閑話を数回
長い間、「小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳
(141) 」を読んで頂きましてありがとうございます。
このタイトルを読んだだけでは、どのような内容なのか解らないのに、お付き合い頂きました。
私としましては、略、終りに近づきましたので、タイトルは換えないで、続けようと思っていましたが、以前は、アクセスが、500前後ありましたが、最近は、100件程に成りました。
記事数は、3038を表示しますが、書き始めは記憶しませんが、書き始めて、12年ぐらいになると思います。毎日の様に投稿したと思います。
「小さな発見・新しい発見」と題してから、141回目に成ります。
小さな発見とは、その後ろに書いています<滋賀県大津市の古墳>のことです。特に古墳に興味があったわけではありませんが、この発見をしてから、大きな発見をしたというお話です。
大きな発見は、
日本は、645年後、中国に征服されましたということです。
征服した中国人は、其の後の歴史を、古事記が書かれた後、10年掛って、古事記を処分し、日本書紀に書き変えました。
今の日本人は、歴史を考える時に、日本書紀に書いてあるから・・・・。 六国史に書いてあるから・・・・と考える人が多く、騙されることに成ったことです。
どうして、私が小さな発見をしたかと云いますと、大津市の百穴古墳群
を見てからです。
其の時のことを少し、書いてみます。
百穴古墳群http://www.bell.jp/pancho/travel/oumi/hyakketu%20kofungun.htm
を訪れました。
奈良の石舞台には及びませんか、それに近い古墳が一杯でした。一回では、少ししか見ることが出来ませんので、3回に分けて見に行きました。 傾斜の急な山中に、その数は100穴どころではありませんでした。
それ以後、湖西を歩きまわること、一年に及びました。
小さな発見ですが、知らないことばかりでしたから、いろいろ勉強しました。
紹介しました百穴古墳群のブログを書かれた方は、丁寧に作られていますが、この墓の主のことを『渡来人』と書いて居られます。だれか解らなかったからだと思います。
この渡来人の造語に皆さんは、騙されることに成ったと思います。
このブログには、小さな地図が付けられていますが、ご覧ください。百穴古墳群が見付かった所は、滋賀里町です。その南は、南志賀町、錦織町です。
明治20年発行の大津市の辺りの地図を見た記憶が有ります。そこには、錦織町の住宅が表示されていましたが、それ程多くありませんでした。
と云うことは、錦織町に大津宮があったことは確かでしょうが、其の後、天皇が居られたから、どんどん、街が大きくならなかった証拠だと思いました。
錦織町の南には、漣町が表示され、錦織町より、集落が少なく表されていました。漣町は、何時頃から人が住むようになった地域かは、調べていませんが、6世紀にはなかったのではと推理しました。この街も、皆さんが、大津京だと言っておられる所になりますが、明治二年でも、民家は少くなかったことを教えてくれます。
このように考えますと、遺蹟の発掘状況からは、大津京は無かったことに成ります。しかし、天智天皇は大津市錦織町に住んで居られた。それだけではなくて、大津の宮があった証拠と思われる遺蹟が、9ヶ所に分れてあることに成りました。
今後、住宅の建て替えが行われる度に、発掘はされるでしょうが、益々、理解出来ない現象が見付かるだろうと考えています。
これを考えることの出来るのは、歴史のプロの人に限りません。素人でも、考えることは出来ると思います。
その後、少しずつ判ったことは、
①滋賀里町辺りの百穴古墳群は、1000個程あることが判りました。(これを説明した方はおられません)
②錦織町では、現在の二丁目に於いて、遺構が見つかりした。これが、大津宮の遺跡と断定された。(現地を訪れてください。100坪程の所が、天智天皇が住まわれた所だと断定されました)
③近江大津宮錦織遺蹟
http://www.bell.jp/pancho/travel/oumi/ootunomiya.htm
この方のブログは、正しいのではないかと考えます。 是非お読み下さい。
錦織ニ丁目の遺跡は、第一回目に発掘された遺蹟です。その後、全部で、九ヶ所の遺跡を書いて居られます。
唯、大きな間違いが有ります。
【大津宮遷都】天智称制6年(667) 3月19日
【大津宮廃都】天武天皇元年(672) 7月22日、壬申の乱の敗戦による
これは、日本書紀に書いてあるので、執筆者は書かれたと思いますが、大津宮の遺跡と思われている9ヶ所の遺跡を地図の上で確かめてください。
随分離れて存在します。離れていますが、ここには、天皇と関係ある人が、住んでおられた証拠でしょう。
タイトルに『大津京』と付く書物やネットで、調べましたが、多くの方が、大津京は、
錦織ニ丁目を中心にして、大津京の範囲を策定して居られます。
これが正しいとしますと、9番目に発掘された遺蹟は、大津宮の遺跡ではなかったのかと云うことになります。(離れ過ぎています)
話題変わります。
「新しい日本の歴史so」を読んで頂ける方は、最近、100人前後に減りました。その中で、「小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳」を読んで下さる方は、昨日は、11名でした。
私としまして、昨日は、天智天皇が、一杯造られたと日本書紀に書かれている古城は、殆ど、645年に日本を征服した唐の人達が、自分達の逃げ城として、造ったという結論を見出しました。最後に、残ったのは「水城」も唐の人が造ったのだと書く準備をしています。
しかし、いくら研究しても誰一人として、賛同して戴ける方が居られませんと、意味が有りませんので、このブログは、中止にしようかなと考えています。
急に掲載を中止にするのは、今も読んで頂いている11名の方に申し訳ありませんので、いいわけを聞いて頂こうと書いています。
(141) 」を読んで頂きましてありがとうございます。
このタイトルを読んだだけでは、どのような内容なのか解らないのに、お付き合い頂きました。
私としましては、略、終りに近づきましたので、タイトルは換えないで、続けようと思っていましたが、以前は、アクセスが、500前後ありましたが、最近は、100件程に成りました。
記事数は、3038を表示しますが、書き始めは記憶しませんが、書き始めて、12年ぐらいになると思います。毎日の様に投稿したと思います。
「小さな発見・新しい発見」と題してから、141回目に成ります。
小さな発見とは、その後ろに書いています<滋賀県大津市の古墳>のことです。特に古墳に興味があったわけではありませんが、この発見をしてから、大きな発見をしたというお話です。
大きな発見は、
日本は、645年後、中国に征服されましたということです。
征服した中国人は、其の後の歴史を、古事記が書かれた後、10年掛って、古事記を処分し、日本書紀に書き変えました。
今の日本人は、歴史を考える時に、日本書紀に書いてあるから・・・・。 六国史に書いてあるから・・・・と考える人が多く、騙されることに成ったことです。
どうして、私が小さな発見をしたかと云いますと、大津市の百穴古墳群
を見てからです。
其の時のことを少し、書いてみます。
百穴古墳群http://www.bell.jp/pancho/travel/oumi/hyakketu%20kofungun.htm
を訪れました。
奈良の石舞台には及びませんか、それに近い古墳が一杯でした。一回では、少ししか見ることが出来ませんので、3回に分けて見に行きました。 傾斜の急な山中に、その数は100穴どころではありませんでした。
それ以後、湖西を歩きまわること、一年に及びました。
小さな発見ですが、知らないことばかりでしたから、いろいろ勉強しました。
紹介しました百穴古墳群のブログを書かれた方は、丁寧に作られていますが、この墓の主のことを『渡来人』と書いて居られます。だれか解らなかったからだと思います。
この渡来人の造語に皆さんは、騙されることに成ったと思います。
このブログには、小さな地図が付けられていますが、ご覧ください。百穴古墳群が見付かった所は、滋賀里町です。その南は、南志賀町、錦織町です。
明治20年発行の大津市の辺りの地図を見た記憶が有ります。そこには、錦織町の住宅が表示されていましたが、それ程多くありませんでした。
と云うことは、錦織町に大津宮があったことは確かでしょうが、其の後、天皇が居られたから、どんどん、街が大きくならなかった証拠だと思いました。
錦織町の南には、漣町が表示され、錦織町より、集落が少なく表されていました。漣町は、何時頃から人が住むようになった地域かは、調べていませんが、6世紀にはなかったのではと推理しました。この街も、皆さんが、大津京だと言っておられる所になりますが、明治二年でも、民家は少くなかったことを教えてくれます。
このように考えますと、遺蹟の発掘状況からは、大津京は無かったことに成ります。しかし、天智天皇は大津市錦織町に住んで居られた。それだけではなくて、大津の宮があった証拠と思われる遺蹟が、9ヶ所に分れてあることに成りました。
今後、住宅の建て替えが行われる度に、発掘はされるでしょうが、益々、理解出来ない現象が見付かるだろうと考えています。
これを考えることの出来るのは、歴史のプロの人に限りません。素人でも、考えることは出来ると思います。
その後、少しずつ判ったことは、
①滋賀里町辺りの百穴古墳群は、1000個程あることが判りました。(これを説明した方はおられません)
②錦織町では、現在の二丁目に於いて、遺構が見つかりした。これが、大津宮の遺跡と断定された。(現地を訪れてください。100坪程の所が、天智天皇が住まわれた所だと断定されました)
③近江大津宮錦織遺蹟
http://www.bell.jp/pancho/travel/oumi/ootunomiya.htm
この方のブログは、正しいのではないかと考えます。 是非お読み下さい。
錦織ニ丁目の遺跡は、第一回目に発掘された遺蹟です。その後、全部で、九ヶ所の遺跡を書いて居られます。
唯、大きな間違いが有ります。
【大津宮遷都】天智称制6年(667) 3月19日
【大津宮廃都】天武天皇元年(672) 7月22日、壬申の乱の敗戦による
これは、日本書紀に書いてあるので、執筆者は書かれたと思いますが、大津宮の遺跡と思われている9ヶ所の遺跡を地図の上で確かめてください。
随分離れて存在します。離れていますが、ここには、天皇と関係ある人が、住んでおられた証拠でしょう。
タイトルに『大津京』と付く書物やネットで、調べましたが、多くの方が、大津京は、
錦織ニ丁目を中心にして、大津京の範囲を策定して居られます。
これが正しいとしますと、9番目に発掘された遺蹟は、大津宮の遺跡ではなかったのかと云うことになります。(離れ過ぎています)
話題変わります。
「新しい日本の歴史so」を読んで頂ける方は、最近、100人前後に減りました。その中で、「小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳」を読んで下さる方は、昨日は、11名でした。
私としまして、昨日は、天智天皇が、一杯造られたと日本書紀に書かれている古城は、殆ど、645年に日本を征服した唐の人達が、自分達の逃げ城として、造ったという結論を見出しました。最後に、残ったのは「水城」も唐の人が造ったのだと書く準備をしています。
しかし、いくら研究しても誰一人として、賛同して戴ける方が居られませんと、意味が有りませんので、このブログは、中止にしようかなと考えています。
急に掲載を中止にするのは、今も読んで頂いている11名の方に申し訳ありませんので、いいわけを聞いて頂こうと書いています。
2016-10-04 05:17
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