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小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(134) 壬申の乱(85) [古墳から探る歴史]

前回の林 博通著 『大津京』に書かれた考察はいかがでしたか。

(c)これらの扇状地はいずれも東西に舌状を呈し、しかも高低差が大きく、宮城としては左右対称の建物配置のための比較的まとまった平坦地が要求されるが、いずれもその適地とはいえない。しかし、この中で錦織地域は比較的高低差の少ない平坦地を求めることができる。

この部分は、納得出来ましたか。
「これらの扇状地はいずれも東西に舌状を呈し、しかも高低差が大きく、」
 この部分は、扇状地と云うものが、どのようなものかを知っている人は、想像は出来ますが、扇状地は実際には見た人はおられないと思います。

 前回の記事は、早く見られた方は、私は一杯、漢字の変換を間違って、そのまま、掲載しましたので、読まれるのが大変とだったと思います。
 そこで、[林 博通氏『大津京』を購入してください]と記しました。

実は、(c)の部分の下に、表8と 図53 を挿入されています。之をスキャンして、掲載つるつもりでしたが、どうしても、出来ませんでしたので、気になっていましたので、
本日のお詫びの文章となりました。

表の数字の説明を文章にするのは、難しいですが、試みてみます。

平安京は無かったのに、その大津京の朱雀大路の位置を決定するのは、意味がないのですが、当時は、大津京は、場所は分っていないが、麓から湖岸まで、ほぼ、1000m。前回の(a)の部分の事から、麓から500mの範囲に大津京があるという判断の歴史家が多かったのでしょう。 その部分の標高を測定して居られます。

    西500mの地点        朱雀大路      東500mの地点
滋賀里 標高149m    48       101m         87m

南滋賀 標高128m            98m         87m

錦 織 標高10m     14m      96m         89m

本の表では、各地域の標高差が、左の数値から右の数値を引き算して記入されています。
錦織の西500mの標高は10mと印字されていますが、14+96=110 110mのミスだと思われます。 他の空白の部分を計算してください。

図53は 滋賀里・南滋賀・錦織の傾斜比較図です。 これも図示されますと、錦 織地域以外での大津京の建設は 無理であることは、 一目瞭然です。

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