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なぜ神話が必要なのだろうか   82  -114- [真説 建国史]

因幡の白兎の原文では莵の人が和邇の人を欺したのである。この時衣服を脱がされて裸にされたとまで書いてある。之を白兎は皮をはがされれば死ぬ外ない。 イザナギ命が近江八幡市の多賀に移って行かれここに御所を設けた。そして白狄人を中部以西全域に導入した。これは三木文雄氏の〝銅鐸〟の中の分布図で明らかになった。 多賀はこの中心に位置していないし、西隣りの野洲町から銅鐸が14ケ組で出土した。ここの ビワ湖の対岸が和邇村で、従って白狄人が住んでいて当然である。 八上比売を大国主神が妃にしたので80人の兄弟神は手間山で大国主神を謀殺しようとした。この村も西伯郡の大国村の隣りにある。 ここで猪に似た赤い岩を焼いて、山の上から転がせ大国主神につかまえよと命令した。この時大国主神は人事不省になった。しかしこの話も日本書紀には載せてなかった。古事記にしか書かれてない記述に限って、ふさわしい箇所に地名や神社が残っていた。



---私のコメント---
どうしてこの様な話を太安万侶は、創作したのでしょう。この文章を読んで、日本書紀の編集者は、意味が分らなかったと思います。他の一書に見られるような手法や、、漢字を100パーセント書き変える手法では書くことが出来なかったのだと思います。よって、古事記だけに残ったことになります。

古事記にしか書かれてない記述に限って、ふさわしい箇所に地名や神社が残っていた
と云うことは、稗田阿禮は、西伯郡の大国村にある倭という所に行って、手間山に登ったと思います。そして、其の辺りにある神社にも行ったと思います。
私も、訪れて、全ての神社に行きました。

[南部町 倭]をキーワードに検索しますと、[倭]が表示されます。 地図を大きくして、東へ移動しますと、日野川が見えます。 JR岸本の近くに「大殿」へ行きました。少し、東に「久古」が有ります。ここには、久古神社があります。ここにも行きました。 どうして、行ったと思われますか。

久古神社 http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-271.html
これは、私が作っているブロクです。

神武天皇、神武天皇の皇后、皇后の母の神社と小野小町の遺跡に行ってきました
http://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/201405310000/

久古神社の裏にある狭井(山百合)河 の写真をご覧ください。
このブログを書かれた方も、大殿の三島神社に行かれました。
この神社には、私も行きましたが、行きつくのに、難儀しました。 

それだけに、印象は強く、大阪府茨木市にある溝咋神社や奈良の大神神社と関係あるのではと、いろいろ悩まされました。

三輪神社 http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-234.html
この神社は、大国主が、八上村の比売沼神社まで、旅行した所と同じコースを歩いた時に、立ち寄った神社です。奈良の大神神社は、元は、この神社が発祥の地では無いかと思いました。


私は、この神社(久古神社)の境内で、コンビニで買ったお弁当を食べて、1時間程、昼寝をしました。そして、この集落の周りを走り回りました。

普通の集落でした。

上手く書く事は出来ませんでした。 同じ、コースを歩いて頂きますと、古事記に登場する地名が、一杯出て来るのです。

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