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真説建国史のあらまし(10) その9  12page [真説 建国史]

 魏志倭人伝には、邪馬台国の国々の位置が記されています。

東南して奴国に至るまで百里二万戸あり」とあり、ここに書いてあることに対して、田村氏は、自分の著書『第6話 正史だった古事記』に次の様に書いています。

百里とは約40キロである。「また東南して云々」と書かれていない以上、松江国から、測量すれば、現在の米子平野である。  ここは古代には干潟が、根の様に、成長しつつあったのである。従って奴国とは根の国である。後世島根となった、由来のもとである。  国土地理院の米子の地図に西伯町がある。ここに合併前に大国村と天津村があった。大国主命は大国村のボスになった。  このボスになる前に迫害を受けたのが、手間山の赤猪の神話になっている。この手間山は大国村の東隣りの手間村にある。  「手間の山本(ヤマト)」が神話の舞台であった。この同一地点に現在「倭」の地名が残っている。  「倭」とは山のふもとの、山本から由来したことになった。  倭が根の国の都になり、都の外港は、中国式に天津村となった。読み方が「アマツ」とヤマト言葉になっただけである。

第6話の全てを、次の前後に記しています。
「東南して奴国に至るまで百里二万戸あり。」
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2010/02/post-a1d8.html

「ここは古代には干潟が、根の様に、成長しつつあったのである」
ここはと書いてある場所は現在の地図で見付かりますか。

西伯町(合併前は、大国村と天津村)です。
西伯町を調べますと、
西伯町(さいはくちょう)は鳥取県西部の西伯郡にあり島根県と境を接していた町である。
2004年(平成16年)10月1日に合併により南部町となりと有ります。

ここに、「倭」という町が有るのですが、日本のヤマトの発祥の所と思われます。

地図は次に有ります。 これは現在の地図ですから、南部町を見付けて下さい。
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=35.38533650&lon=133.40717180&ac=31390&az=&z=13&fa=pa&ei=utf8&p=%E9%B3%A5%E5%8F%96%E7%9C%8C%E8%A5%BF%E4%BC%AF%E9%83%A1%E4%BC%AF%E8%80%86%E7%94%BA

地図を少し、拡大して、西にある国道180号線まで移動しますと、南部町役場があります。ここは、南部町の中心だった所になります。この近くに、「」という町名が見つかります。


田村氏は、ここが、「ここは古代には干潟が、根の様に、成長しつつあったのである」と書いていますが、地図を見る限りでは、干潟らしいものはありません。

国譲りは、アマテラスが命令しましたから、2000年以上も前の事です。

2000年前を想像しながら、考えて下さい。

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