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小さな発見・新しい発見 式内社に囲まれた平安京(68)  木嶋坐天照御魂神社(6) [神社からさぐる歴史]

 木嶋坐天照御魂神社の一の鳥居と二の鳥居の形や外が異なりますから、初めにあった「蚕の社」は、木嶋坐天照御魂神社に乗っ取られたのだと書きました。

 鳥居の形が異なるから簡単に、乗っ取られたと断定するのは、少し乱暴かとは思いますが、多くの方が、書いて居られる内容は、意味が判らない事ばかりです。

 一番おかしいのは、木嶋坐天照御魂神社の名前です。「木嶋」は地名です。「天照御魂」は祀ってある人の名前である筈ですが、「天照の御魂」と書いてあることになります。
「天照」とは書く事は許されなかったのだと考えます。「天照」は、「天照大御神」に似ているから許されなかったのではないかと思います。 今では、誰も文句は言えませんが、初めに名乗ることは、即戦争になったのではと推理しています。
 戦争になっても負けないほど、実力が付いてから、木嶋坐天照御魂神社を名乗るようになったのではと考えます。
 その時は、その実力を示すには、大きな鳥居を建てたり、立派な拝殿や本殿を建てることによって、示そうとしたのではないかと考えています。
 一の鳥居に書かれている額は、「蚕養神社」です。蚕の社の本殿に比べますと、鳥居が立派過ぎます。本殿は、もっと大きかったが、焼かれて小さくなったのかもしれません。
 どのように考えても、すべて、証拠はありません。

 木嶋坐天照御魂神社は、ニギハヤヒを先祖にする人達が造られたものではないでしょうか。
もし、そうだとしますと、「天照大御神」を先祖とする天皇家との内輪揉めと云うことになります。

 別の角度から云いますと、消されてしまった物部氏の復活を願う人達の願いが、いろいろのことを使って形のある物として、木嶋坐天照御魂神社を造ったのではと推理します。

 その為に、役立ったのは、日本書紀ではないでしょうか。例えば、嵐山にある大山咋命を祀る松尾大社の近くに、月読神社があります。これは、松尾大社の摂社になっています。(摂社の意味がわかりません)

 この神社の神さんは、壱岐に祀られていた神さんが、葛野にやって来られた事が、
日本書紀 巻第十五 清寧天皇~仁賢天皇 の所に書いてあります。
 時は487年の事です。
 このような事が、真実だとしますと、歴史は、無茶苦茶になると思いますが、日本書紀に書いてあることは、正しいことになっています。

 言葉は悪いですが、乗っ取られたとしますと、すべて、辻褄はあうように思われます。

多くの方は、 [木嶋坐天照御魂神社]= [蚕の社]と書いて居られますが、社は別々にあります。

 [木嶋坐天照御魂神社]に乗っ取られましたが、祭神を祀る社は、仲よく鎮座していることになります。

 では、池の中にある「三柱鳥居」は、誰が造ったのか。説明して居られる方はありません。
 
 この「三柱鳥居」は判らないが、一の鳥居と二の鳥居の違いはどうしておこるのか、判れば解決するのではないかと考えましたが、余計に複雑なことになりそうです。


 鳥居の形
http://members.jcom.home.ne.jp/1614661501/jinja/torii/torii.htm

ここに、一番上の横の部分が、真っ直ぐのものと両端が上に反っているものがあります。この形は、長い年月がたっても、神主さんが判らなくて、氏子の人には判るでしょう。

一の鳥居の上は、反っています。二の鳥居は、反っていません。

反っていない鳥居は、伊勢神宮に見られます。

では、出雲大社は どうでしょう。
http://www.kankou-shimane.com/sengu/

 鰹木は、3本です。鰹木は、天皇家と関係のある人しか、認められませんでしたから、
三本でもあれば、天皇とは、関係があると認められた事になります。

伊勢神宮の内宮と外宮では、鰹木の数が違います。内宮は、10本。外宮は、9本です。

内宮外宮共に、別宮があります。月読宮というように、名前が付いています。

千木の上の部分の切り口が異なります。切り口が、横になっているのを「内削ぎ」と呼び、縦に切れ目があり、上に尖っているのを「外削ぎ」と云います。内宮は、「内削ぎ」になっています。外宮は、「外削ぎ」になっています。

 次回に続きます。

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