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小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(119) 壬申の乱(70) [古墳から探る歴史]

このタイトルより以下の文章は、田村誠一著『壬申の乱は日唐戦争』の58ページの文章です。

中国偏向の日本書紀 (6)

四道将軍の残の二人の人物は古事記と日本書紀では一致している。古事記では大毘古命は北陸道から会津まで賊を征伐して進んだ。この賊とは絹を密輸出していた漢族すなはち華僑と考えてよい。大毘古命の子のタケヌナカワワケは東の道十二道に同じく賊を征伐して会津で父と落合った。これが会津の地名の起りだと書かれている。会津若松の伊佐須美神社には、二将軍が出会った由緒が残っている。現古事記で相津と地名を謎にしたのは1263年に藤原朝臣が改ざんした証拠だ。
 古事記では吉備征伐を行ったのは大吉備津彦と若建吉備津彦である。この人物が仮空でない証拠は伯耆の九つもの神社に、この人物と孝霊天皇が合祀されていた。又由緒では鬼林山(日南町)、鬼住山(溝口町)の鬼を征伐した詳細の記述が残っている。吉備にはこの二将軍はもちろん兄妹の夜麻登母母曽姫が祀られた神社が存在する。
 吉備の鬼征伐の伝承は官軍に攻められて巨人古墳群の西の鬼ヶ城に立籠った中国人、温羅を征伐した事実を語ったものだ。


私から一言--「九つもの神社に、この人物と孝霊天皇が合祀されていた」と書いてありますが、ご自分で必ず、さがしてください。

 若建吉備津彦と関連のあることは、次の所に書いています。
①孝霊天皇、漢人を攻撃する
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-12-29

②孝霊天皇の吉備征伐
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-10

③東楽々福神社 
ここに、若建吉備津彦命が祀られています。
楽楽福神社と呼ばれる神社は、6社あります。
楽楽福神社の事は、次の所に書いています。
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/archive/c35373229-3

6つのうち、祭神が、大日本根子彦太瓊命と書いてある神社は、8世紀以後に、藤原氏の支配を受けて、このように祭神をうたうことを強制されたと思います。東楽々福神社も、大日本根子彦太瓊命と記すように云われたと思いますが、従わなかったか、例えば、江戸時代とか、明治時代になってから、祭神を変えられたと思います。
この5つの神社には、大吉備津彦と若建吉備津彦も祀られていたと推理しています。


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