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小さな発見・新しい発見 式内社に囲まれた平安京(71)  木嶋坐天照御魂神社(9) [神社からさぐる歴史]

現在書いています「小さな発見・新しい発見 式内社に囲まれた平安京」と交互に、「癌の闘病記」を書いていますが、しばらくは、中止にしようと思います。時々、書きますので、その時は、癌に興味のない方は、読み飛ばしてください。

 「小さな発見・新しい発見 式内社に囲まれた平安京」はどうして、このような変なタイトルを付けているかと云いますと、平安京=京都と云っても良いほど、「山城国」に式内社の数が多いからです。
 
 延喜式内社は、朝廷が定めた由緒正しい神社だとされています。そのことは正しいのですが、この中には、殆ど、皇祖神(?)と云われている天照大御神は祀られていません。そこで、天皇家の反対勢力の人達が、式内社のある地域を支配した証しだと考えています。

 平安京は、西暦794年の桓武天皇入京以降、日本の首都と見なされた都市とされていますが、山城国だけで、122もの式内社があります。

 この時代を平安時代と呼んでおり、一番華やかな素晴らしい時代だと、なんとなく思っていましたが、そのような歴史のとらえ方は間違っていたのではないかと、その謎解きに挑戦しています。

 式内社が、どれほどあるかは、次の資料を見てください。
 【式内社と祭神】
 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page809.html

 全国の式内社の資料を集めようと、何度も試みてきましたが、データーは、一瞬に消えてしまい、現在、やっとこの程度です。見たついでに、「天照大御神」が祀られていない事を確かめてください。「天照大神」は、「天照大御神」と同じ神と考えてはいけないと思います。

 
 眺めただけでは、なにも判りませんが、どの国に、式内社が多かったかは、直ぐに判ります。

延喜式内社が制定された927年には、天皇は、形だけの地位で、日本を治めていたのは、藤原氏だと考えています。勿論、927年になって、急に、藤原氏の力が強くなったのではありません。すくなくとも、645年に初めての元号が定められた時には、藤原氏の勢力は、固まったと考えています。

このように考えてきますと、古事記ができたときは、太安万侶は、命を掛けて、みなさん注意をしてくださいよと警告を発したり、誰が天皇家の部下なのかを隠しながら、天皇に関わりある人の名前は、総て網羅したと推理しています。
 今のままでは、天皇家は滅んでしまうから、天皇家の歴史を書きとめて欲しいと、幽閉の身であった天武天皇が以来したことが、古事記の序文に書いてあります。
 
 しかし、現在の日本を造ったのは、天皇家ではなくて、藤原氏だったと思っています。

誰が正しかったとか、誰が偉い人だったかの話ではなくて、どのような歴史があって、現在の日本が、あるのかを考えようと思っています。

 少くなくとも、自分の国の歴史を知らない、中国や韓国に、イチャモンをつけられても、よう反論をしない日本では情けないし、隙を見せれば、直ぐに、攻めて来るでしょう。

 スケールの大きな話になりましたが、話を元に戻しますと、
全国の式内社に目を移しますと、大和は286社、伊勢は253社です。 どうして、こんなに多いかお分かりですか。これは、すべて、藤原氏が治めていた地域です。

 判らないときは、大和の式内社を全部調べると、理由は、直ぐに判る筈です。
命の許す限り、大和の式内社を巡って、調べてみようと試みてきましたが、命の方が、少なくなってきました。

昨日は、奈良県の高鴨神社に行ってきましたので、どのように私が、歴史を感じて来たかを、癌の話の続きに書いてみようと思っています。

【大和の式内社・訪問記】です。

小さな発見・新しい発見 式内社に囲まれた平安京の方は、京都・嵐山の松尾大社のことを書きます。

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