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歴史各論 三角縁神獣鏡(98) 魏志倭人伝(49) 邪馬壹国は、何所に(45)邪馬壹国(4) [三角縁神獣鏡]

魏志倭人伝には、末羅国から始まって、邪馬壹国まで沢山の国が書いてあります。その国を治めていた長官と副官の名前が書いてあります。名前なのか、職種なのか判りませんが、誰一人として、このことについて書いておられる方はありません。そして、外には国の人口が書いてあります。少ない方は、伊都国は千余戸、不弥国の千余家、多いところは、奴国の二万戸、投馬国の五万戸、邪馬壹国の七万戸です。

 伊都国と不弥国を較べてください。千余戸と千余家です。不弥国の方は、建っている家の数です。伊都国は千余戸の方は、世帯数です。建っている家の数は、だれでも、数えればいいことになります。戸数の方は、どうしてわかったのでしょう。

 外の所にも、目を向けます。
奴国の長官は、兜馬觚 副官は卑奴母離です。兜馬觚は中国人でしょうか。卑奴母離は、奴国の守でしょうか。そこに「卑」が付いています。中国人でないことを著しているのでしょうか。卑弥呼の「卑」と同じです。外に、「卑」の付く名前は、対馬国の卑狗と卑奴母離、一大国の卑狗と卑奴母離です。
 この名前を書いたのは、魏志倭人伝の作者の陳寿ですが、報告を受けたのは、卑弥呼の使いとして中国へ行った難升米から報告を受けたのではないでしょうか。
 このようなことなども考えますと、難升米は、卑弥呼の家来ではなく、卑弥呼を捕えて捕虜にしていた説の補強になります。

 千余戸ぐらいですと、調べるのは、難しくはありませんが、七万戸となりますと、どの様にしてしらべたのだろうと、この辺りですでに、疑問がわきます。しかし、七万戸は、七千戸の書き間違いであろうとは云わないで、全て正しいであるということで、検証をすべきだと思われます。

 七万戸とは、一軒の家の中で、家族全員が住んでいるとして、七万家あるということでしょうか。そうではない様に思われます。
先ほど、書きました〔伊都国と不弥国を較べてください。千余戸と千余家です〕で、若し、「戸」と「家」が同じものであれば、かき分ける必要はありません。別に書いたということは、「戸」の方は、大きな家族で会っても、小さな家族集団であっても、一戸は、一戸であると思われます。
 吉野ヶ里遺跡では、いろいろの建物が復元されていました。生活を主体とする建物として、竪穴住居が復元されていましたが、住むには、十五人が限度でしょうか。
 この一戸を表す建物は、復元してなかったように思います。例えば、二軒で一戸と分る。又は、三軒で一戸というような復元の仕方です。

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