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 小さな発見・新しい発見  式内社に囲まれた平安京(56)  日吉大社(51) 大山咋神(5) [神社からさぐる歴史]

 前回は、次のように書きました。

  大山咋神は、今(712年当時・古事記が完成した時)は、
①近淡海国の日枝山に坐ます。---日吉大社にいます。 ②葛野の松尾に坐ます。------------松尾大社にいます。

 これは、太安万侶が、記録に残したのですが、1500年も前のことです

これを元に、色々考えようと思います。
 <葛野の松尾> これは両方とも地名と思うのですが、前の方を先に調べます。

<葛野>古くは京都にあった郷名です。
『和名類聚抄』に記される郡内の郷。()内は訓。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%87%8E%E9%83%A1
 葛野郷(加度乃)と書かれていることを確認してください。

[葛]という漢字は [カツ 漢][カチ 呉]意読では、つる/かたびら/つづら/かずら(かづら)
 <意味> 
①くず。つる草の名。山野に自生する。茎の繊維は、布を織るのに用いる。また、根は薬用。またくず粉をつくる。
②つる。身にまとうつく困難にもたとえる。「葛藤カツトウ」
③(名)かたびら。くずの繊維を織ってつくった布。また、それでつくった布。また、それで作った衣。
[同]褐。[国]①つづら。葛野つるを編んでつくった、衣服などを入れるかご。のち、ひのきの薄板を編んで箱型につくる。「葛籠(ツヅラ)」とも。②かずら(カズラ。つる草の総称)

≪会意兼形成≫ 「クサカンムリ + 音符 曷(カツ)(水分がない、かわく)」 莖がかわいてつる状をなし、きっても汁が出ない植物。

以上、カシオのEX-word より


<葛野>は以上のことから、当初は、葛のはえている野原であったのではないでしょうか。
 2月8日に、四條大宮から嵐電に乗って、「帷子ノ辻」で下車、徒歩で 「蛇塚古墳」を身に行ってきました。
 「帷子ノ辻」は、「かたびら」と読みます。 「帷子」「帷」ともに、辞書をひきますと「かだびら」と読む事が分かります。
 先ほどの、「葛」も「かたびら」と読みます。


地図 http://www.mapion.co.jp/station/ST25623/ をご覧ください。
 1/75000に縮小しますと、左下に松尾大社が見えます。東方向に道の真っ直ぐな町が見えます。平安京の京洛になります。
 地図の特徴
①逆に1/8000に拡大しますと、入りくんだ道が見えます。曲った道ばかりです。所謂計画して作られた町ではなくて、住みたい人が、どんどん住んで発展した姿が見えます。
②「帷子ノ辻駅」は、北野天満宮へ行く、北野線と嵐山本線の分岐点になっています。 駅より少し南に行きますと、少し広い道に出ます。東へ進みますと、秦河勝が建てたと云われる「広隆寺」があります。
 此処が、四差路になっています。「辻」といいますと、十字路を思い浮かべますが、このような交差でも、「辻」と言ったことが分かります。
 「帷子ノ辻駅」は、此処から取った名前の様です。
③町名をごらんください。 「太秦」の字で溢れています。歩いてみると、ホテル、病院、食堂なと、皆、太秦がついています。
 「広隆寺」は、太秦の真ん中に建てられたことが分かりす。
④西のほうに見える嵐山から太秦の辺りまで、葛野郷(加度乃)であったことが想像出来ます。
⑤所が、少し西に移動しますと、「嵯峨野」ばかりです。 ということは、此の辺りも、野原ばかりで人は住んでいませんでしたが、どんどん北へと人が住むようになったと思われます。しかし、12ある郷のなかには、嵯峨野という言葉はありませんから、<葛野>と違う発展の仕方をしたことが分かります。

 このような調子で地図を眺めていますと、楽しいです。しかし、実際に地図を手にして、歩きますと、もっと、楽しい事が発見出来ます。
 
嵐電は、京福電気鉄道と云います。「京福」は京都と福井の頭文字ですが、京都と福井を結ぶ鉄道は有りません。しかし、会社を始めに設立した人は、作りたいと思われて社名をつくられたのではないかと想像しています。
 詳しくは、次のところを読んでください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E7%A6%8F%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93

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