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小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(117) 壬申の乱(68) [古墳から探る歴史]

このタイトルより以下の文章は、田村誠一著『壬申の乱は日唐戦争』の56ページの文章です。


中国偏向の日本書紀 (4)
 日本書紀で10代崇神天皇紀の9月9日に「大彦命を北陸に遣す。タケヌナカワワケを東海に遣す。吉備津彦を西道に遣す。丹波道主命を丹波に遣す」とだけ書かれ、賊を平下で10月1日には帰還したと書かれている。
 東大の黒坂博士は日本書紀の記述には正確に日付が入れてあったので、国史の基本にした。そしてわたし達戦前の者は、これを四道に将軍を派遣したとして教えられた。
 古代に僅か22日で賊を平げ、しかもそろって同日に帰還することが、果たして可能だろうか。更にこの場合には日本書紀独特の「一書に曰く」すら見当たなかった。
 吉備津彦は日本書紀にしか登場しない人物で7代孝霊天皇の王子である。孝霊天皇のあとには孝元、開化、崇神と続いていて、夫々の天皇の在位が書かれている。吉備津彦は崇神天皇の60年に出雲征伐に出かけている。従ってこの時には230才位に達しており、四道に派遣された時は180才位である。吉備津彦は古事記の大吉備津彦や若建吉備津彦と誤認させるための架空の人物だった。


私からの一言
 このページは、読むたびに、「吉備津彦は崇神天皇の60年に出雲征伐に出かけている。従ってこの時には230才位に達しており、四道に派遣された時は180才位である」の部分は、書いてあることは正しく無いなと思うのですが、
① 大彦命を北陸に遣す
② タケヌナカワワケを東海に遣す
③ 吉備津彦を西道に遣す
④ 丹波道主命を丹波に遣す
  この四人は、物見遊山ではありません。しかし、仮に歩いただけでも、歩いてくることはできるのだろうかという疑問はあります。

 では、日本書紀は、何をこの部分で、言いたかったのでしょう。

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