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小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(30) 分析(3) [古墳から探る歴史]

 大津市に大津京があったという研究は、一杯あったということは、林 博通著 『大津京』に研究者の名前を挙げて書いてありました。
 しかし、どなたの研究も、確かな研究とはなりませんでした。

素人の方も、多くの方が挑戦して居られます。
次のブログは、やはり大津京は存在したと結論に達せられて、構成されています。
飛鳥の扉  http://www.asuka-tobira.com/opendoor2.htm

この中の、一ページに「大津京」があります。
http://www.asuka-tobira.com/ootsukyo/ootsukyo1.htm

壬申の乱も絡めて、殆ど、現地に行かれて、日本史全般の解明を試みられています。
壬申の乱では、大海人皇子の逃避行も歩いて確認して居られます。

こうして、多くの人が、[大津京]の解明に挑戦して居られますが、どなたの説を読んでも、やはり、[大津京]は存在しなかったのではないかと考えています。

プロの方では、林 博通と田辺昭三氏のお二人です。田辺昭三著『よみがえる湖都』は、購入しまして、私のブログにも書いたのですが、どうやら、持ち歩いている間に、紛失したようです。田辺昭三氏は、確か、林 博通氏の上司の方で、一緒に発掘に携わられたと記憶します。
 著書の内容は、略、林 博通氏の[大津京]と同じだったと思いますが、大津京という言葉は使われなかった様に思います。

残された資料に従いますと、林 博通氏の[大津京]は存在したことになりますが、私には、大津京が在ったとすることは無理なのではと思えました。

 そこで、資料ではなくて、御所が在ったとされる[錦織二丁目]を中心に歩いてみようと思いました。

1月10日~11日は2回目の訪問です。
此の時は、[近江神宮]から出発することにしました。 出発前に、「近江神宮」で地図を検索しましたら、
http://www.mapion.co.jp/m2/35.03238251,135.85144814,16/poi=L25203010200000000003
がヒットしました。
 一番に目に入ったのは、錦織町 錦織1、錦織2 です。近江神宮は、神宮町にあるのに、目に入ったのは、錦織2 です。御所の在る錦織2丁目は、近江神宮の近くだと思っていました。

理由は、近江神宮のホームページに
「第38代天智天皇をまつる近江神宮は、天智天皇の古都、近江大津宮(大津京)跡に鎮座する神社です」と書いてあったからです。

近江神宮(おうみじんぐう)は、滋賀県大津市に鎮座する神社。皇紀2600年を記念して同年に相当する1940年(昭和15年)に創祀されたとウィキペディアに書いてありました。 新しい神社ですから、大津京を知るには、役に立ちませんが、所在地は、大津市神宮町となっていました。
 
いざ、当日です。 兎に角、近江神宮に行きました。一通り、神宮の中を拝観しました。
そして、何時もすることですが、一番高い所迄、上って、大津市を眼下にして眺めました。
 此の時は、私の頭では、錦織2丁目は、近江神宮から、湖岸に向かって、歩けば、100mぐらいの所にあると思っていました。車は、神宮の駐車場に止めて、歩き始めました。
 この広い道は、「神宮道」と呼ばれ、その標識は一杯有るのですが、肝心の町名は見当たりません。

とうとう、湖岸に近い旧の161号線に到達です。ここで、どなたかに質問をしようとするのですが、誰一人と通られません。
その内に、二人子供さんを連れられた若夫婦にお会いしました。 地元の方ですか、お聴きしますと、そうだと云われますので、「錦織2丁目」に行きたいのですがとお尋ねしますと、ご存じありませんでした。大津京の御所が在った所なのですがと、お聞きしても、「錦織」の地名は、ご存じありませんでした。その内に、お二人ともスマホを持って居られて、調べて下さいました。随分、長い事掛って、錦織2丁目は、「近江神宮前駅」の近くだと云うことが分りました。それから、私に説明されるのが太変でした。 そう云えば、降りて来る間に、電車の高架を二つくぐりましたから、そこまで戻りますと云いましたが、頼りないと思われたのか、お二人で、一生懸命説明して下さいました。

済みません。文章が長くなりました。

しかし、大きな発見をしたのです。
①神宮道の南と北に住宅が一杯在りますが、ここのお家から神宮道に来るには、坂道を登って、神宮道に上がることになります。
 その差は、2mはあったでしょうか。

②神宮道は、作る時に、2mの土を盛って、高い道路を建設したことになります。
 雇用に分担した為に、道路の北側に住んで居られる方は、「錦織2丁目」はご存じ無かったことになります。

③神宮道は、近江神宮から、旧161号線まで、ずっと、坂道だったと思います。
 勿論、この道の両側も、山の麓から、湖岸まで、ずっと、傾斜のある土地で在ることが分りました。

④神宮道は坂であっても、その南と北の地域は、傾斜地とは限りませんが、傾斜地であることは、林 博通氏の[大津京]に書かれてあることですから、4~5kmにわたって、坂になっていることになります。現在のある住宅は当時は在ったかもしれませんが、大津京は、無理だろうと思いました。

次回に続く。

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