歴史各論 勾玉(46) 勾玉製造元(35)ヒスイ製勾玉(25) 湯迫車塚古墳(8) [日本大好き]
岡山県にある古墳を前回、書き出しました。しかし、古墳の数は、こんなものではありません。どうして、こんなに多いのかは、余り話題になっていません。なぜ多いのかの理由は簡単です。沢山住んでいたからです。その上に死ぬ人が多かったからです。
どうして、沢山住んでいたのかと云いますと、自然に増えたのではなく、九州から移動して来たのではないか考えています。
①~⑳ までのうち、誰が九州からやって来たかと云いますと、
⑥と⑮ではないかと思います。
⑥は、造山古墳です。造山古墳については、精しいことは分っていません。
特徴は http://www.bell.jp/pancho/travel/kibiji/tukuriyama-a.htmに書いてあります。
全長約350~360mを測る全国第4位の巨大古墳
つぎは、陪塚といわれている6つの古墳があること。
次は、高さ27mの前方部の頂上に荒神社があり、その社の前には石を刳りぬいた石棺の身が置かれていることです。
この石棺は、どこにあったものか判りませんが、普通に考えますと、造山古墳のものでしょう。形は、畿内的な組み合せ式の長持形石棺に似せているが、材質は九州阿蘇山系の凝灰岩で、形態も九州系の石棺に似ているという。
全国第4位の巨大古墳であるということは、意識して大きく作ったということでしょう。
誰を意識して大きい古墳を造ったのかです。
次のページは、前方後円墳の大きいものを一覧表にしたものです。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page017.html
箸墓古墳と五色塚古墳を青色にしておきました。この二つの古墳を実際に見て、これより大きいものを作ってみようと思ったと単純に考えました。
造山古墳の被葬者は、岡山に居たのですが、箸墓古墳も五色塚古墳も見たと考えています。と言うことは、ここより、東へ旅をしていた筈だと推理しています。
似たような名前の古墳があります。⑨の作山古墳です。 岡山県惣社市にあります。
この古墳は、独立した小さい丘陵を加工した、三段築成の前方後円墳である。各段には密接した円筒埴輪が立ち並んでいたと推測されており、斜面は角礫が葺かれている。北側(前方部から見て左側)に造り出しがある。外周には周濠がない。後円部の外周には幅約20メートルの段が巡っていた。前方部前面と南東部に小さな丘が残っていて見栄えに欠け、また、巨大古墳としては陪塚が伴っていない。
作山古墳も、精しいことは分っていませんが、独立した小さい丘陵を加工したということは、造山古墳よりは、造るときには、技術的には、楽だったと思われます。巨大古墳としては陪塚を作らなかったのは、箸墓古墳も五色塚古墳も陪塚を持たなかったからではないかと思います。
造山古墳は、6つの陪塚を造った理由は、箸墓古墳も五色塚古墳と比較したのではなく、陪塚を持っている古墳を意識したことになります。
造山古墳は、4番目に大きい古墳ですから、それより大きい古墳としますと、大仙陵古墳と誉田御廟山古墳と上石津ミンザイ古墳を意識したことにしますと、3つとも、陪塚を持っていたから、造山古墳も陪塚を造ったとなるのですが、参考にしたにしては、大仙陵古墳と誉田御廟山古墳と上石津ミンザイ古墳よりも、小さい古墳になっています。
これでは競争したことになりません。
⑤河内大塚古墳~⑧土師ニサンザイ古墳の5つの古墳のどれかを参考にしたことになります。
ウィキペディアに拠れば、
河内大塚古墳は 6世紀後半
見瀬丸山古墳は、6世紀後半
渋谷向山古墳 4世紀後半
土師ニサンザイ古墳 5世紀後半
上記の古墳のうち、どれかを参考にした可能性があるのですが、どれも、陪塚を持っていないのと、時代が、私が考える造山古墳の時代とは合いません。
私が間違っているのかも知れませんが、次回に、私が考えている時代を示してみようと思います。
どうして、沢山住んでいたのかと云いますと、自然に増えたのではなく、九州から移動して来たのではないか考えています。
①~⑳ までのうち、誰が九州からやって来たかと云いますと、
⑥と⑮ではないかと思います。
⑥は、造山古墳です。造山古墳については、精しいことは分っていません。
特徴は http://www.bell.jp/pancho/travel/kibiji/tukuriyama-a.htmに書いてあります。
全長約350~360mを測る全国第4位の巨大古墳
つぎは、陪塚といわれている6つの古墳があること。
次は、高さ27mの前方部の頂上に荒神社があり、その社の前には石を刳りぬいた石棺の身が置かれていることです。
この石棺は、どこにあったものか判りませんが、普通に考えますと、造山古墳のものでしょう。形は、畿内的な組み合せ式の長持形石棺に似せているが、材質は九州阿蘇山系の凝灰岩で、形態も九州系の石棺に似ているという。
全国第4位の巨大古墳であるということは、意識して大きく作ったということでしょう。
誰を意識して大きい古墳を造ったのかです。
次のページは、前方後円墳の大きいものを一覧表にしたものです。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page017.html
箸墓古墳と五色塚古墳を青色にしておきました。この二つの古墳を実際に見て、これより大きいものを作ってみようと思ったと単純に考えました。
造山古墳の被葬者は、岡山に居たのですが、箸墓古墳も五色塚古墳も見たと考えています。と言うことは、ここより、東へ旅をしていた筈だと推理しています。
似たような名前の古墳があります。⑨の作山古墳です。 岡山県惣社市にあります。
この古墳は、独立した小さい丘陵を加工した、三段築成の前方後円墳である。各段には密接した円筒埴輪が立ち並んでいたと推測されており、斜面は角礫が葺かれている。北側(前方部から見て左側)に造り出しがある。外周には周濠がない。後円部の外周には幅約20メートルの段が巡っていた。前方部前面と南東部に小さな丘が残っていて見栄えに欠け、また、巨大古墳としては陪塚が伴っていない。
作山古墳も、精しいことは分っていませんが、独立した小さい丘陵を加工したということは、造山古墳よりは、造るときには、技術的には、楽だったと思われます。巨大古墳としては陪塚を作らなかったのは、箸墓古墳も五色塚古墳も陪塚を持たなかったからではないかと思います。
造山古墳は、6つの陪塚を造った理由は、箸墓古墳も五色塚古墳と比較したのではなく、陪塚を持っている古墳を意識したことになります。
造山古墳は、4番目に大きい古墳ですから、それより大きい古墳としますと、大仙陵古墳と誉田御廟山古墳と上石津ミンザイ古墳を意識したことにしますと、3つとも、陪塚を持っていたから、造山古墳も陪塚を造ったとなるのですが、参考にしたにしては、大仙陵古墳と誉田御廟山古墳と上石津ミンザイ古墳よりも、小さい古墳になっています。
これでは競争したことになりません。
⑤河内大塚古墳~⑧土師ニサンザイ古墳の5つの古墳のどれかを参考にしたことになります。
ウィキペディアに拠れば、
河内大塚古墳は 6世紀後半
見瀬丸山古墳は、6世紀後半
渋谷向山古墳 4世紀後半
土師ニサンザイ古墳 5世紀後半
上記の古墳のうち、どれかを参考にした可能性があるのですが、どれも、陪塚を持っていないのと、時代が、私が考える造山古墳の時代とは合いません。
私が間違っているのかも知れませんが、次回に、私が考えている時代を示してみようと思います。
2011-07-14 03:25
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