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小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(133) 壬申の乱(84) [古墳から探る歴史]

林 博通著 『大津京』 86ページ 大津京の実態  1.近年の発掘調査を紹介します。
 昭和49年末、錦織2丁目字御所之内での大津宮建物跡の発見以来、大津北郊の錦織、・南滋賀・滋賀里・穴太の地域では住宅の新増築や宅地造成などにともない数多くの調査を実施してきた。
 この一連の調査で得られたいくつかの知見を要約すると次のごとくである。

(a)大津宮時代頃の大津北郊における琵琶湖の打線は、多少の出入りはあるものの、現在より600~700m前後西の陸地側にあったとみられる。当時の平地部分は現在の半分近い面積で、きわめて狭長な地勢であったと想定される。

(b) 錦織、・南滋賀・滋賀里・穴太の古くからの人々の住んだ地域は扇状地で、それぞれ独立した高燥地となっている。そして、その間は谷筋や低湿地で、建物は扇状地にしか建築出来なかったとみられる。

(c)これらの扇状地ははいずれも東西に長い舌状を呈し、しかも高低差が大きく、宮城としては左右対称の建物配置のための比較的まとまった平坦地が要求されるが、いずれもその適地とはいえない。しかし、この中で錦織地域は比較的高低差の少ない平坦地を求めることができる。

(d)穴太地域では扇状地の大半、特にその南緩傾斜面は後述するように穴太廃寺でしめられている。また、滋賀里地域では、小字蟻之内や太古塚周辺は住宅が密集しているが、昭和初年頃はここに宮が営まれていたとすれば、その造営時点ですでに削平されているはずの横穴式石室墳が多数確認され、最近でも多くの横穴式石室墳が民家の下などから検出されている。南滋賀地域でも後述のごとく高燥な西半分には大津宮時代の南滋賀廃寺が占拠している。
 こうした事実はこれらの地での大津宮の存在を否定する資料となる。

(e)これまでの調査で大津宮に関する建物跡の検出されたのは錦織地域に限られ、方位を同一にする南北の建物や門、廻廊、塀、倉、雨落溝の治世からみて建物設置可能範囲はさらに広がる

こうした調査結果から、大津京の宮は

錦織地域に営まれたと判断され、地勢からみて宮の規模は比較的小規模で、ほかの諸機関や肝心の宅地などは南滋賀や滋賀里、穴太等の扇状地に分散的に配置されたのではないか想定される。それでは、錦織地域において検出された大津宮の建物跡について、やや詳しく見てみよう。
 以上 林 博通著 『大津京』 86ページから転載しました。

こんなに、長く、コピーするのは、法律違反になるでしょうね。

唯、この五項目の事は、大津京に対する考察としては、正確であるように思います。
書物のタイトルは、[大津京]です。なのに、大津京はなかったという流れを書き、

(e)が最大の指摘です。

 この本は、大津宮が存在したという証拠として、8ヶ所の遺跡が残っている場所を、
前々回に地図上に掲載しておきました。

 この大津宮の証拠となる遺蹟は、  これまでの調査で大津宮に関する建物跡の検出されたのは錦織地域に限られ、方位を同一にする南北の建物や門、廻廊、塀、倉、雨落溝の治世からみて建物設置可能範囲はさらに広がる と断定されました。
 この見解は、林 博通氏の見解ですから、又、覆される可能性はありますが、この後に、
8ヶ所の遺跡の詳細が記されています。
 この部分までの転載は禁じられるでしょうから、この林 博通氏の

考古学ライプラリー  27  大津京  を購入して頂くしかありません。

調べましたら、この書物はなぜか。古書店で500~1000円で購入可能ですから、お求めになって、ご自分で、考察を確認してください。

林 博通氏は、JR湖西線が造られる前に、3.4kmにわたって、発掘調査された時のキャップです。

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