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隋書に書かれた秦王国は出雲   91  -123- [真説 建国史]

隋書の筑紫より東してを、九州に上陸とすることは矛盾している。更に仮に関門海峡をを越えて瀬戸内海沿岸の何所かに上陸してここからは陸行することも矛盾している。神武天皇が東征の時船出した日向浦が天皇勢力下の港である以上、ここを天皇の使者小野妹子が利用することが常識である。 つぎには瀬戸内海の明石海峡、、来島海峡、関門海峡を通過するのに適した船が外洋を航海する船と同一構造でよいだろうか。朝鮮沿岸から九州に渡れる船ならば日向浦まで航海はより容易である。 秦国が出雲だとすれば何一つ矛盾が起きない。出雲の支配権を握っていたのは鎌足の先祖の中臣と考えてよい。そしてここには大国主神が伯耆から追放したスサノオ命の一族の高句麗人が住んでいたから秦王国と書かれても当然だった。  雄略天皇の御世に天皇の敵が河内におってこのボスが漢族の王朝、宋の皇帝から倭王の肩書をもらっていた。この倭王とは後で述べるが中臣だった。




---私のコメント--
「雄略天皇の御世に天皇の敵が河内におってこのボスが漢族の王朝、宋の皇帝から倭王の肩書をもらっていた」
この文を読まれたら、この続きを読むのは嫌になられたのではないかと思います。「河内」は、これで「かわち」と読みます。わたしは、同じ大阪に住んで居ますが、どのような所かよく知らないのです。しかし、これからは、力を入れて勉強しなくてはいけないのではないかと考えています。

今、「新しい日本の歴史」というタイトルで書いていますが、大津京は無かったのだと書いています。この大津と河内が関係あるのではないかと思っていますが、その始めの頃は、「河内のボス」が一番上手く表現されたのではと思っています。

式内社と祭神
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html
ここで、河内と近江と出雲をご覧ください。 2番目に、式内社の多かった地域に属します。 晩年、中臣氏の支配力が強くなった所です。 山城国は、平安京の時の式内社のあった所です。せめて、ここは、全部の神社を訪れてください。 歴史が自然と納得できると思います。 車ではなくて、歩いてください。
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