東の高天原(36) 西の高天原(29)磐田原台地(27) 国分寺(22) 歴史各論
①対馬や壱岐の方が、隠岐より式内社が少ない理由は判って頂けましたか。無理ではないかと思います。
長い間、日本の歴史は、こうだと教育されて来たからです。
尖閣諸島の問題が、賑やかくなってきました。
尖閣諸島は、戦後、68年、中国のものだと、日本人は、信用おけない人間だと愛国教育を徹底的に教育されてきましたから、当然だと思います。中国では、尖閣諸島で、日本に抗議して、100ヶ所でデモが行われました。デモをしている人は、20代の人ばかりでした。それより下の年代もなく、其れより上の人もいませんでした。
私はこれから日本が、60年かかって、説明しても納得してもらえないと思います。
中国政府系の人が調査をしたという国民の動向が発表されていました。これは、どこまで信用おけるか判りませんが、20代以上の国民、10億人(?) 日本人は信用置けないと思う人が、80% 戦争容認 28%とか、 数字は記憶がいい加減ですが、残念ながら、元々、この様な数字が出ても、中国政府は発表を控えるべきですが、何が何でも、此処まで来ると、尖閣諸島は、100%中国のものとしませんと、共産党の崩壊につながります。
むちゃくちゃ脱線しました。
私は、日本人の歴史観が大いに関係していると考えています。
元に戻ります。
前回、書いた歴史など、100%、納得される方は無いと思います。何故なら、書換えられた歴史は、日本書紀が完成した720年以降、1300年もかかつて、日本人に、教育されたからです。 私のブログに訪問される方は、一日に、50人ぐらいです。偶々、開かれた方もおられるでしょうから、読んで頂いても、ご理解いただける方は居られないと思います。
前回の続きです。
② 対馬と壱岐は、どうして式内社が多いと思われますか
を説明しても意味がない様に思いますが、少しだけ書いて、東の高天原の各論は、お仕舞にしようと思います。
一言で、云いますと、藤原氏が、どの国よりも、対馬と壱岐国を重要視したからだと思っています。
一番気になるのは、「名神大」です。この意味が解らないので、全国にある「名神大」を調べる気になっていますが、体力が有りませんので、最後まで続かないと思います。
神社の社格の下調べ http://www21.atpages.jp/skeikas/page274.htmlをご覧ください。
まだ、少しか、調べていません。ここに書きました神社のことを徹底的に調べても何も判りません。神社に書いてあることは、1300年かかって、その当時の学者と政治家が、考えたことが凝縮されたことが書いてありますから、由緒を理解することは不可能です。
それよりも、実際に全部行って、神社の中で、一時間ほど、ぼっとしていると解決です。
どうでもいいことですが、書くとしますと、「名神大」の偉大さが分かると思います。
一言で、云いますと、藤原氏が、どの国よりも、対馬と壱岐国を重要視したからだ
になります。
どうして、重要視したかは、説明しても意味がない様に思います。敢えて書きますと、
中国人は、日本の絹を中国に運んでいたからです。絹のすべてを中国人が、運んでいたのであれば、このようなことをしなくても良かったのですが、競争相手がいましたから、競争をしなければなりませんでした。
どのような競争をしたかと云いますと、そのようなことは、何所にも書いてありませんから、想像するしかありません。
①生産地、生産者を抑えます。 確実に絹ょを確保すること。
②当初、日本に赴任した時は、どうしても、仲間がたりませんので、生産者を兵隊に仕込んだと考えています。
③生産地、生産者は、絹を奪われることから、守るために、いろいろのことをしました。 その証拠として、残っているのは、環濠集落、高地性集落です。
「高地性集落の謎」http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2010/09/post-aa33.html
③超大型の環濠を持つ遺跡は、中国人のものと考えています。
吉野ヶ里遺跡、唐古・鍵遺跡、池上・曽根遺跡、下之郷遺跡などがそうです。
「環壕集落と高地性集落」 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page570.html
④軍隊をもつようになった
これは規模などは判りませんが、5世紀頃の思われる古墳には、鉄の武器と武具が埋葬されるようになります。
たとえば、大阪府八尾市にある心合寺山古墳 は、大きな古墳ですが、だれが埋葬されているのか判りません。次に写真が有りますので、ごらんください。
http://www.geocities.jp/kuuki_1/trip/050630sionziyamakohun/050630sionziyama.html
後円部の墳長の写真が有ります。3つあります。同時に三人が、亡くなられるとしますと、立の悪い伝染病が発生したか、戦があったかでしょう。その下に出土した写真が有りますが、そこに鉄の鎧が写っています。 古市古墳群で見られるものと同じです。
誰の古墳であるかのヒントは、東にある「神立」の地名と、「高安千塚古墳群」其他、南の柏原市まで、続く遺跡です。
高安千塚古墳群のような、大きな古墳群は、奈良ですと、龍王山古墳群、新沢千塚古墳群が有ります。
私は、ここでは、天皇家と中国人の人たちが、戦争を繰り返したのだと考えています。
全国的な規模では、東の高天原と西の高天原でした。タイトルは、両方を用意しましたが、東の高天原だけで終わってしまいました。
長いこと読んでいただきまして、ありがとう御座いました。
長い間、日本の歴史は、こうだと教育されて来たからです。
尖閣諸島の問題が、賑やかくなってきました。
尖閣諸島は、戦後、68年、中国のものだと、日本人は、信用おけない人間だと愛国教育を徹底的に教育されてきましたから、当然だと思います。中国では、尖閣諸島で、日本に抗議して、100ヶ所でデモが行われました。デモをしている人は、20代の人ばかりでした。それより下の年代もなく、其れより上の人もいませんでした。
私はこれから日本が、60年かかって、説明しても納得してもらえないと思います。
中国政府系の人が調査をしたという国民の動向が発表されていました。これは、どこまで信用おけるか判りませんが、20代以上の国民、10億人(?) 日本人は信用置けないと思う人が、80% 戦争容認 28%とか、 数字は記憶がいい加減ですが、残念ながら、元々、この様な数字が出ても、中国政府は発表を控えるべきですが、何が何でも、此処まで来ると、尖閣諸島は、100%中国のものとしませんと、共産党の崩壊につながります。
むちゃくちゃ脱線しました。
私は、日本人の歴史観が大いに関係していると考えています。
元に戻ります。
前回、書いた歴史など、100%、納得される方は無いと思います。何故なら、書換えられた歴史は、日本書紀が完成した720年以降、1300年もかかつて、日本人に、教育されたからです。 私のブログに訪問される方は、一日に、50人ぐらいです。偶々、開かれた方もおられるでしょうから、読んで頂いても、ご理解いただける方は居られないと思います。
前回の続きです。
② 対馬と壱岐は、どうして式内社が多いと思われますか
を説明しても意味がない様に思いますが、少しだけ書いて、東の高天原の各論は、お仕舞にしようと思います。
一言で、云いますと、藤原氏が、どの国よりも、対馬と壱岐国を重要視したからだと思っています。
一番気になるのは、「名神大」です。この意味が解らないので、全国にある「名神大」を調べる気になっていますが、体力が有りませんので、最後まで続かないと思います。
神社の社格の下調べ http://www21.atpages.jp/skeikas/page274.htmlをご覧ください。
まだ、少しか、調べていません。ここに書きました神社のことを徹底的に調べても何も判りません。神社に書いてあることは、1300年かかって、その当時の学者と政治家が、考えたことが凝縮されたことが書いてありますから、由緒を理解することは不可能です。
それよりも、実際に全部行って、神社の中で、一時間ほど、ぼっとしていると解決です。
どうでもいいことですが、書くとしますと、「名神大」の偉大さが分かると思います。
一言で、云いますと、藤原氏が、どの国よりも、対馬と壱岐国を重要視したからだ
になります。
どうして、重要視したかは、説明しても意味がない様に思います。敢えて書きますと、
中国人は、日本の絹を中国に運んでいたからです。絹のすべてを中国人が、運んでいたのであれば、このようなことをしなくても良かったのですが、競争相手がいましたから、競争をしなければなりませんでした。
どのような競争をしたかと云いますと、そのようなことは、何所にも書いてありませんから、想像するしかありません。
①生産地、生産者を抑えます。 確実に絹ょを確保すること。
②当初、日本に赴任した時は、どうしても、仲間がたりませんので、生産者を兵隊に仕込んだと考えています。
③生産地、生産者は、絹を奪われることから、守るために、いろいろのことをしました。 その証拠として、残っているのは、環濠集落、高地性集落です。
「高地性集落の謎」http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2010/09/post-aa33.html
③超大型の環濠を持つ遺跡は、中国人のものと考えています。
吉野ヶ里遺跡、唐古・鍵遺跡、池上・曽根遺跡、下之郷遺跡などがそうです。
「環壕集落と高地性集落」 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page570.html
④軍隊をもつようになった
これは規模などは判りませんが、5世紀頃の思われる古墳には、鉄の武器と武具が埋葬されるようになります。
たとえば、大阪府八尾市にある心合寺山古墳 は、大きな古墳ですが、だれが埋葬されているのか判りません。次に写真が有りますので、ごらんください。
http://www.geocities.jp/kuuki_1/trip/050630sionziyamakohun/050630sionziyama.html
後円部の墳長の写真が有ります。3つあります。同時に三人が、亡くなられるとしますと、立の悪い伝染病が発生したか、戦があったかでしょう。その下に出土した写真が有りますが、そこに鉄の鎧が写っています。 古市古墳群で見られるものと同じです。
誰の古墳であるかのヒントは、東にある「神立」の地名と、「高安千塚古墳群」其他、南の柏原市まで、続く遺跡です。
高安千塚古墳群のような、大きな古墳群は、奈良ですと、龍王山古墳群、新沢千塚古墳群が有ります。
私は、ここでは、天皇家と中国人の人たちが、戦争を繰り返したのだと考えています。
全国的な規模では、東の高天原と西の高天原でした。タイトルは、両方を用意しましたが、東の高天原だけで終わってしまいました。
長いこと読んでいただきまして、ありがとう御座いました。
2012-09-21 04:46
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