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歴史各論  勾玉(47)  勾玉製造元(36)ヒスイ製勾玉(26) 造山古墳 [日本大好き]

造山古墳の被葬者はだれか。 ウィキペディアによると、

 大きさから古代吉備にヤマト王権に対抗しうる、または、拮抗した強力な王権(吉備政権)があったとする見解もある。一方で、吉備の首長ではなく、中央の大和王権が造った古墳であり、その被葬者も倭王の一人ではないかと見ている研究者[2]もいる。

この文章はいい加減ですね。造山古墳が何時できたか分らないのに、そのころに、中央にヤマト王権というものがあったと書いてあります。中央とはどこかは書いてありません。
ヤマト王権があったことにします。そのヤマト王権に対抗しうる強力な王権が吉備にあった、これを吉備政権という、こうした見解がある。 どなたの見解でしょうか。
 いや、そうではなく、〔中央の大和王権が造った古墳〕。外に、大和王権が造ったという古墳はあるのでしょうか。倭王かも知れないとも書いてあります。と言うことは、倭王は、大和政権の中の一人である。言い換えますと、天皇だということになります。
 この3つに、どこか共通点があるのかと云いますと、全く、有りません。
 いい加減なものです。

 他人の悪口を書いてどうするのだといいますと、これから書く私の話も、これといい勝負の話なので、風当りを減らそうという魂胆です。

 ウィキペディアの担当者は、古墳の大きさからだけの判断で、上に書いたようなことを書かれました。

 全国の前方後円墳の一覧表をご覧ください。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page017.html 私はいい加減な仮説を立てて、此れが正しいかどうかを眺めてみようと思っています。
多くの古墳が3世紀を中心に、全国的に造られたのは、五色塚古墳と箸墓古墳とを実際に見た人が、自分もこのような古墳を造りたいと思ったのではないかと考えました。
 箸墓古墳は、⑫です。これより上に書いてある古墳は、桁違いに大きい古墳です。

 造山古墳の被葬者は、その上には、三人しかいません。どれも天皇のお墓ではないという歴史家が多いために、仁徳天皇陵とは呼ばないで、大仙陵古墳と云われています。 仮に、上位3人のお墓は、天皇のお墓だとしますと、確かに、造山古墳の被葬者は、古代吉備に強力な王権があったと云えると思います。 しかし、3人は、大和(奈良)ではなく、堺と羽曳野ですから、大阪です。
 ウィキペディアの担当者が書いておられるヤマト王権は、奈良の事だと思います。
前方後円墳の一覧表を、下の方へ眼を移しますと、⑪~⑳が、奈良ばかりです。⑯は崇神天皇のお墓ではないと云われる方もおられますが、この辺りの大きな古墳は、天皇のものだろうと考えています。しかし、その周りには、鏡がいっぱい出土した古墳があります。
こうした、 龍王山麓に、実際に住んでいたのは、天皇家以外の人達だと考えています。
 では、崇神天皇は、どこに住んでいたかと云いますと、吉備に住んでいたと思います。景行天皇も、奈良は危険なので奈良には住んでいなかったのではないかと考えています。
 崇神天皇の5年に、伝染病で多くの人が死んだ記事が掲載されていますが、これは、192年の出来事です。従いまして、崇神天皇が居られた時代は、150年から250年ぐらいの間のことになります。
 造山古墳の被葬者は、墓の大きさからのみ判断しますと、確かに、⑪~⑳の人たちと、張り合ったことになります。
 と言うことは、200年前後の人の筈です。ウィキペディアによると、5世紀の築造と書いておられます。 
 私の考えと、200年のずれがあります。
 私の考えと書きましたが、ウィキペディアに書いてある
〔古代吉備にヤマト王権に対抗しうる、または、拮抗した強力な王権(吉備政権)があったとする見解もある〕が正しいことにした分析です。

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