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小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(121) 壬申の乱(72) [古墳から探る歴史]

このタイトルより以下の文章は、田村誠一著『壬申の乱は日唐戦争』の60ページの文章です。

中国偏向の日本書紀 (8)

日本書紀で好ましくない天皇は先づ神武天皇である。この天皇が東征に出発した地点を全く明かしてない。学者は暗示にひっかかって日向の国としたが、日向の地名は伯耆の日本海随一の良港のことだった。地図では境港の対岸であり、当時境港は夜見島で、米子とはまだ継ってなかった。
 神武天皇の義父君が大物主神であることを恐れて事代主神に、紀では改めてある。そしてこの大物主神は崇神紀に神話として登場させて偶像の神に仕立ててある。更に皇后を大和に来てから迎えた様に偽証の地名まで設けていた。これについては後に記述してある。
 孝霊天皇は漢が占領していた吉備を征伐した敵である。このために吉備津彦と称する、如何にもホントらしい人物を崇神紀に創作したのである。丹波征伐は、魏の軍隊を攻撃しクガミミノミカサ(難升米)を殺したので、仮空の人物を、ただ丹波に遣わしたとだけ書いた。大毘古命とタケヌナカワワケが東日本全域の華僑を征伐したが、これは中部地方までにとどめ、藤原の地盤の東国を除外した。


私からの一言
 <中国偏向の日本書紀>は、今日で8回目になります。 
この部分は、日本書紀を書いた人は、日本の歴史を書こうとしたのではなくて、中国人に都合のいいように書いていると、田村氏は述べようとしておられます。
 時代は、天武天皇の時です。 天智天皇は大津京を開いたことになっていますが、天皇の屋敷があった錦織に一度行かれれば、分かります。屋敷跡は、100坪ほどの広さです。 ここを中心に、あちこちに、飛び飛びに、存在する大津京の遺跡を歩きますと判ると思います。
 2時間もあれば、すべて、歩くことができます。ここに、天智天皇は幽閉されていた-----、誰にかといいますと、中国人にです。
 、田村誠一著『壬申の乱は日唐戦争』から転載した<中国偏向の日本書紀>は、人身の乱は、天皇家の皇族継承争いではなくて、 日唐戦争であった証拠の一番重要な部分だと思います。

 田村氏は <中国偏向の日本書紀>のタイトルを書いておられますが、偏向どころではないと思います。古事記を抹殺するための日本書紀を制作したと考えます。



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