SSブログ

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(138) 壬申の乱(89) [古墳から探る歴史]

 日本書紀の作者は、
天智六年(667)、三月一九日の条に、「都を近江に遷す」と記しましたが、大津京を大津に造ったとは、記しませんでした。

日本書紀 天智天皇五年に次の記事が有ります。
それに代るものとして、
「是冬、京都之鼠、向近江移。以百濟男女二千餘人、居于東國」と記しました。これでは、解らない人がいるのではと、
日本書紀の孝徳紀には「鼠」を含む文章が五回出ています。
①「老人等相謂之日、自春至夏、鼠向難波、遷都之兆也」  (大化元年冬十二月条)
②「越国之鼠、昼夜相連、向東移去」         (大化二年是歳条)
③「数年鼠向東行、此造柵之兆乎」          (大化三年是歳条)
④「鼠向倭都而遷」               (白雉五年春正月朔条)
⑤「老者語之曰、鼠向倭都、遷都之兆也」      (白雉五年十二月条)
 と記録に残しました。

しかし、これだけでは、大津に都を遷した証拠にはなりません。そこで、大津の宮を表現した記事を残しました。

 具体時に、記事を並べてみます。
①群臣を内裏に宴す         天智天皇7年正月壬辰。
②浜台(はまのえてな)の下に、もろもろの魚、水を覆いて至る   天智7年7月
③大蔵に災けり           天智8年12月
④大きに宮門に射る         天智9年正月辛巳
⑤殿の前に進みて、賀正事を奏す   天智10年正月庚子
⑥漏剋を新しき台に置く       天智10年4月辛卯
⑦天皇、西の小殿に御す       天智10年5月辛丑
⑧内裏に於いて、百仏の眼を開けしむ 天智10年10月辛未
⑨内裏の仏殿の南に向い----      天智10年10月庚辰
⑩内裏の西殿の織の仏像の前に在り   天智10年11月丙辰
⑪大蔵省の第三倉より出でたり     天智10年11月丁巳
⑫大炊に八つの鼎有りて鳴る      天智10年是歳
⑬東宮に召して、大殿に引き入る    天武即位前紀

私の考えからしますと、これらの記事を歴史的に残す必要があったのか疑問に思いました。
確かに、内裏という言葉、古代都城の宮城における天皇の私的区域のことですから、天皇が居られたことを日本書紀の作者は確認した上で、このような記事を書き残したと思われます。
 13の文章を書き残したから、大津京が存在したことにはなりません。それで、大津京があったとは書かないで、このような文章を残しましたから、現在の歴史学者は、全員、大津京が有った筈だと考えて、いろいろ論文を発表されました。

 しかし、結論は出ていません。皆さんの論文の一部を拝見していますと、今後の発掘の結果を待ちたいとのコメントが殆どです。

 歴史のプロも素人の歴史好きの人達も、全員、日本書紀を書いた人に騙されたのではないかと疑っています。



日本書紀に騙された証拠を求めて、次の所に資料を作っています。

日本書紀が書いた本当の話  城造りhttp://blog.goo.ne.jp/skeikas/e/3e7872fcdf11aa4226e7762b8e1e674e

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。