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小さな発見・新しい発見  式内社に囲まれた平安京(54)  日吉大社(49) 大山咋神(3) [神社からさぐる歴史]

前回の記事の意味は判りましたか。

 別の角度から、説明します。
 大山咋神は、元は、鳥取県の日吉津というところに居られた神だと思います。これまでに、日吉津のことは、調べたことを40回程書きました。この日吉津には、蚊屋島神社があり、ここに大山咋神が鎮座しておられた筈ですが、現在の神社の祭神には書かれていません。
 その理由は、現在の日吉津のみなさんもご存じないのではと思っています・

 ところが此の事実は、なぜか太安万侶は知っていたのだと思います。

大国主神のことは、まとめて書けば理解し易いのですが、太安万侶は、あちこちに記事を記しました。この事によって、これをもとにして、日本書紀も作られましたから、より複雑な歴史が誕生しました。

 大国主の事は、古事記ではどのように書かれているか、分けて記してみます。
①大国主神には、別に名前があります。
 大穴牟遅神、葦原色許男神、八千矛神、宇都志国玉神の4つの神の名前です。

  大国主神(おおくにぬしのかみ)・この名前は、スサノオから名乗って良いと云われました。それは何時かと云いますと、葦原色許男と名乗っていた時に、根の堅州国に住むスサノオの所を訪問します。 此の時に、葦原色許男は、スサノオの娘の須勢理毘売に出会い、好きになります。葦原色許男の名前は、三木市に鎮座地する神社に見られます。
 須勢理毘売と葦原色許男は近親結婚になる所為か、結婚できないように、いろいろの意地悪をします。でも、二人は駆け落ちをします。
 とうとう、スサノオの手に負えなくなって、結婚を認めることにします。

 その時の様子を太安万侶は、次の様に書きました。

「その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾を追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となりて、その我が女須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ヒギ)たかしりて居れ。この奴。」
 
「宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱」として、ここに「奴国」を作りなさい。そして、そこの大国の主になりなさい。
但し、自分の八十人の兄弟を鳥取から追い払いなさいと言ったと。太安万侶は、「その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾を追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて」と記したことになります。

 日本書紀を編集した人は、このような事情は知りませんでしたから、
大穴牟遅神の代わりに、大穴持命(おおあなもち)・大己貴命(おほなむち)・大汝命(おほなむち)を登場させました。これだけ、詳しければ、古事記より日本書紀を信用する外ありません。
 『播磨国風土記』には、大汝命(おほなむち)も登場します。外に、大名持神(おおなもち)・国作大己貴命・八千矛神・八千戈神・葦原醜男神:、愈々、古事記は説得力が無くなります。

では、「宇迦の山の山本」とは、何処にあるのかと云いますと、
美保関の真南で笛吹山の真西の交点です。

現在の所在地は、西伯郡南部町倭 です。
http://www.mapion.co.jp/m/35.3453138_133.3279638_8/

現在の所在地は、西伯郡南部町倭 ですが、以前は、西伯郡西伯町倭です。
その前は、西伯郡大国村倭です。

太安万侶が生きていた頃(700年)は、大国村だったのでしょうか。

このように考えてきますと、日吉大社と松尾大社の大山咋神と大国主神は、一見関係がないように見えますが、大国主神が大国主になる前に、スサノオの宣言した通り、「その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾を追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて」を実行したから、平安京に集まったことになります。

大山咋神は、日吉津から京都に遷りましたから、同じ、日吉が付く、日吉大社の名前も生まれた事になります。


古事記では、大国主神の所では、少名毘古那神のことが扱われています。大国主神には、子供が多かったことが記されています。
 これらのことを詳しく分析された歴史家はおられませんが、これはどうしたことでしょう。


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