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小さな発見・新しい発見 滋賀県の式内社(湖北12) [神社からさぐる歴史]

 前回、大津京は日本書紀には載っていないことを書きました。 それは、その前のページで、自分で、

 「白村江の戦いで中大兄皇子が敗れて、逃げて帰った後に、都を定めたことになっているのが、近江京です。 大津京とも云われ、この事が、日本書紀に記されているのが、曲者です」と書いたからです。

 この時は、日本書紀に書いてあるかどうかを調べたわけではありませんでした。
 Google の検索を利用しました。「大津京」で検索しました所、三番目に、

大津京|テーマ展示|常設展示室|大津市歴史博物館
 が有りましたので、クリックしました。
 選んだ理由は、地元の大津歴史博物館のブログだったからです。

最初のページをそのまま、コピーします。

 天智2年(663)、日本は百済(くだら)を救援するため朝鮮半島へ出兵した。しかし、日本軍は白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に大敗し、日本はいつ唐軍に攻められるかという緊迫した状況を迎える。こうした東アジアの情勢の下、天智6年(667)、天智天皇によって飛鳥から近江への遷都が行なわれる。大津京の誕生である。国の中心となった大津京では、初の戸籍「庚午年籍(こうごねんしゃく)」の編成などの政治改革が進められた。しかし、天智10年(671)、天智天皇が崩御すると、翌年大友皇子と大海人皇子との間で壬申の乱が起こり、乱後再び飛鳥へと遷都される。大津京はわずか5年余りの都であった。

 今読み返しますと、さすがにプロの文章です。

大津京が出来た時の様子が、書いてあります。
① 何故、大津京に遷都されたか。--------白村江(はくすきのえ)の戦い との関連。
② 何故、飛鳥へ遷都されたか。-------- 壬申の乱との関連。

 試しに、外のブログも読んでください。
 なぜ、大津京に遷都したか、理由は分らないがと書いてあるのが多いです。
 その他に、大津宮のことは、遺蹟か見付かったことが書いてありますが、大津京の事は、条坊制が見付かっていない不思議を書いて居られます。

私は、白村江(はくすきのえ)の戦いは、百済から援軍の要請を受けて、日本が、出撃したことになっていますが、百済に騙されたと考えています。
と云うことは、中国と新羅と百済を相手にして戦争をしたことになります。

壬申の乱は、天皇の子供の大友皇子と天智天皇の弟の大海人皇子との皇位の争いと思っていました。

しかし、壬申の乱は日唐戦争だったことが判りました

 どのように考えたかは、次の所に書いておきました。

壬申の乱は日唐戦争だった
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page718.html

No357 帰ってきた捕虜と壬申の乱
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-05-08

「帰ってきた捕虜」の事は、日本書紀に書いてあります。しかし、中大兄皇子は騙されたのだとは書いてありません。考えたのは、私です。

いや、正確に云いますと、田村誠一と云う方が、考えられて、『壬申の乱は日唐戦争』とのタイトルで、本を出版されました。 1984/11/21 のことです。

 所が、この本は、どこにもありません。 抹殺されたのだと考えています。 抹殺しなければならない程の事が、書いてあったことになります。どのような内容かと云いますと、書いてあることが正しかったことになると考え、追及しています。

田村誠一氏の著書
 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page600.html
 に書いていますが、 この中に、『真説 建国史』が、コピーで手に入りましたので、現在、一日置きに、<新しい日本の歴史>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/
に掲載しています。(田村誠一氏の原文です) 

このブログに、検索機能がありますから、<白村江>と入力して戴きますと、<白村江>と関連あることを書いてあると思います。

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