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日野川と斐伊川の二つの川が登場   75  -107- [真説 建国史]

スサノオ命はヒルゼン高天原から罪人として追放された。このあと米子を流れる日野川を遡って舟通山の峠を越えて鳥髪(鳥上)に降って行った。 ここの仁多軍横田町大呂で最新の自然痛風の製鉄所の職人を退治し、この血が斐伊川を赤く染めた。毎年一人づつ略奪結婚で奪われて残った最後の一人がスサノオ命に助けられて妃になった。これが八岐の大蛇の神話の大すじである。 先づ原文では古事記も日本書紀もスサノオ命が遡って行った川は日野川と書かれていたのに今までの解説書は斐伊川と間違っていた。 古事記の原文には八俣の遠呂智と書かれ、八岐の大蛇と書いた箇所も見当らなかった。八俣とは道が八方に通じた仁多郡横田町のことで、遠呂とは大呂のことである。ここに現在でも日本刀の玉はがねを砂鉄から作る日立金属がある。  この古事記の文章は明らかに脱落した部分と神話的要素があり、これこそ藤原朝臣が書き改めたものだ。


-----私のコメント----
この文章には、コメントは必要ありません。
[八俣とは道が八方に通じた仁多郡横田町のこと] は、毎日のように、地図を眺めている者しか考え付かないでしょう。 それに加えることに、田村氏は、この交差点を通られたのだと思いました。

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