真説建国史のあらまし(10) その10 12page [真説 建国史]
前回の「倭」という地名は見付かりましたか。
もう一度、「東南して奴国に至るまで百里二万戸あり」のタイトルの文章を掲載します。
百里とは約40キロである。「また東南して云々」と書かれていない以上、松江国から、測量すれば、現在の米子平野である。 ここは古代には干潟が、根の様に、成長しつつあったのである。従って奴国とは根の国である。後世島根となった、由来のもとである。 国土地理院の米子の地図に西伯町がある。ここに合併前に大国村と天津村があった。大国主命は大国村のボスになった。 このボスになる前に迫害を受けたのが、手間山の赤猪の神話になっている。この手間山は大国村の東隣りの手間村にある。 「手間の山本(ヤマト)」が神話の舞台であった。この同一地点に現在「倭」の地名が残っている。 「倭」とは山のふもとの、山本から由来したことになった。 倭が根の国の都になり、都の外港は、中国式に天津村となった。読み方が「アマツ」とヤマト言葉になっただけである。
「西伯町」とは、伯耆の国の西に位置するから付けられた名前でしょう。鳥取県の方は、どうして、「伯耆」という素晴らしい言葉を使うのを嫌になられたのでしょう。
大国村と天津村が合併して「西伯町」になったと書いてあります。しかし、今の地図には、「西伯町」が見当りません。
それどころか、西伯町・会見町合併協議会ホームページ
http://www.town.nanbu.tottori.jp/p/admin/soumuka/gappeichousei1/hp/
を見ますと、西伯町・会見町が合併して、南部町が誕生しています。
会見町は、神武天皇とイスケヨリヒメが、デートをした所から、名づけられたと想像していますが、南部町が誕生することによって、このような話は、消滅することになりました。
伯耆の国の西に有った地名と神武天皇に関係のある二つの地名が、同時に無くなったことになります。
第二節 神武天皇、神武天皇の皇后、皇后の母の神社と小野小町の遺跡に行ってきました
http://ysaino11.seesaa.net/article/414354494.html
このブログから推察出来ることは、イスケヨリヒメは、岸本より東にある久古神社の近くに住んでいたことが判ります。
西伯町・会見のプロフィール
http://www.town.nanbu.tottori.jp/p/admin/soumuka/gappeichousei1/hp/5/01/
次の資料があります。
昭和30年3月30日、天津・大国・法勝寺・上長田・東長田の5か村が合併し、西伯町が誕生しました。
天津村と大国村の名前が見えます。 天津村は、天津系と関係が有るのでしょう。「津」の字があると言うことは、ここまで、海が来ていたのでしょうか。
天萬の近くに、「三崎」という地名があります。これは、「岬」だった所ではないでしょうか。 もし、そうだったとしますと、この辺りまで、海が来ていたことになります。
大国村は、大国主神と関係は無いのでしょうか。 神武天皇が、イスケヨリヒメと駆け落ちする時に、スサノオは、大国主になれと言いました。始めて、住んだ所が、大国主命村だったのではないでしょうか。 その後、「倭」に宮殿を建てることになります。
書いてきましたこの辺り一帯は、古事記に登場してくる地名が一杯残っているのは、驚きです。
二度も合併を繰り返し、天津村と大国村は無くなってしまったのですが、何故か、「倭」の地名が残っていました。「高姫」の地名も有りますから、見付けて下さい。岸本は、重要な所だと思います。近くに、「大殿」とい地名があります。 岸本は、元の地名は、消されて、現在は岸本になっていると思います。大殿は、大きな寺があったからではなくて、「大」は天皇等の偉大な方を表す「大」ではないかと思います。それに対して、岸本は、確かに、河の側にある地名ですから、「岸のもと」で良いのですが、「大殿」と釣り合いが取れません。
大殿に「上野三嶋両神社」がありました。 この神社は、行くつもりはなかったのですが、
大殿の寺院跡に行こうと思いましたら、なかなか行くことが出来ませんでした。車でしたので、狭い集落を走るのに難儀をしました。ここの周りを殆ど、走ったのに、何処に有るかを訪ねますと、殆どの方がご存じなかったように思いました。
そして辿りついたのが、「上野三嶋両神社」がありました。
ここの神社に新しい額が掲げられていましたが、私は、「三嶋神社」として、其時の事をブログに書いています。
しかし、おかしいなと思ったことを書き残しています。
三嶋神社 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page513.html なんだか分らないことを書いています。
大国主神には、八十人の兄弟がいましたが、噂で素晴らしい八上比賣が居ることを耳にして、プロポーズをする為に、旅に出ました。
この時は、大国主神が、大国村大字倭を出発して、八上比賣の所迄の道中を実際に歩くつもりで出かけました。(稲葉の白莵)
大殿の廃寺や上野三嶋両神社は、この時のおまけです。
この神社は、上野神社と三嶋神社が合併した神社のように思えますが、合併して出来た神社は大部分の神社です。元の神社の名前をくっつけた神社の名前は、外には知りません。
もう一度、「東南して奴国に至るまで百里二万戸あり」のタイトルの文章を掲載します。
百里とは約40キロである。「また東南して云々」と書かれていない以上、松江国から、測量すれば、現在の米子平野である。 ここは古代には干潟が、根の様に、成長しつつあったのである。従って奴国とは根の国である。後世島根となった、由来のもとである。 国土地理院の米子の地図に西伯町がある。ここに合併前に大国村と天津村があった。大国主命は大国村のボスになった。 このボスになる前に迫害を受けたのが、手間山の赤猪の神話になっている。この手間山は大国村の東隣りの手間村にある。 「手間の山本(ヤマト)」が神話の舞台であった。この同一地点に現在「倭」の地名が残っている。 「倭」とは山のふもとの、山本から由来したことになった。 倭が根の国の都になり、都の外港は、中国式に天津村となった。読み方が「アマツ」とヤマト言葉になっただけである。
「西伯町」とは、伯耆の国の西に位置するから付けられた名前でしょう。鳥取県の方は、どうして、「伯耆」という素晴らしい言葉を使うのを嫌になられたのでしょう。
大国村と天津村が合併して「西伯町」になったと書いてあります。しかし、今の地図には、「西伯町」が見当りません。
それどころか、西伯町・会見町合併協議会ホームページ
http://www.town.nanbu.tottori.jp/p/admin/soumuka/gappeichousei1/hp/
を見ますと、西伯町・会見町が合併して、南部町が誕生しています。
会見町は、神武天皇とイスケヨリヒメが、デートをした所から、名づけられたと想像していますが、南部町が誕生することによって、このような話は、消滅することになりました。
伯耆の国の西に有った地名と神武天皇に関係のある二つの地名が、同時に無くなったことになります。
第二節 神武天皇、神武天皇の皇后、皇后の母の神社と小野小町の遺跡に行ってきました
http://ysaino11.seesaa.net/article/414354494.html
このブログから推察出来ることは、イスケヨリヒメは、岸本より東にある久古神社の近くに住んでいたことが判ります。
西伯町・会見のプロフィール
http://www.town.nanbu.tottori.jp/p/admin/soumuka/gappeichousei1/hp/5/01/
次の資料があります。
昭和30年3月30日、天津・大国・法勝寺・上長田・東長田の5か村が合併し、西伯町が誕生しました。
天津村と大国村の名前が見えます。 天津村は、天津系と関係が有るのでしょう。「津」の字があると言うことは、ここまで、海が来ていたのでしょうか。
天萬の近くに、「三崎」という地名があります。これは、「岬」だった所ではないでしょうか。 もし、そうだったとしますと、この辺りまで、海が来ていたことになります。
大国村は、大国主神と関係は無いのでしょうか。 神武天皇が、イスケヨリヒメと駆け落ちする時に、スサノオは、大国主になれと言いました。始めて、住んだ所が、大国主命村だったのではないでしょうか。 その後、「倭」に宮殿を建てることになります。
書いてきましたこの辺り一帯は、古事記に登場してくる地名が一杯残っているのは、驚きです。
二度も合併を繰り返し、天津村と大国村は無くなってしまったのですが、何故か、「倭」の地名が残っていました。「高姫」の地名も有りますから、見付けて下さい。岸本は、重要な所だと思います。近くに、「大殿」とい地名があります。 岸本は、元の地名は、消されて、現在は岸本になっていると思います。大殿は、大きな寺があったからではなくて、「大」は天皇等の偉大な方を表す「大」ではないかと思います。それに対して、岸本は、確かに、河の側にある地名ですから、「岸のもと」で良いのですが、「大殿」と釣り合いが取れません。
大殿に「上野三嶋両神社」がありました。 この神社は、行くつもりはなかったのですが、
大殿の寺院跡に行こうと思いましたら、なかなか行くことが出来ませんでした。車でしたので、狭い集落を走るのに難儀をしました。ここの周りを殆ど、走ったのに、何処に有るかを訪ねますと、殆どの方がご存じなかったように思いました。
そして辿りついたのが、「上野三嶋両神社」がありました。
ここの神社に新しい額が掲げられていましたが、私は、「三嶋神社」として、其時の事をブログに書いています。
しかし、おかしいなと思ったことを書き残しています。
三嶋神社 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page513.html なんだか分らないことを書いています。
大国主神には、八十人の兄弟がいましたが、噂で素晴らしい八上比賣が居ることを耳にして、プロポーズをする為に、旅に出ました。
この時は、大国主神が、大国村大字倭を出発して、八上比賣の所迄の道中を実際に歩くつもりで出かけました。(稲葉の白莵)
大殿の廃寺や上野三嶋両神社は、この時のおまけです。
この神社は、上野神社と三嶋神社が合併した神社のように思えますが、合併して出来た神社は大部分の神社です。元の神社の名前をくっつけた神社の名前は、外には知りません。
2015-07-25 02:47
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