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これからの日本(38) 歴史を知らない日本人(305) 如何にして戦うか(250)  出雲(2) [日本の道]

出雲のことを書くつもりでしたが、HAARPによる豪雨がひどすぎますので、書いて見ました。

 また、私の心配した8月11日に大阪で起こる地震と津波は、起りませんでした。やれやれです。
 このようなケシカラン話は、世界に住んでいるフリーメーソンという人たちの仕業であると、泉パウロ氏は、著書に書いていますが、これは正しいだろうと思っています
 そのメンバーに、日本人も一杯入っていると指摘しています。このことは、又書くことにして、出雲が<秦王国>であったと、隋の人が、自分たちの正史に書いたのに、歴史家はだれも指摘していません。このことも、又、追求するとして、前回の続きです。


 日本は、遣隋使は第一回を開皇20年(600年)に行われています。何故か、『日本書紀』に記載は有りません。 二回目の遣隋使は、608年に行われて、その時の様子が、『隋書』に次の様に書かれています。

大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。 明年,上遣文林郎裴清使於倭國〔3〕。度百濟,行至竹島,南望●羅國,經都斯麻國,迥在大海中。又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。 「翌年(大業4年 608年)文林郎裴清を倭国へ遣し、百済から竹嶋に到り、南に耽羅国と都斯麻国(対馬)を経て大海に出、東に一支国、竹斯国(筑紫)、また東で秦王国へと至る。その人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明なり。」

下の青い部分は、翻訳文ですが、次の隋書によって、本文がどこにあるかを見つけてください。

隋書卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國
http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/zui/wa.htm

「日出處天子致書日沒處天子無恙」の部分に続けて書いてあるところが、注目です。

「日出處天子致書日沒處天子無恙」の部分は、解釈の仕方がいろいろです。碌々、国の形も成さない倭国が生意気なことに、「天子」を名乗ったと解釈して皇帝が立腹したと云われ有名な文章ですが、その文章の後ろに、
 東で秦王国へと至都斯麻国(対馬)を経て大海に出、東に一支国、竹斯国(筑紫)、至ると書いてあるのです。
 竹斯国(筑紫)から東へ行きますと、日本海を陸に沿って進むことになります。そこに
秦王国が有ります。
 ここに書かれた秦王国は、現在のどの県にあたるかは書いてありませんが、出雲と思われます。それを過ぎますと、鳥取県に至ります。
 ここは、伯耆国と云われた所ですが、ここは、式内社の数をご覧ください。

 全国別式内社一覧表
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html
出雲をクリッリして、各神社をごらん下さい。 どのような特徴が見えますか。

http://www21.atpages.jp/skeikas/page006.html
 山陰道を縦にご覧ください。
 
伯耆以外は、全国的に見ても、式内社は多い地域です。式内社が確定したのは、900年を過ぎた頃ですが、700年頃から、藤原氏によって、支配下になった神社だと考えています。
 伯耆、石見、隠岐は、天皇家の支配の強かった処です。出雲は飛び抜けて式内社が多い国です。 ついでに、大和と伊勢をご覧ください。900年頃には、藤原氏の勢力が強かったことが分ります。それ以降、江戸時代まで続いたと考えています。
 では、藤原氏は、中国人だったのかと云いますと、どうやら、そうではなかったように考えています。

 夷州(野蛮な国)どころか、その国の人々は華夏(中国人)と同じように見えたと書いています。
 
 驚くに値しません。調べて頂ければ、分りますが、2000年前でも、福岡辺りは、中国人(漢人)で一杯です。

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