小さな発見・新しい発見 滋賀県の式内社(湖北13) [神社からさぐる歴史]
如何でしたか。 私の心が曲っているのでしょうか。
私は古事記に書いてあることが正しいと思っているのですが、インターネットで、調べる限りでは、古事記は、間違っていることを書いているのではなくて、歴史を歪めて書いてあると捉えています。即ち、古事記は[偽書]である。
それに対して、「日本書紀」は、正しい歴史が書いてある書物として捉えられています。
どうして、現在の歴史家がこのように信ずるようになったかと云いますと、研究が進んだからだと思います。
その証拠として、
大津京|テーマ展示|常設展示室|大津市歴史博物館を見て頂きました。
外のブログを紹介します。
〔大津の歴史〕
http://www.city.otsu.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/92/4eba22e0002.pdf
ここには、『日本書紀』『懐風藻』『藤氏家伝』等の資料から、内裏、浜台、大蔵、宮門、朝廷、大殿、漏刻、内裏仏殿などの施設があったことがわかっていますが・・・・。
此処まで読みますと、素人の人であれば、これだけで信用します。
〔大津の歴史〕を書いた人は、名前は書いてありませんが、『日本書紀』『懐風藻』『藤氏家伝』に書いてありますから、以下の文章は、正しいですよと、知らせる為に、書かれれました。
三冊の書物に、内裏、浜台、大蔵、宮門、朝廷、大殿、漏刻、内裏仏殿などの言葉が書いてあるから、実際に存在した証拠にはなりません。
私は、騙されないぞと最近は思っていますから、全く知らない『懐風藻』『藤氏家伝』を調べることにしました。
調べるとは聞こえが良いですが、インターネットで検索しただけです。
①『懐風藻』
奈良時代、天平勝宝3年(751年)の序文を持つ。編者は大友皇子の曾孫にあたる淡海三船と考える説が有力である、また他に石上宅嗣、藤原刷雄、等が擬されているが確証はない。
近江朝から奈良朝までの64人の作者による116首の詩を収めるが、序文には120とあり、現存する写本は原本と異なると想像されている。作品のほとんどは五言詩で、平安初期の勅撰3詩集が七言詩で占められているのと大きく異なる。
作者は、天皇をはじめ、大友・川島・大津などの皇子・諸王・諸臣・僧侶など。作風は中国大陸、ことに浮華な六朝詩の影響が大きいが、初唐の影響も見え始めている。
古代日本で漢詩が作られ始めるのは、当然大陸文化に連なろうとする律令国家へ歩みが反映されている。『懐風藻』の序文によれば、近江朝の安定した政治による平和が詩文の発達を促し、多くの作品を生んだという。
なお、『懐風藻』には『万葉集』に歌のない藤原不比等の漢詩が収められており、大伴家持は、『万葉集』に漢詩を残すものの、『懐風藻』には作品がない。大伴家持の「族をさとす歌」は、天平勝宝8歳に、淡海三船の讒言によって大伴古慈悲が出雲守を解任された時に詠まれたものである。
②藤氏家伝(藤氏家傳・ とうしかでん)は天平宝字4年(760年)に成立し、古代から藤原氏に代々伝えられてきた、藤原氏初期の歴史が記された伝記であり、上・下とある。日本書紀や続日本紀には無い歴史が記述されている。
家伝とは、その家の歴史・伝承などをまとめた書物だが、特に藤氏家伝のことを指して家伝ということもある。
家伝上(「大織冠伝」)
• 藤原鎌足と定恵と藤原史(藤原不比等)の伝記を記したものである。ただし、藤原不比等の条は現存しない。
• 著・編者は恵美押勝(藤原仲麻呂)。
家伝下(「武智麻呂伝」)
• 藤原武智麻呂の伝記を記したもの。
• 著・編者は僧延慶。
•
これ以上のことは、調べていません。 しかし、これだけで、『懐風藻』『藤氏家伝』とも、藤原氏と関係があることは分ります。
『日本書紀』は、勿論、朝廷が作ったのではなくて、藤原氏が作ったと考えています。
これら以外で、藤原氏が関与した書物は、出雲風土記、延喜式の祝詞、延喜式神名帳、そして、『懐風藻』『藤氏家伝』だと思っています。
すべて、古事記が出来た712年以後に作られています。
書いてあることは、すべて、間違っているとは思いませんが、作り話が多いのではないかと疑っています。
今、日本書紀がおかしいのではないかと云うために、
神話でなかった古事記 http://blog.goo.ne.jp/skeikas
に於いて、出雲風土記がおかしいのではないかと、書いています。
私は古事記に書いてあることが正しいと思っているのですが、インターネットで、調べる限りでは、古事記は、間違っていることを書いているのではなくて、歴史を歪めて書いてあると捉えています。即ち、古事記は[偽書]である。
それに対して、「日本書紀」は、正しい歴史が書いてある書物として捉えられています。
どうして、現在の歴史家がこのように信ずるようになったかと云いますと、研究が進んだからだと思います。
その証拠として、
大津京|テーマ展示|常設展示室|大津市歴史博物館を見て頂きました。
外のブログを紹介します。
〔大津の歴史〕
http://www.city.otsu.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/92/4eba22e0002.pdf
ここには、『日本書紀』『懐風藻』『藤氏家伝』等の資料から、内裏、浜台、大蔵、宮門、朝廷、大殿、漏刻、内裏仏殿などの施設があったことがわかっていますが・・・・。
此処まで読みますと、素人の人であれば、これだけで信用します。
〔大津の歴史〕を書いた人は、名前は書いてありませんが、『日本書紀』『懐風藻』『藤氏家伝』に書いてありますから、以下の文章は、正しいですよと、知らせる為に、書かれれました。
三冊の書物に、内裏、浜台、大蔵、宮門、朝廷、大殿、漏刻、内裏仏殿などの言葉が書いてあるから、実際に存在した証拠にはなりません。
私は、騙されないぞと最近は思っていますから、全く知らない『懐風藻』『藤氏家伝』を調べることにしました。
調べるとは聞こえが良いですが、インターネットで検索しただけです。
①『懐風藻』
奈良時代、天平勝宝3年(751年)の序文を持つ。編者は大友皇子の曾孫にあたる淡海三船と考える説が有力である、また他に石上宅嗣、藤原刷雄、等が擬されているが確証はない。
近江朝から奈良朝までの64人の作者による116首の詩を収めるが、序文には120とあり、現存する写本は原本と異なると想像されている。作品のほとんどは五言詩で、平安初期の勅撰3詩集が七言詩で占められているのと大きく異なる。
作者は、天皇をはじめ、大友・川島・大津などの皇子・諸王・諸臣・僧侶など。作風は中国大陸、ことに浮華な六朝詩の影響が大きいが、初唐の影響も見え始めている。
古代日本で漢詩が作られ始めるのは、当然大陸文化に連なろうとする律令国家へ歩みが反映されている。『懐風藻』の序文によれば、近江朝の安定した政治による平和が詩文の発達を促し、多くの作品を生んだという。
なお、『懐風藻』には『万葉集』に歌のない藤原不比等の漢詩が収められており、大伴家持は、『万葉集』に漢詩を残すものの、『懐風藻』には作品がない。大伴家持の「族をさとす歌」は、天平勝宝8歳に、淡海三船の讒言によって大伴古慈悲が出雲守を解任された時に詠まれたものである。
②藤氏家伝(藤氏家傳・ とうしかでん)は天平宝字4年(760年)に成立し、古代から藤原氏に代々伝えられてきた、藤原氏初期の歴史が記された伝記であり、上・下とある。日本書紀や続日本紀には無い歴史が記述されている。
家伝とは、その家の歴史・伝承などをまとめた書物だが、特に藤氏家伝のことを指して家伝ということもある。
家伝上(「大織冠伝」)
• 藤原鎌足と定恵と藤原史(藤原不比等)の伝記を記したものである。ただし、藤原不比等の条は現存しない。
• 著・編者は恵美押勝(藤原仲麻呂)。
家伝下(「武智麻呂伝」)
• 藤原武智麻呂の伝記を記したもの。
• 著・編者は僧延慶。
•
これ以上のことは、調べていません。 しかし、これだけで、『懐風藻』『藤氏家伝』とも、藤原氏と関係があることは分ります。
『日本書紀』は、勿論、朝廷が作ったのではなくて、藤原氏が作ったと考えています。
これら以外で、藤原氏が関与した書物は、出雲風土記、延喜式の祝詞、延喜式神名帳、そして、『懐風藻』『藤氏家伝』だと思っています。
すべて、古事記が出来た712年以後に作られています。
書いてあることは、すべて、間違っているとは思いませんが、作り話が多いのではないかと疑っています。
今、日本書紀がおかしいのではないかと云うために、
神話でなかった古事記 http://blog.goo.ne.jp/skeikas
に於いて、出雲風土記がおかしいのではないかと、書いています。
2015-11-12 04:46
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