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小さな発見・新しい発見  式内社に囲まれた平安京(59)  日吉大社(54) 大山咋神(8) [神社からさぐる歴史]

太秦に住みついた人は、中国の大秦からやって来た人ではないかと想像しています。漢字は、似ていますが、「太」と「大」の部分が、異なります。
 中国に、「大秦」という地名があるそうです。どのように読むのかは、判りませんが、イタリアにある都市・ローマを表すそうです。
 ということは、ここに住む人は、ローマと何らかの繋がりがあったと思われます。一番可能性があるのは、景教です。景教は、古代キリスト教の教派の1つであるネストリウス派が進行する宗教になりますが、ローマの方からやって来たことになります。
 
 荒っぽい言い方をしますと、ネストリウス派の人が、太秦にやってきた時にも「大秦」ではややこしいので、太秦とかき、「ウズマサ」と呼ばれていました。

 この辺りの様子を、次のブログのかたは、上手く書いて居られます。

【京都の古代の風景に想いを馳せる】http://bell.jp/pancho/travel/hata/index.htm
途中から、文章をお借りして掲載しますと、 
現在の桂川は、古くは葛野(かどの)川と呼ばれていた。葛野の平野部を貫いて南に流れる川だからである。丹波山地を源流とするこの川は、亀岡盆地から保津峡を抜けると、京都盆地の西北にある嵯峨野と嵐山の間を吹き出すように流れ出る。このため、古代には梅雨や台風のシーズンに洪水を繰り返し、流路が定まらない”暴れ川”だった。その分、桂川流域は繰り返される氾濫で京都盆地の中で最も肥沃な土地になった。

 肥沃な土地になった原因は、
京都の観光名所・嵐山には、桂川にかかる渡月橋がある。この橋を渡ったことがあるなら、少し川上に木製の杭を並べた堰(せき)があるのに気づいた人は多いだろう。葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれている堰である。この堰で桂川の流れがせき止められるため、保津峡下りの川船もここから川下には下れない。葛野大堰の歴史は古く、最初の堰は5世紀後半に渡来系氏族の秦氏(はたうじ)が築いたとされている。

という文章を書いて居られます。

葛野大堰が出来てからは、一番に、川の氾濫は減ったと思います。そして、長岡京や平安京が造られる基礎を築いたというのも正しいと思います。

 しかし、他の所も読んで行きますと、 
『日本書紀』に記された秦氏のプロフィールのコーナーに次のように書いて居られます。

京都の古代を語るとき、伝承や文献資料に常に登場する氏族がいる。葛野大堰(かどのおおい)を築いたとされる秦(はた)氏である。ヤマト・飛鳥を拠点とした東漢(やまとのあや)氏や河内地方を本拠とした西文(かわちのふみ)氏と同じく、秦氏も朝鮮半島から渡来した氏族である。蚕養や機織り、金工、土木などに優れた技術を有し、どちらかというと中央政権と関わるよりも、地方に根を張っていった殖産的豪族だったとされている。そのためか、著名な氏族である割には、氏族の系譜や一族の足跡が史書にあまり記されていない。秦氏について、史書から知ることのできる内容は、せいぜい下記のことぐらいである。

 どんどん、書き進めておられますが、どれもこれも、正しいかといいますと、確たる事実は、判らないと書いて居られます。

良く解らないことの寄せ集めで、平安京が出来たというのもおかしなことです。

このブログでは、秦氏は朝鮮半島からやって来たと書いて居られますが、私は、中国から、ユダヤ人と中国人の混血の秦氏がやって来たのではないと推理しています。

 その根拠が、遣って来た時に、「太秦」という地名をつけたこと。その地に、広隆寺を建立したtことも言えるのではないかと考えています。
 
 広隆寺 http://bell.jp/pancho/travel/hata/index.htm の資料
 【宗派】真言宗御室派
【山号】蜂岡山
【本尊】秘仏聖徳太子立像
【古称】蜂岡寺、秦寺、秦公寺、葛野寺、太秦寺

ここに、葛野寺の名前が、掲載されています。

この辺りに住みついた人は、やはり、始めに「葛野」という名前をつけたのだなと未だに拘っています。

次回も、「葛野」について書いてみます。

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