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小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(118) 壬申の乱(69) [古墳から探る歴史]

このタイトルより以下の文章は、田村誠一著『壬申の乱は日唐戦争』の56ページの文章です。


中国偏向の日本書紀 (5)
 四道将軍の今一人の丹波道主命も古事記に見当らない人物である。この人物は9代開化天皇の王子の日子坐王の更に子供である。従って10代崇神天皇の10年にはまだ生れておらないと考えてよい。従って吉備津彦と丹波道主命が同時に出陣することはあり得ない。
 古事記では丹波征伐したのは日下坐王で、日本書紀の彦坐王に該当する。日本書紀は丹波征伐の手柄を日下坐王にしたくなかったので、仮空の人物を登場させたのである。
 古事記では孝霊天皇の御世に大吉備津彦と若建吉備津彦に吉備征伐をさせている。中国で倭国大乱が収ったのが180年代で、私の16頁の年表では孝霊天皇の御世である。
 中国で倭国大乱とあれば、「大」は天子や皇帝を意味する。大礼、大典、大葬がその例で従って倭国大乱とは日漢戦争を意味する。
 魏志倭人伝で魏と句奴国が戦ったのは、句奴国とは久米国のことで、ここは天皇軍隊の本拠地で、美作の久米郡のことだった。これは従って日魏戦争で、この時も魏が大敗し時代は240年代だった。


私からの一言 
田村誠一氏は、日本書紀は、中国寄りの記事が書かれていると取上げておられます。
 古事記が出来たのは、712年です。僅か、8年後の720年に日本書紀が作られています。両方とも、この時代の歴史書とされています。
 何故、同じ時代に、国史が作られたのかを考える時に、「中国偏向の日本書紀」がヒントになるのではないでしょうか。

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