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No24 ユダヤ人は美作にいた

紀元前には、中国人もユダヤ人も日本にいました。中国人のことは、徐服の伝説を持ち出しますと、解決しそうです。ユダヤ人の紀元前のことは、後に書くこととして、まず紀元後には「ユダヤ人は美作にいた」ことを書いてみます。

 陶棺というものがあります。陶器でできた棺おけのことです。棺おけは、木で出来たものが、木棺。甕を二つ合わせたものが、甕棺です。石製は、石棺です。
久米郡に限って陶器製の棺桶がたくさん出土しています。
倉敷考古館長の間壁忠彦しと・葭子夫人共著 『吉備古代史の未知を解く』によりますと、「焼き物の棺は、全国的にみても、その7~8割に当るものが、岡山県下で発見されている。しかも、県下発見例の中の7割以上が、吉備の中でも、後の美作となる地域に集中していることは、あまりにも異常な事なのである。」と述べ、その後、異常であることを強調し、解明するために、162ページから196ページを費やされましたが、解明されていません。
 焼き物で出来た棺桶を陶棺といっていますが、岡山県下の陶棺は、土師質亀甲形陶棺と須恵質及び切妻家形陶棺とが多く、背が高く大きな棺桶です。(実物は見たことがありません)
前者は、赤味がかった陶棺で、後者は、須恵質とありますから、土師質より高温で焼かれているのだと思います。久米町の糘山遺跡や佐良山に多いのが判ります。
 
陶棺がいくら多く出土してもユダヤ人には結びつきません。
たくさん出土した中の一つが国立上野博物館に納められています。棺桶(実物は見たことがありませんが、写真の雰囲気では、江戸時代に使われた殿様の籠の形、大きさです)の側面に一人の人物が刻まれています。問題はその人物が両手で触っている羊です。羊は神の使いですが、その刻まれている尾の先が太くなっているそうです。この羊のことを寒羊といい、中国でも見つかっており、ユダヤ人が中国を通って、美作まで連れてきた証拠だと、田村誠一氏は著書で述べています。
川瀬勇氏の著書「日本民族秘史」の中で、この寒羊はイスラエルが原産であることとこの羊の毛で作ったフェルトが正倉院の御物の中にあると述べています。
間壁忠彦は、地元の方である上に、石棺のことに詳しい方ですが、 どこから検討しても不思議なものとして文を書いておられます。
私も「羊は神の使いですが、その刻まれている尾の先が太くなっているそうです」だけでは、ユダヤ人の墓であるとは断定できません。しかし、これから述べますことを総合的に判断しますと、ユダヤ人であるとしますと、すべて解決します。
例えば、陶棺の7~8割に当るものが、岡山県下にあると言うことは、2割に当たるものが、全国に存在ということです。兵庫県多可郡中町にもあります。こちらの陶棺は全く、デザインが異なり新しい感じをうけます。きっと、年代が新しいものだと思います。岡山の陶棺は、すべて7世紀と間壁忠彦は書いておられます。なにを根拠に7世紀とされたのか判りません。文章のあちこちに、このお墓の近くには、火葬のお墓が存在することを書いておられます。ということは、土葬から火葬に移行する時代の墓群ととらえられたのではないでしょうか? そのため、古墳時代の最後と言う意味で7世紀でしょうか? 私はすくなくとも、5世紀以前だと思います。ユダヤ人であれば、7世紀よりも火葬が早くてもいいことになります。


No23 ユダヤ人は紀元前に、日本にいたか?

この部分は、私には重荷です。笑い話として読んで頂いても結構です。ユダヤ人が絹を運んでいたことは事実だと思います。神武東征のときは、ユダヤ人は神武天皇の味方をしたと思われることが見付かります。この話しは複雑ですので、又の機会にしまして、その200年前にも居た話を書いてみます。
 中国の始皇帝の国の名前は、「秦」といいます。「秦」は「しん」と読みますが、「はた」とも読みます。「はた」と聞けば、秦の河勝です。京都に太秦(うずまさ)という所が有ります。推古天皇11年に秦河勝が聖徳太子から頂いた仏像を奉じて建てたという広隆寺のある近くで、古くは葛野郡葛野郷と呼ばれ、秦氏が渡来して大いに開発したところです。伝説によると、「万里の長城」を築いた始皇帝の後裔と称する融通王が、百二十県の人民(20000人ぐらいか)をひきいて帰化したのが秦氏の始祖だといわれいます。融通王は日本名を弓月君と言われ、朝廷に絹帛を沢山献じたので「波多」の名が与えられたと伝えられています。日本書紀の雄略15年のところに、秦酒公が百八十種の勝部(すぐりべ)を率いて絹を献上したとき、「うずたかく」積まれたから、「うずまさ」という名前を頂戴したという記事が載っています。
話しは変わりますが、広隆寺の近くに大酒神社があります。神社には、その渡来の秦氏を率いた英雄が、弓月君(ユンズノキミ)と伝えられています。中央アジアに「弓月王国」がありましたが、唐と戦いが始まると、ここにいたユダヤ人ネストリウス派キリスト教教徒(景教徒)を率れて、弓月君は国外に脱出、朝鮮半島に亡命、やがて日本へとやってきたのです。また、ある人々は、中国にも渡来し、太秦寺を建立します。中国では、「たいしんじ」とでも読むのでしょうか? 太秦はローマのことを言うらしいです。中国の人は、ローマから伝わったと理解していたのでしょうか?

らしい話しばかりを寄せ合わせますと、秦河勝とユダヤ人と秦始皇帝とは、何らかの関係はありそうです。どこかの本に秦始皇帝はユダヤ人であったということが書かれていたように思いましたが、見付からない所をみると私の記憶違いかもしれません。

又、話しは変わりますが、「徐福の伝説」と言うものがあります。
伝説と書きましたが、中国にはある程度の記録があるようで、徐福が住んでいたというところも判っているそうです。
そこで、徐福に付いて記してみます。
中国の始皇帝は紀元前三世紀ごろ、秦という大帝国を打ち立てた。北方に万里の長城を築き、都には阿房宮という大宮殿を建造し、死後も兵馬俑で有名なお墓を造った。なんでも、可能にした始皇帝にも意のままにならないものがあった。「死」である。
 そこで、徐福なる人に、不老長寿の薬を求めてくるように命じた。

以上のことは、次の文献に記録が見られます。
  「史記」秦始皇本紀(BC219年)薺の人徐市ら言う、海中に三神山あり、蓬莱、方丈、瀛洲と
曰い、僊人これに居る。童男女と之を求むることを得ん。
 「史記」秦始皇本紀(BC212年)始皇・・乃ち大いに怒りて曰く・・徐市ら費すこと、巨万を以っ
て計うるも、終に薬を得ず。
 「漢書」伍被伝(一世紀) 徐福をして海に入り、仙薬を求めしむ。多く珍宝・童男女三千人、
五種・百工を薺して行かしむ。徐福は平原大沢を得、止まりて王となりて来らず。

 「呉書」孫権伝(一世紀) 秦始皇帝、方士徐福を遣わし、童男童女数千人を率いて海に入
り、蓬莱神山及び仙薬をもとめしむ。亶州にとどまりて還らず。世々相承けて数万家あり。
(亶州 を種子島と周辺を比定する見解がある。)

 「義楚六帖」(後周) 今に至りて徐福の子孫皆「秦」氏と言う。

この文献をみても、何処にも日本に来たとは書かれていません。「亶州にとどまりて還らず」とありますが、亶州がはたして、どこにあるかが決め手になります。
不思議なことに、日本各地に徐福が来たという伝説が残っていて、「徐福伝説」と名づけて、多くの人が詳しく調べインターネットにも公開されています。それによりますと、以前は、単なる伝説と思われていましたが、中国の方での、調査では、徐福という人は、実在のひとであることも判って来たそうです。もし、除福が、日本を目指してやって来て、上陸したとすれば、記録に残っている一番ふるい来訪者になると思います。
私がもっとも、注目する所は、
①時が BC212年であること。
②童男童女数千人を率いて
特に、「童男童女数千人を率いて」です。
徐福が帰ってこないので、皇帝は怒ったとありますから、薬を探しに出かけたのは確かでしょう。しかし、子供も、女も全てであるということは、移民を目的にしていたと思われます。初めての土地に、数千人の人を連れて行くわけがありません。ある程度のことは判っていたはずです。特に、この国では、長寿の人がごろごろいたのでしょう。故に、きっとこの国には、不老長寿の薬があるに違いないと考えたのでしょう。
 しかし、ただそれだけの事で、数千人の人を派遣するでしょうか? 当時の船がどれほどの人数を載せることが出来たかわかりませんが、船の準備だけでも大変です。
BC212年にユダヤ人が、日本から絹を運んでいたと仮定するだけで、皇帝が何故このような計画をしたかが判ります。日本のことはある程度知っていたのだと。


No22 日本の絹はユダヤ人によって世界へ

タイトルは簡単ですが、これを立証するのは容易でありません。先ず、日本のどこに絹があったのか? ユダヤ人が本当に居たのか? 少しずつ、解明に挑戦してみようと思います。
その前に、紀元前の日本人は、どのような人であったか、簡単に書いてみようと思います。日本側に残るものは、古事記と日本書紀しかありません。この中に書かれているもので、初代天皇である神武天皇はどうやら実在していたらしいですが、よく判らないので、九州のほうから戦争をしながら奈良にやって来たストーリーをでっち上げ、実際にあったことらしく書いたという人も居られます。しかし、このように云われる人は、悲しいかな勉強がたりません。この話しが仮に、作り話しであっても、その前に函館で住んでいた人が、漆をつかっていた証拠が発見されています。紀元前7000年のことです。函館のような遠いところは、日本ではなかったといえば、言い逃れは出来ますが、京都府の福知山・夜久野町でも縄文の遺跡が見付かっています。当然、この人たちは日本人です。縄文の遺跡は全国いたるところに見ることが出来ます。そのような人は、勝手にてんでばらばらに住んでいたことにして、所謂、国らしきものが出来てからだけを問題にすることにします。しかし、神武天皇は当てにならない、9代までの天皇も当てにならないと言っていますと、日本の歴史は解明できません。
別に判らないでも良いと思います。しかし、外国もすべてこうなのでしょうか? 文字が無くてもいっぱいのことが判ります。間のわからない部分は、想像が加わりますが、想像を加えることによって、すべての点で矛盾が無ければ、点の判った部分は正しいという論法は、科学の世界では普通に行われています。
例えば、水は水素という元素と酸素という元から出来ています。
水素も酸素も見えません。水素2つと酸素1つがくっついて安定した水という物質を作っています。これは、手で触ることは出来ますが、見るたびに形が異なり、H2Oが水とはなかなか理解できません。病気の原因は、いろいろありますが、その中の一つに、細菌というものがあることにするといろいろ説明が付きました。その内に、細菌を目で見ることができる拡大鏡が考えられ、細菌が動いているのを見ることが出来るようになりました。こうなると進歩ははやいものです。顕微鏡ができ、電子顕微鏡が完成しました。
ある仮説をたてるということは大切なことだと思います。仮設というのは、ふぅわと沸いて来るものではありません。よく言われるように失敗は成功の元という言葉がありますが、膨大な失敗を重ねていますと、成功の糸口が思いつきます。
仮説も同様に大切なものです。と、我田引水的に長々書き連ねてきました。私が膨大な研究をしたのではなく、他人がしたものを受け継いで、その仮説が正しいかどうか調べている所です。
仮説その1、古事記に書かれていることはすべて、実話である。
仮説その2、神という字がついている人又は神さんは、ユダヤ人である。
 その1から何が言えるかといいますと、古事記に多くのページが割かれている部分に登場する人物は、外国から渡来した人だということにしますと、辻褄が合います。イザナギとイザナミは、北京の南にあった四国ぐらいの大きさの中山王国からやって来た白狄人で狩猟民族です。その子供に三人います。本当の子供ということにしますと、辻褄が合いませんので、アマテラスとスサノオとツキヨミは、隠岐島にやってきて、ある時期、兄弟のように一緒に住んでいました。その後、イザナギとイザナミは、ヒルゼン高原を新しい生活の場とすることを決心して、入植します。ヒルゼンは米作りには適していなくて、生活は大変です。イザナミの死があります。死んだイザナミを連れ戻しにイザナギは出かけますが、イザナミとの約束を破って、逃げかえる途中、川で禊をしていますと、アマテラスとスサノオとツキヨミが助けにやってきます。こうして、四人でまた、新しい国の建設が始まります。その地のことを古事記では、高天原と書いています。
それでは、三人の子供は何処から来たかさぐってみますと、アマテラスは、呉の太白の子孫。スサノオは高句麗から来た騎馬民族。ツキヨミは天山山脈からきた月支族の人、この人たちは、中国へ伝えるより先に、日本へ仏教を伝えました。この人たちは、すべて中国に滅ぼされました。あまり年月を違えないで日本にたどり着いたと思われます。
 このように、古事記に書かれている神が、すべて、外国からの渡来であると仮定しますと、やって来た動機は、二つです。
①余程すばらしい国と聞いていたのでやって来た。
②追われて仕方なくたどり着いた人たちです。
①は日本に来ていたユダヤ人が伝えた。②は、紀元前中国に滅ぼされて、やって来ました。中国の歴史から考えられる民族を当てはめますと、上のようなことになります。このような人達の混ざり合った人達が、高天原をつくり、もともと、住んでいた原住民を追いだすことになりました。
こんな簡単なストーリーであれば、このように書けば済むことですが、古事記には、訳の判らないことがいっぱい書かれています。こんな判らないのであれば、これは全部神話と呼ぶ創作物であるとなってしまいました。
ところが、困りました。あちこちで、どんどん発掘がすすみます。出土したものから、古事記以前のことがいっぱい判ってきました。ところが、発掘されるのは古墳が多いです。古墳時代は、4~7世紀が正しい歴史であるために、このお墓は紀元前のものです。240年頃のものですなどは云えなくなりました。日本の歴史は混迷を深めるばかりです。

「古事記に書かれていることは、すべて、実際にあった話」と仮定しますと、古事記に対する読み方は全く変わってきます。鉄の奪いあいはあったでしょう。水銀の取り合いもあったでしょう。この部分に手が回らないで、目下、「絹の奪い合いがあった」と仮定すると、その後の歴史は、無駄な力を使わなくても解明します。 
仮定と考古学を使って、「日本の絹はユダヤ人によって世界へ」と参ります。


No21 倭文神社は織物の神を祭ります

倭文と書いて、「しとり」「しどり」「しずり」と読みます。べつの漢字で書きますと、静織(しどり)です。
 呉織と漢織と書いて、「くれはとり」「あやはとり」と読みます。呉は「くれ」漢は「あや」ですから、織は「はとり」と読むことになりますが、漢和辞典では、「しき」「しょく」「おる」しかありません。
この二つは、呉の国の織物・漢の国の織物という意味でしょう。倭文は倭の国の文(織物)という意味になります。
ただ、日本書紀の応神天皇の37年春のところに、日本からの求めに応じて「呉の王は、工女(ヌイメ)の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人の婦女を与えた」という記事が載っています。大阪府池田市に呉服(クレハ)神社があり、「呉織・穴織」の二人が祀られていますから、記事に見られることは実際にあったと思われます。となりますと、「呉織」は、工女の名前ということになります。  このようなことから、元々、絹のことを日本では、「しづまたは、しつ」と読んでいたのではないでしょうか? 」
日本の絹も中国の絹も同じものであれば、わざわざ、日本の絹織り物のことを「倭文」と漢字で書く必要は無かったでしょう。日本の絹が素晴らしかったので、中国の人は、「倭文」と書き著し、読み方は、日本人が表現している通り、「しとり」と読んだと思われます。
そこで、絹を作っているところでは、「しつ」「しづ」「しず」の地名が生まれたのでしょう。その例を記しておきます。
鳥取県には、倭文神社が二ヶ所あります。その一つは、旧の住所で、東伯郡北谷村志津にあります。
 茨城県那珂市静字帝青山に、静神社があります。祭神は、織物の神である建葉槌命となっています。
 滋賀県余呉町と木之本町の境に賤ヶ岳があります。木之本側の麓に、大音の集落があります。ここも絹織物があったのかどうか調べていませんが、絹からお琴の糸が作られています。「賤」は「しず」と読みます。
 このような事から、日本では、古来絹のことを「しつ」と云って居た証拠になるでしょう。

さて、次に、全国にある倭文神社の所在地を国郡別に掲げます。
上野国佐波郡           甲斐国巨摩郡
大和国葛下郡           但馬国朝来郡
伯耆国久米郡           伯耆国川村郡
駿河国富士郡           伊勢国鈴鹿郡
丹後国与謝郡           丹後国加佐郡
因幡国高草郡           美作国久米郡
伊豆国田方郡           近江国滋賀郡
これらの国には、式内社が多く、三角縁神獣鏡も出土しています。

倭文神社の祭神は、武葉槌命・武羽槌雄命(たけのはづちおのみこと)・建葉槌命・天
羽槌雄神・天羽槌命・経津主命(ふつぬしのみこと)他です。神社によって異なります。
前三つの神は、漢字は異なりますが、どうにか読み方は同じです。なぜ 漢字の表記が
違うのかは重大なことですので、別の機会に書きます。

以下、現在の倭文神社の所在地を記します。
 ①奈良県北葛城郡当麻町加守  ②三重県鈴鹿市加佐登町   ③ 富士宮市星山           
④ 静岡県田方郡伊豆長岡町江間    ⑤ 山梨県韮崎宮久保  
 ⑥ 茨城県那珂郡瓜連町  ⑦ 大津市坂本本町   ⑧ 伊勢崎市東上宮町380        
⑨ 京都府綾部市今田町津ノ上1010  ⑩ 京都府与謝郡野田川町三河内   
⑪ 兵庫県朝来郡生野町    ⑫ 鳥取市東伯郡北谷村志津               
⑬ 鳥取県 東伯郡東郷町宮内754   ⑭ 鳥取県倉吉市志津 
⑮ 岡山県久米郡倭文中村柚木 

倭文神社の所在地は、三角縁神獣鏡の出土地とほぼ重なります。
驚くべきことに、絹織物の協同組合が、各府県にありますが、これも重なります。
現在の絹織物の産地は、2000年前から続いていることになります。


No20 紀元前日本は絹を輸出していた

このシリーズは、「日本は早くから中国の侵略を受けていた」がメインになっています。
相手がなにも持っていないのに、侵略をしても意味がありません。中国が侵略する以上なにか日本は、素晴らしいものを持っていたのだと考えてきました。
 悲しいことですね。日本人は、すべて、中国や朝鮮から知識や文化を頂いてばかりだったと教育されてきました。教育されましたから、そのように思うのは、仕方が無いのですが、中国と朝鮮の人もそのように信じ込み、昔の恩を忘れて、豊臣秀吉は朝鮮を攻め、近世になって中国に侵略した。その上に、A級戦犯者を祀る靖国神社に首相が参拝するとは、どういうことだ。「もっと、歴史を勉強しなさい」と叱責しました。
 わたしは勉強するのは、日本の歴史ですから、日本人は当然ですが、中国人も朝鮮人もしてもらわねばと思い、このシリーズを書き始めました。

紀元前から、中国が日本を自分のものにしようとするには、なにか素晴らしいものがあるのだと考えていましたが、それは田村誠一という方の本を読んでから、そのように思いました。読んですぐに思ったわけではありません。田村氏が主張されることを一つずつ、確かめることを始めました。考古学会上での発見があると、行ったこともない現地説明会と称するものに出かけました。青森の三内丸山・佐賀の吉野ヶ里・奈良の鍵・唐古遺跡も。近くでは神社という神社、片っ端らから訪れました。「すべて、古事記に書いてある」と田村氏が言われますので、自分流に古事記を読むことをはじめました。魏志倭人伝も読み始めました。
なんだか、田村氏が言われていることは正しいような気がしてきました。「日本の歴史は絹をめぐって、ユダヤ人と中国人と日本人の争いの連続である」です。さて、その絹は考古学上で出土したのかといいますと、出てはいますが、ごく僅かです。木ですら、紀元前200年といいますと、殆ど発見されていません。(鳥取の青谷遺跡では大量に出ました。一目瞭然です。訪ねられたらいいと思います) 絹はたんぱく質ですから、残るのは無理です。では、文献に残っているのかといいますと、残っていません。
では、「紀元前日本は絹を輸出していた」など、どうして判るのかと言われそうですが、まず、私が、どのように考え、どのように現在も追及しているかを知っていただこうかと思っています。簡単な文章では説明できませんので、辛抱して付き合っていただけますと、少しはご理解願えるのではないかと思っています。
 さて、その絹は中国人がやってくる前に、ユダヤ人が日本に来て、それを中国、インド経由で運んでいたと思われます。このルートは、距離が長く途中で奪われることが多かったのでしょうか?  今から思えば、ゴミ砂漠の方が、危険が多いと思われるのに、天山山脈の南を通って、砂漠を抜ける道が開発されました。中国人は、度々匈奴と戦争をしていますが、ヨーロッパまでは征服していません。砂漠を乗り切る知識が無かったのでしょう。十部族に分かれたユダヤ人は、世界各国に散っていきました。遠くまで、行くことが出来たのは、自分の居る場所を正確に知る方法を持っていたからだと思われます。その特技が、世界中を股に交易をすることを覚えました。自分の国を持たなかったから、そうなったのかも知れません。
その道路を通って、仏教が月支国に伝わり、中国へ伝えられたのだと思います。絹は金と同じぐらい値打ちがあったと言われています。金を沢山運ぶのは容易でありませんが、絹は金よりは楽には運べたのではないでしょうか? シルクロードの名前が示すとおり、絹が運ばれたのですが、この名前で呼ばれるようになったのは、ドイツの地理学者であるリヒト・ホーフェンという人が、自分の著書の中で、使ったのが始めてといわれています。この道の周りのことを調べていくと、絹に突き当たったと言うことでしょう。
ただ、中国からギリシヤまでのことで、日本からではありません。
 中国が侵略したのではないかという証拠を式内社の分布の例を挙げて説明しました。
また、三角縁神獣鏡の分布状況が、式内社の分布とほぼ、一致することも述べました。
次回は、「倭文神社」の分布も一致することを見ていただこうと思います。
「倭文神社」は、「しとりじんじゃ」又は、「しずりじんじゃ」と読みます。近くにあるでしょうか? 有るようでしたら、次回までに一度訪れていただきますと、それだけで、不思議なことに、「倭文神社」に対する理解が深まります。


No19 三角縁神獣鏡の分布 [日本の歴史]

熊本 4 広島 5 岡山 24 福岡 49 宮崎 3 鹿児島 1

山口 9 福井 2 長野 2 三重 15 栃木 0 大分 11

山梨 3 福島 1 大阪 38 新潟 0 埼玉 0 茨城 1

鳥取 7 島根 7 静岡 10 奈良 100 群馬 12 岐阜 16

北海道 0 京都 66 佐賀 5 富山 0 石川 2 兵庫 4

徳島 3 香川 6 愛媛 3 高知 0 和歌 2 滋賀 13

愛知 18 秋田 0 宮城 0 東京 0

上記の分布表は、「邪馬台国の会」のホームページより転載しました。確認作業をしていますが、その作業は大変なものです。例えば、福岡の49件の資料が集まりません。
気長に収集しようと思っていますが、完成するまで、この結果を拝借します。このデーターを利用しようと何故思ったかを少し記します。

銅鏡の大部分は、お墓の中から見つかっています。どうやらお墓に副葬するときの代表の物らしいです。一つの風習と考えてもいいのではないかと思いますが、漢鏡といわれているものは、一つのお墓に一つ入れられています。埋葬された人が、日本人なのか、そうでないのかは骨が残っている例が少なくてよく判っていません。が、私は小さい漢鏡の主は中国人だろうと推察しています。ところが、タイトルに書きました三角縁神獣鏡は、今までに調べた鏡は、
20~25cmと大きなものばかりです。この鏡は中国では一枚も発見されていないそうですから、日本製かといいますと、どうやらそうでもないということです。トヨタがアメリカで自動車を作りまして、その同じ型は日本には無いから、これはアメリカ製というかといいません。模造品でもありません。日本がある目的を持って作ったものですから、やはり日本製だと思います。お墓からでる鏡はどのような性質のものかが、わからないのですが、中国では、一人につき一枚の鏡を入れるらしく、身分の低いもでも入れることが多かったらしいです。日本では、あまり多く発見されていませんから、特殊な人が持ち、お墓にいれたのだと想像しています。特殊な人とは、中国から派遣された高官又は軍人であろうと推察しています。軍事の身分を保証するものではないでしょうか?
No10で記しましたが、倭国のことは、150年ほど、中国の歴史書からなくなりました。この間、日本にいる中国人は、本国からの援助をうけることができなくなったのではないでしょうか?
兵隊の補充も無い上に、上官はどんどん死んでいきます。当然、次の士官が、上官になりますが、そのものに対して、本国に成り代わって銅鏡を支給する必要があります。中国からはきませんから、日本で作ったのでしょう。(九州で作られたところが見つかっています)
 もう一つ不思議なことが判っています。一つのお墓から、複数の三角縁神獣鏡が見付かっています。京都・椿井大塚古墳や奈良・黒塚古墳です。黒塚古墳の33枚などは、どのように考えたらいいでしょう。誰かに渡すつもりで所持していたと考えると無理がありません。同じ工房で作られたと思われる同型の銅鏡も発見されます。奈良の茶臼山古墳の天皇日月鋸歯文帯四神四獣は、京都・大塚山古墳ほか2ヶ所で見付かっています。どちらからどちらに渡ったかは不明ですが、どちらかが、貰ったことは確かです。
 本国から、兵隊の補給もありませんと、日本にいる中国人だけでは足らないので、日本人にも渡して、仲間に引き入れたのではないでしょうか?  そのために、大型の三角縁神獣鏡になったのではないかと推察しています。
なんの仲間かといいますと、絹を群馬県から九州まで運ぶ仲間です。

推察ばかりです。こんな推察は聞きたくないでしょうから、前に進みます。
発見された三角縁神獣鏡の数が多いところは、ここに中国人がいたのだと思います。
その中国人が支配したと思われる延喜式内社の分布と一部重なります。
 細かく見ますと、東京は通らないで海を通って静岡に運ばれました。ここからは、岐阜ヘ行くルートと長野県の諏訪へのルートが考えられます。その後、三重・滋賀・京都・奈良が重要であったことが判ります。
重要拠点とおもわれる所には、大きな環濠集落があります。唐古・鍵遺跡、池上・曽根遺跡、下之郷遺跡がその例です。
環濠集落はすべてのチェックをしていませんが、絹の道のルート上にあるはずです。No17で述べました高地性集落も同様です。


No18 古事記も教えてくれます

「今使訳所通三十国」この三十国は、何処だということで、式内社が多いところではないかと、No17で目星をつけてみました。是で確定とはいきませんので、別の所から、迫って見ます。
古事記です。古事記に書いてあることは神話と嘘ばかりで、日本書紀が正しいという方も居られますが、私は逆だと思います。もし、原文を持っておられましたら、次のところを見てください。
スサノオが高天原のアマテラスを襲撃する所があります。スサノオは、別れの挨拶に来ただけと弁明しますが、それが正しいかどうか誓約(ウケイ)で決めようとなります。なんだか訳のわからないことが書いてあります。アマテラスが、スサノオの持っていた剣を口にいれて噛みくだき、吹き出すと、タキリヒメとイチキシマヒメとタキツヒメが生まれた。次にスサノオが、アマテラスが身に着けている珠を口に入れて噛み砕き、ふきだすと、五人の男の神さんが生まれました。この結果、スサノオは私が勝ったから、私が正しかったと宣言します。
訳がわからないのは、私だけかもしれませんが、誓約のことは、そのまま受け入れて理解することにしますが、その後も理解できません。その後に、前後と全く関係ない文章があります。

「天菩比命の子、建比良鳥命、こは出雲国国造、上菟上国国造、下菟上国国造、伊自牟国造、津島縣直、近江国国造等が祖なり。
次に天津日子根命は、凡川内国造、額田部湯坐連、倭田中直、山代国造、馬来田国造、道尻岐閇国造、周芳国造、倭淹知造、高市縣主、蒲生稲寸、三枝部造等が祖なり。」

天菩比命と天津日子根命は、先の五人の神さんの内の二人ですので、全く関係ないことはありませんが、天菩比命の子である建比良鳥命は、今の出雲国国造、上菟上国国造、下菟上国国造、伊自牟国造、津島縣直、近江国国造の先祖ですよ。とか、天津日子根命は凡川内国造、額田部湯坐連、倭田中直、山代国造、馬来田国造、道尻岐閇国造、周芳国造、倭淹知造、高市縣主、蒲生稲寸、三枝部造等の先祖ですよと読む人に忠告するように、文脈を離れて掲載されています。日本書紀では、この部分は有りませんから、書紀の編集者は載せたくなかったのでしょう。 この文章の前後には、別の文章があったのですが、誰かが削除したために、宙に浮いた文章になっています。
今は、このことの重大さは置いておきまして、「出雲国国造は、建比良鳥命の子孫ですから、気を付けなさい」と古事記の作者が何故言ったのかを考えてみたいと思います。それは、建比良鳥命が漢人であったか、高句麗人であったのでしょう。 
古事記に記載されている国造は、24ですから、半分近くを、漢人が占めていたことになります。古事記が作られたときは、どの氏族の祖先が誰であるか、なかなか判らなかったのでしょう。梅沢伊勢三氏は、24の国造のうち、22が皇系氏で、独立氏数は、2としておられます。このことから、国造の人のうち、殆どの人は、自分は、天皇の血を引くのだと、自分たちの歴史書に書いていたのだと思われます。古事記の作者は、そうではないのだ、この人達の先祖は、天菩比命なのだとダメ押しをしたことになります。
式内社の分布表で、式内社が多いところと上にあげた国造のいる所は、ほぼ一致しています。周芳の式内社は10社ですが、ここも漢人が国造だったのでしょう。

古事記に書かれていて、日本書紀にも書かれている事柄は、多いのですが、このように、古事記に書かれていて日本書紀に書かれていない事柄は、漢人が知られたくないことが多いので、古事記と日本書紀を読むときは、大切になります。

「今使訳所通三十国」の記事は、魏志倭人伝にありますと紹介しましたが、実は「後漢書」にもあります。後漢書は、魏志倭人伝よりも後に、書かれたものですので、魏志倭人伝の記事をそのまま、使ったのだという意見は成り立ちません。このような考え方でいきますと、後に発刊された本は、すべて真似事で正しくないということになります。
「今使訳所通三十国」にある 「三十国」は後漢の時代に、すでに存在していたことになります。言い換えますと、後漢の時代に、すでに漢人が日本にやって来て、「三十国」を手中に収めていたといえます。
このような状態は侵略とはいわないのでしょうか?
このような状態に不満に思う天皇家では、征伐に繰り出すことになります。

このような見方で、各征伐を眺めますと、天皇が相手とする敵は、すべて漢人ということになり、日漢戦争が延々と続くことになります。


No17 環壕集落と高地性集落

No16 は ご理解頂けなかったのではないかと思います。突然、式内社の話題に、環壕集落と高地性集落が飛び込みました。この二つのことを少し書いてみます。
 環濠集落は、集落の周りに濠を掘って、外敵の襲撃に備えるものです。遺跡が発掘されて見事に復元されているのが、佐賀県の吉野ヶ里遺跡です。ブームも去ってから、訪れました。この遺跡は、邪馬台国ではないかとも云われ本にも書かれていますので、ワクワクしながら行きましたが、少しがっかりしました。まだ、一部が発掘されただけですが、国にしては狭すぎます。魏志倭人伝に書かれている通りの遺跡でもあり、楼閣・城柵も復元されています。環壕は底を歩けるようになっていますので歩いてきました。確かに、この壕を越えることは大変ですが、橋を架けてしまえば、瞬時に大勢が渡ることが出来ます。驚いたのは、墓地の多さです。それも大きな甕を組み合わせた甕棺が、10000を超え、今後、どれほど出るか判らないほどあるそうです。(甕棺は誰が見ても中国人の物と思ったのですが、そうではないのでしょうか? ) 一般庶民も合わせたのであれば、600年間も続いた集落にしては、その数は少ないし、少し位の上の人だけであれば、多いように思われます。戦が多かったと考えねばなりません。ここは、全国の絹を一手に扱う総元締めであったのではないかと想像しています。そうでなければ、外敵に対してそれほどの備えは必要ありません。盗られては困るものがあるから、備えをしたと考えれば自然です。
この考え方は、万里の長城とローマの城壁を見て思いました。この二つに比較しますと、備えとは云えないほどのものですが、相手が相手であったのでしょう。環壕集落があちこちに出来ました。代表は唐古・鍵遺跡、池上・曽根遺跡、下之郷遺跡です。前二つは現地に行ってきました。両方とも、湿地帯です。唐古・鍵遺跡はこの当時、まだ、湿地であったため、稲作が出来たのではないかと思います。もう少し南へ行きますと、すべての川が集まり、いつも洪水に見舞われたと思われる斑鳩の里になります。その後、集落は山の辺の方へ移動し、古墳群を形成したのではないでしょうか?
 池上・曽根遺跡は三度訪れましたが、周りを走り回っても当時の面影は一切有りません。湿地帯だったと思われます。この遺跡では、最近、町の道路などが、綺麗に南北に作られているのが判り、新聞では、このような技術をもつ素晴らしい人たちが住んでいた解説がありましたが、勿論技術を持っていたのですが、中国人が住んでいたのであれば、当たり前のことで、中国人が住んでいたことの証拠と考えてもいいと思います。ここの環壕は防御用には思えませんが、周りを囲むというのは、立派な習性と云ってもいいかもしれません。南は海ですから、必要無かったのかもしれません。
下之郷遺跡は行っていませんが、環壕が9重ですから、外敵から防ぐことには熱心だったことになります。
高地性集落は、検討を加えていませんが、実際に登ったところでは、見晴らしの良かったことは印象に残っています。一番の目的は見張りと隣の集落との連絡でしょう。しか
し、高槻市の古曽部・芝谷遺跡は、立派な一つの集落と思えるほど、大きなものですから、襲撃をうけたときに、逃げて籠もるところであったような気がします。
それほどまでもして、守らなければならない物を持っていたから、備える必要ができたと思われます。

このような防御施設は、普通に考えれば、必要なもののように思いますが、いつも疑問に思うことの一つに、皇居の周りに防御壁が無いことです。藤原京・平城京・平安京はあっても用を成さないように思います。
イザナギとイザナミは神話の人だと思われていますが、私は実在の人だと思っています。銅鐸を使用していた人達ですが、銅鐸の文化は、尻切れトンボのように、消えています。この人たちも守ることを知らないで逃げるばかりの人だと思います。それ故に、東北の方へ逃げたか、徹底的に殺されたか、又は妥協することで生き延びたのではないかと思います。

妥協するのは、日本人の得意とするところです。最近の例では、
中曽根氏、河野衆議院議長は、典型的な古来からの日本人であるといえます。少々のことは、相手の言いなりになり、自分の信念を曲げる人です。なんと云われましたか? 「 折れることも勇気の一つだ 」 でしたか?  そんなことは云わなかった?

それに対して、中国の路副委員長は、中国、日本の双方は「歴史を鑑とし、未来に目を向ける」精神と友好的、率直、理性的、実務的態度で、歴史を真剣に振り返り、挑戦に立ち向かい、両国関係の未来をよりよく切り開いていく必要がある。と発言。
日本が、兆戦的であることを指摘しています。

折角、歴史のおさらいのつもりが、「はじめに」で書いたことが頭にあるものですから、つい横道にそれてしまいました。
次回から、また、歴史に戻りたく思います。   
 


No16 式内社が教えてくれること その3

旧の国別に式内社の分布を記します。
畿内
 山城 122  大和 286  河内 113  和泉 62  摂津 75
東山道
 近江 155  美濃 39  飛騨 8  信濃 48  上野 12  下野 11
 陸奥 100  出羽 9
東海道
 伊賀 25  伊勢 253  志摩 3  尾張 121  参河  26  遠州 62
 駿河 22  伊豆 92  相模 13  武蔵 44  安房 6  上総 5
 下総 11  常陸 28 
山陰道
 丹波 71  丹後 65  但馬 131  因幡 50  伯耆 6  出雲 187
 石見 34  隠岐 16
南海道
紀伊 31  淡路 13  阿波 50  讃岐 24  伊予 24  土佐 21
北陸道 
若狭 42  越前 126  加賀 42  能登 43  越中 34  越後 56
佐渡 9
山陽道
 播磨 50  美作 11  備前 26  備中 16  備後 17  安芸 3 
 周防 10  長門 5
西海道
 筑前 19  筑後 4  豊前豊後 12  肥前肥後 8  日向 4
 大隈薩摩 7  壱岐対馬 53

『魏志倭人伝』の冒頭原文は
 「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国、漢時有朝見者、今使訳所通三十国」です。
「旧百余国」は、どなたもどの国であるとは書いておられません。上の国は、67ヶ国あります。魏志倭人伝に、女王國(吉備)以北から奴國(米子平野)までの間に、距離等はよく判らないがと断って国名だけが書かれています。斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、爲吾國、次鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國と記されて、20国を数えます。先の67と20を加えますと、87となり、邪馬台国のころは、100ほどあったことになります。その後、整理されて67ヶ国となり、その国に式内社が置かれました。(もともとあった神社を式内社に指定したかもしれません) その数が多いところが中国人の勢力が強かった所です。逆に、少ないところは、天皇の勢力の強い所です。
この国名が書かれている時代は、238年です。場所は、すべて岡山と鳥取(伯耆)ということになります。 魏の国の日本における総司令官である難升米にとっても、この場所は、天皇の勢力の強い所であったので、実態がよく判らなかったのでしょう。

「今使訳所通三十国」は、魏の国の官吏がいたところです。言葉を変えますと、支配していた所だと思います。式内社の分布において、仮に、一つの国に、30以上式内社があるところの数を数えますと、30になります。勝手に30以上に限定したのですが、これらの国は、今後、検討する必要があります。
邪馬台国の時代から、式内社が整備されたであろう時代まで、500年の開きがありますが、勢力範囲は変わらなかったことになります。

すこし、観点を変えてみます。
伊勢と出雲は、特別です。天照大神を祭る伊勢と大国主命を祭る出雲は、近寄ることが出来ないほど、式内社で囲み、封じこめたと思われます。伊勢神宮には、参拝された天皇は、持統天皇が参られて以後、明治天皇が始めてといわれます。式内社が関係あるのでしょうか? 

大和286、河内・和泉175、近江155 この三ヶ所は、最大の環濠集落を有する所です。順番に、唐古・鍵遺跡、池上・曽根遺跡、下之郷遺跡です。下之郷遺跡にいたっては、3条の内濠(内郭)と6条の外濠(外郭)の合計9条の構造になっていて、いかに、外部からの攻撃を恐れたかが判ります。
河内・和泉には、池上・曽根遺跡があります。環濠というものの、深さは浅く防御用とは考えにくいですが,河内平野にある巨大古墳は、中国人との関連でみる必要があると思われます。
 河内・和泉に摂津をくわえますと、250座となります。摂津の範囲は広いですが、大阪府だけに限っても高地性集落が、30を越えます。最大のものは、高槻市の古曽部・芝谷遺跡です。
この遺跡からは、漢鏡が出土せず、銅鐸が出土しましたから、イザナギ系の人達だと思われます。隣には、天神遺跡があり、これは中国人の遺跡ではないでしょうか? そうだとしますと、敵味方入り乱れて絹の争奪戦をしたと思われます。この外、多くの古墳が有りますので、今後の課題です。
唐古・鍵遺跡は、まだ考えていません。ここは、中国人の最大の拠点(古い時代)であると思いますが、銅鐸を作っています。どうして、漢の人が銅鐸を作るのか疑問もありますが、漢人の勢力が強すぎて、欠史八代といわれる9代までの天皇、崇神天皇も奈良には居ることができなかったのではないでしょうか? 
尾張・越前・但馬はこれからの課題です。山城からは、椿井大塚山古墳があり、38面の三角縁神獣鏡が出土しました。漢人のボスであったと思われます。 


No15 式内社が教えてくれること その2

天照大御神を祀った神社は、「神社名鑑」では、次のように分布しています。
青森 8 岩手 7 宮城 12 秋田 27 山形 8 福島 2 茨城 1 群馬 4
栃木 5 埼玉 6 千葉  5 東京 13 神奈川 7 新潟 3 富山 7 石川 6
福井 11 長野 12 山梨 5 静岡 14 愛知 39 岐阜 16 滋賀 2 三重 9
奈良 4 京都 3 大阪 3 和歌山 4 兵庫 16 岡山 13 広島 4 鳥取 5
島根 6 山口 7 香川 1 徳島 3 愛媛 5 高知 9 福岡 10 佐賀 1 
長崎 4 熊本 10 大分 6 宮崎 5 鹿児島 9

 数字ではなく、全国において祭られているところをご覧ください。一社ずつ、検討していくと、中には、江戸時代の創始の神社もあるでしょうが、新しく村を作ったから、相談して、祭神を天照大御神にしようかということにはならないと思います。最近であれば菅原道真にしようとなるかもしれません。わざわざ、神話の世界の神で実在しないと言われている神を勧請することも無いでしょう。
 天照大御神を祭る神明社が津軽平野だけで、40座ぐらいあります。こんなに沢山あるということは、天照大御神が苗族の人を入植させたのでしょう。ひょっとすると、津軽海峡を閉鎖するのが、目的であったかもしれません。
静岡神社誌によれば、静岡県だけで、天照大御神を祭る神社は330座もあります。静岡にも、天照大御神は、苗族の人を入植させて稲を作らせたのですが、稲だけであれば、多すぎます。やはり、誰かと対峙する必要があったのでしょう。こちらは、群馬県から運ばれる絹を食い止め、自分達の有利になるようにしたのではないかと思われます。
この号では、絹の話しをするのが、目的ではありません。天照大御神を祭る神社が全国にいっぱいあるにも関わらず、式内社からはずしたことを知って頂く為に書いています。
式内社は、天照大御神の勢力に対抗するために作られた神社です。軍資金として、幣帛と称して、お金に換わるものとして、絹が支給され戦にも借り出されたのではないかと思います。
急に、このような事を書きましたが、別の方向から、このことが正しいことは述べるつもりです。
上に書いたようなことは、歴史の中で資料としては残っていません。従って、誰もこのような小説のようなことは書かれていません。しかし、式内社として堂々と1000年以上も、全国の神社で大切にされてきましたので、一つずつの神社を眺めていたのでは判りませんが、全体を眺めてみますと、式内社が教えてくれていることが判ります。
次回は、式内社が全国にどのように分布しているかを見ていただきます。


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