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小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(140) 壬申の乱(91) [古墳から探る歴史]

 前回、次のように書きました。

 田辺昭三氏の『よみがえる湖都』には面白い事が書いてありましたが、其の内容には、考えが異なるので、林 博通氏が、『大津京』とタイトルを付けて、態々、出版されたのだと云うことを発見。

田辺昭三氏の『よみがえる湖都』には、林 博通氏とは違うことが書いてあるとは、どういうことかと云いますと、『よみがえる湖都』の152ページに『謎の山城』のタイトルが書かれ、158頁まで続きます。
全部、転記するわけにはいきませんから、 1円ですから、買って下さい。この本は、どこの図書館にもありますから、コピーして読んで下さい。、

山城の築城は、天智天皇の時に集中して日本書紀に見られます。
天智天皇と文武天皇だけを取り出してみます。

長門城    天智天皇4年(665年)8月条(築城)
長門城    天智天皇9年(670年)2月条(築城)
屋嶋城    天智天皇6年(667年)11月条(築城)
大野城    天智天皇4年(665年)8月条(築城)
大野城    文武天皇2年 (698年)5月25日条(修造)
基肄城(椽城)天智天皇4年(665年)8月条(築城)
基肄城(椽城)文武天皇2年(698年)5月25日条(修造)
鞠智城    文武天皇2年(698年)5月25日条(修造)
金田城    天智天皇6年(667年)11月条(築城)
三野城    文武天皇3年(699年)12月4日条(修理)
稲積城        文武天皇3年(699年)12月4日条(修理)
金田城    天智天皇6年(667年)11月条(築城)---対馬

これらのお城を今一度、調べ直す必要が有ります。

次の所に、山城のことを書きましたので、ご覧ください。
 ①日本書紀が書いた本当の話  城造り
http://blog.goo.ne.jp/skeikas/e/3e7872fcdf11aa4226e7762b8e1e674e

②日本書紀が書いた本当の話  城造り その2
http://blog.goo.ne.jp/skeikas/e/d8f17e1aa370d2b3b1106505c19725f6

 ③日本書紀が書かなかったお城の話  城造り その3
http://blog.goo.ne.jp/skeikas/e/9141afa4a3035e639cbdb4b2fb2e59f9
田辺昭三氏の『よみがえる湖都』の158ページの最後のページには、次のように書いて居られます。


天智朝に至って、にわかに西日本各地に築造された朝鮮式山城については、その築城の意義をいま一度整理してみよう。結論から先にいえば、この山城は日本防衛のために築造されたのではなく、唐がその配下にあった百済の傀儡勢力を利用して構築した軍事施設ではなかったかとする一つの仮説である。それは、ただちに軍事行動を起こすための実戦的なものというよりは、大和の中央政権を遠まきに包囲することによって、軍事的な圧力を掛ける目的を持った施設だったと思う。各地の山城は、唐や新羅の外来勢力にむかってたのではなく、逆に日本の政治的中枢を包囲し、軍事的・政治的圧力を加えて行くための道具だてであったとかんがえるのである。
 この天智朝にあらわれた朝鮮式山城から、太平洋戦争の敗戦後、たちまち日本書紀各地へ設置された数百におよぶ米軍基地を想起するのは、いささか想像にすぎるであろうか。


 私からの感想 田辺昭三氏がこの文章を書かれた時は、『鬼ノ城』の発掘は、進んで居なかったので、この程度の発想に成りましたが、天智天皇の頃に、この城があったことを知っている人は、僅かだったでしょう。
鬼ノ城に限りますと、中央政権を軍事的な圧力を掛ける目的を持った施設だったとは言えないでしょう。
 
私は九州に上陸した中国人が、逃げる時に籠る城だったと考えます。

 それにしても、駐留軍の話は、もう、戦後70年に成ると云うのに、存在を当り前のように考えている日本人は、本当にお人よしですね。

 幸い、トランプ氏は、お金を出さないのであれば、米軍を引きあげると云ってますから、大統領に成った時は、引きあげて貰えばいいと思います。

 この辺りの文章になれば、脱線かもしれませんが、少なくとも、自衛するように憲法改正は必要です。

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