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倭の五王 [日本の歴史]

日本の五世紀に、中国で、「倭の五王」と呼ばれた王が居たことが記されています。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説が、一番詳しい様に思われます。
https://kotobank.jp/word/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B-154280

詳しいことは良いことですが、詳しすぎて、五王の名前を覚えるだけで、大変です。
少し転記しますと、

中国史料にその名が伝えられた5世紀の5人の倭国王。『宋書(そうじょ)』と『南史』では讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)、『梁書(りょうしょ)』では賛・彌・済・興・武と記す。しかし、讃と賛は音通、珍と彌も一見文字の違いは大きいが、珍 珎 弥 彌などの字形の類似から生じた誤写にすぎず、いずれも同一の王をさすとみてよい。
 倭の五王と中国王朝との交渉は421年(永初2)の讃の宋への遣使に始まる。宋はこの遣使を喜び、讃に「除授」を賜った。このとき、讃が授けられた官爵号は史料に明記されていないが、その後の倭王の例からみると安東将軍・倭国王であった可能性が濃い。3世紀の「親魏倭王」以来、約1世紀の空白ののち、ここにふたたび「倭国王」が誕生したことになる。

以上の事から判る様に、「倭の五王」と呼ばれる人が、倭の国には、存在したと言うことが、中国の資料に残されていることが判ります。 それに対して、肝心の日本が、其の当時、「倭」と言う国であったことや、統治する人がいたという記録は残っていません。

「倭の五王」の遣使の記録が『古事記』『日本書紀』に見られないことや、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など 一字の中国風の名を名乗ったという記録も存在しないことが判っています。

ということは、どの様に解釈すれば良いのでしょう。

中国の記録に依れば、次の資料から判ります。
 倭の五王と中国王朝との交渉は421年(永初2)の讃の宋への遣使に始まる。宋はこの遣使を喜び、讃に「除授」を賜った。

 「讃」は、日本に置ける天皇の資料から、第17代天皇の履中天皇とされています。
履中天皇は、仁徳天皇の次の天皇です。
中国の歴史書に、日本にあった「倭」と言う国が、「讃」という人を中国に遣使として派遣したと書かれていることを、日本の歴史の学者は、第17代天皇の履中天皇であろうとしていることが通説になっているように記されています。

おかしいですね。日本の五世紀に当たる頃の日本は、「日本」という国名では無くて、「倭」という国で、「讃」という国王が始めとして、五人の国王が、次々と、宋の国に、派遣された事が、中国の資料に残されています。

倭の五王は、天皇が派遣した使者の名前なのか、その時の日本の天皇の名前なのか、ハッキリ判りません。

 「讃」という人は、日本の歴史書に書かれている天皇には、存在しませんが、履中天皇は仁徳天皇の第一皇子。母は葛城襲津彦の女・磐之媛(いわのひめ)とされています。

次の書物には、名前は、一字どころか、長い名前が記されています。 
• 大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと) - 『日本書紀』
• 大江之伊邪本和気命(おおえのいざほわけのみこと) - 『古事記』
• 大兄伊射報本和気命(おおえのいざほわけのみこと) - 『播磨国風土記』

急に、日本の国名として、「倭」と言う名前が登場しましたが、「倭」については、次回に書いてみようと思います。
以上の事から判る様に、「倭の五王」と呼ばれる人が、倭の国には、存在したと言うことが、中国の資料に残されていることが判ります。 それに対して、肝心の日本が、其の当時、「倭」と言う国であったことや、統治する王がいたという記録は残っていません。

「倭の五王」の遣使の記録が『古事記』『日本書紀』に見られないことや、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など 一字の中国風の名を名乗ったという記録も存在しないことが判っています。

ということは、どの様に解釈すれば良いのでしょう。

中国の記録に依れば、次の資料から判ります。
 倭の五王と中国王朝との交渉は421年(永初2)の讃の宋への遣使に始まる。宋はこの遣使を喜び、讃に「除授」を賜った。

 「讃」は、日本に置ける天皇の資料から、第17代天皇の履中天皇とされています。
履中天皇は、仁徳天皇の次の天皇です。
中国の歴史書に、日本にあった「倭」と言う国が、「讃」という人を中国に遣使として派遣したと書かれていることを、日本の歴史の学者は、第17代天皇の履中天皇であろうとしていることが通説になっているように記されています。

 日本の五世紀に当たる頃の日本は、「日本」という国名では無くて、「倭」という国で、「讃」という国王が始めとして、五人の国王が、次々と、宋の国に、派遣された事が、中国の資料に残されています。

倭の五王は、天皇が派遣した使者の名前なのか、その時の日本の天皇の名前なのか、ハッキリ判りません。

急に、日本の国名として、「倭」と言う名前が登場しましたが、「倭」については、次回に書いてみようと思います。



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