてあるように、最後の別れに会いに行く所だったために、会見という地名が残ったと稗田阿礼は思いながら、訪問したと考えています。
日本書紀の編集者は、お葬式のあったところを高天原だと書いておきながら、その場所は美濃國の喪山だと書きました。
そうかと思えば、高天原は、九州の日向だと書いています。
そうではなく、古事記は、伯耆の国にあったことを書こうとしましたが、日本書紀の編集者は証拠を無くそうとしました。 天孫族が伯耆国とかんけいあることは、全て無くそうとしたと推理しています。
現在、鳥取県には、藍見河も、藍見という地名も有りません。
このように、隠したく思ったということは、「葦原中国は、伯耆の国にあった」ことの証明するようなものです。
②伊呂妹(イロモ)の高比賣命は、阿治志貴高日子根神と同じ母の妹。
③「其の御名」の御名は、阿治志貴高日子根神のことでしょう。
④歌の部分は、岩波文庫の訳によりますと、
天(アメ)なるや 弟棚機(オトタナバタ)の 項(ウナ)がせる 玉の御統(ミスマル)
御統に 穴玉はや み谷 二渡らす 阿治志貴高 日子根の神ぞ
注釈として、次の文があります。
天上界にいるうら若い機織女が、頸にかけておいでの、一本の
緒に貫き統べた首飾りの玉。首飾りの玉よ、ああ。その玉のよう
に谷二つにも渡って照り輝いておいでのアジキタカヒコネの神である。
この歌は雷神の電光を讃嘆したもの。
とあります。注釈を読んでも何のことか理解できません。
この歌と同じものが、日本書紀にも収録されています。日本書紀では、もう一首の歌が書かれています。これをどのように解釈したらいいのか、迷うところです。
⑤「其持所切大刀名謂大量」の「大量」は、「おほはかり」と、岩波文庫の訳では、振り仮名があります。
⑥会見町の御墓原の西の方に、「高姫」という地名があります。「高比売」との関係は?
参考に、日本書紀の同じ部分の原文を挙げておきます。
故味耜高彦根神登天弔喪大臨焉。時此神形貎自與天稚彦恰然相似。故天稚彦妻子等見而喜之曰。吾君猶在。則攀持衣帶不可排離。時味耜高彦根神忿曰。朋友喪亡。故吾即來弔。如何誤死人於我耶。乃拔十握劒斫倒喪屋。其屋墮而成山。此則美濃國喪山是也。世人惡以死者誤己、此其縁也。時味耜高彦根神光儀華艶映于二丘二谷之間。故喪會者歌之曰。或云。味耜高彦根神之妹下照媛。欲令衆人知映丘谷者。是味耜高彦根神。故歌之曰。阿妹奈屡夜。乙登多奈婆多廼。汚奈餓勢屡。多磨廼彌素磨屡廼。阿奈陀磨波夜。彌多爾輔■和■邏須。阿泥素企多伽避顧禰。又歌之曰。阿磨佐箇屡。避奈菟謎廼。以和多邏素西渡。以嗣箇播箇■輔智。箇多輔智爾。阿彌播利和■嗣。妹慮豫嗣爾。豫嗣豫利據禰。以嗣箇播箇■輔智。此兩首歌辭今號夷曲。』
2010-08-01 02:29
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