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小さな発見・新しい発見  式内社に囲まれた平安京(23)  日吉大社(18)東寺(2) [神社からさぐる歴史]

平安京を作る時には、既に、平安京は、式内社に囲まれていたのは事実ではないかと考えながら、タイトルにも書き、思いついた事を書いています。
 平安京の遷都は、794年10月です。所が、式内社が制定されたのは、延喜年間のことらしいです。延喜式という法律書が完成したのが、927年ですから、平安京をというか、王城を取り囲むために、式内社を制定したのでもなさそうです。

 前回までに見て頂きましたように、王城を守るために、造られたのが東寺であり、大将軍でもあり、日吉大社でもあったことになります。
 
そこで、小さな発見・新しい発見  式内社に囲まれた平安京(21)  日吉大社(16)東寺
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2014-12-05 において、東寺のことを書きましたが、
其の後、つぎの本を読んで考えた事を書いてみます。

 ①古寺をゆく(3) 東寺  小学館

 ②古代の三都  平安京の風景  文英堂

①古寺をゆく(3) 東寺 の12ページから、文章をそのまま、掲載します。
 唯一残った平安京の遺構
 京都のシンボルイメージとしての五重塔と、毎月21日に開かれる弘法市とによって、東寺は庶民の寺として親しまれている。しかし、もともとは平安京の都市計画の一環として建てられた官寺であった。794年(延暦13)の桓武天皇による平安遷都。その2年後から東寺と西寺の造営が始っている。平安京の表玄関は、都の南・九条大路に建つ羅城門である。そこをくぐると、道幅84メートルの朱雀大路が、大内裏のある北へ真っ直ぐに延び、その右手に東寺、左手に西寺が望まれた。東寺は、この平安京の寺域をそっくりそのまま引き継いでいる。多くの戦乱や災害にあい、御所ですら何度も動いた京都市中にあって、これは奇跡に近いことだ。 

この文章は、上手く書いてあります。
平安京の表玄関は、都の南・九条大路に建つ羅城門である。そこをくぐると、道幅84メートルの朱雀大路が、大内裏のある北へ真っ直ぐに延び、その右手に東寺、左手に西寺が望まれた
 
この部分は、1220年前の表玄関から、大内裏までの様子を書いて居られます。
東寺を含めて、羅城門も西寺も、なに一つ残っていません。東寺は、全て、再建によるものですが、五重塔、南大門をはいると、正面に金堂、講堂、食堂が一直線に並んで建てられています。

 前述に有る様に、「東寺は、この平安京の寺域をそっくりそのまま引き継いでいる」と書いてあります。
 私は大阪ですから、東寺の傍は、何度も通っていますが、訪れたのは、二回だけです。
記憶に有るのは、弘法市だけです。
 それでも、
「平安京の表玄関は、都の南・九条大路に建つ羅城門である。そこをくぐると、道幅84メートルの朱雀大路が、大内裏のある北へ真っ直ぐに延び、その右手に東寺、左手に西寺が望まれた」の光景は、頭に浮かべることが出来ます。


 この本は、此の後、弘法大師と仏像のことが主になっています。

今も生きる弘法大師
 東寺と同時期に創立された西寺は、13世紀前半に姿を消した。では、なぜ東寺は生き残ったのだろうか。それはやはり、弘法大師空海のおかげである。823年(弘仁14)に、嵯峨天皇が東寺を空海に一任する。平安遷都より29年目、この時講堂や五重塔はまだ建っていなかった。空海は国から委ねられた寺を、唐から持ち帰った新しい仏教・真言密教の道場としてつくりあげていったのである。東寺は正式には、教王護国寺と云うそうです。この名前から想像出来ることは、平安遷都は、794年。この時に、都の東と西に、護国寺を作る積りになっていたのでしょう。823年
嵯峨天皇が東寺を空海に一任すると有りますから、弘法大師に依頼しましたが、29年間、護国寺の建設はできなかったことになります。
 
 空海は、教王護国寺を作る様に頼まれましたが、この時点では、空海自身が、真言密教の世界に到達していなくて、その為に、東寺の建物は完成しなかったのではと想像しますが、他の建物も、完成しなかったのではないでしょうか。

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