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卑弥呼の死因

「卑弥呼以死大作冢径百余歩侚葬者奴婢百余人」
魏志倭人伝において、卑弥呼の死について記された部分です。魏志倭人伝は、中国の魏という国のことを書いた歴史書です。魏志倭人伝は日本のことを書いた部分の通称名です、全部で2000字ほどのものです。中国の歴史書ですから、中国人であれば、簡単に読むことができると思っていましたが、そうでもないらしいです。理由はいろいろありますが、上に書いた部分に句読点が無いのが、一つの原因です。句読点がありますと、どこで文章を切るのか、誰にでも解りますが、句読点がありませんと、何処で切ってもかまわないことになります。切るところによって、意味が異なってきます。仮に切る箇所が人によって、50箇所異なるとしますと、最低50通りの解釈が生じることになります。(句読点は誰が発明したのでしょうか)
二つ目は、振り仮名がありません。漢字はいろいろの読み方がありますから、どう読むかが問題になります。読み方が違いますと、当然意味が変わってきます。日本では卑弥呼のことを書いた本を見ますと、同じものは無いと言っても過言ではありません。悪く言えば、プロも素人も言いたい放題です。正しい歴史などはありません。このような状態で、自分こそが正しいと教科書に書いた人がおられ、この教科書なら、自分達の町の子供達に教えることができると、教育委員会の人たちが教科書として選びます。当然、教科書に書かれた日本史は、少しずつ異なります。
 この教科書を読んだ中国の人は、「間違っている。書き直しなさい」と日本政府に要求しています。ということは、中国では、これが中国の歴史だというものがあるのでしょう。そこに書かれた以外のものは、書く事は勿論、喋ってもいけないのでしょう。
国民全員が納得しているのであれば、それも悪いことではありません。
 この二つ以外にもっと、大切なことがあります。この歴史書は陳寿という人が書いたのですが、歴史のことを良く知っているだけでは勤まりません。正しいことでも、反対勢力の人を納得させられるようなものでないと、出来上がったとたん、没収されてしまいます。下手をすると殺されかねません。ところが陳寿は、殺されませんでした。気を使わなければならないのは、反対勢力だけではありません。依頼された政府、即ち同僚に対しても気を遣わなくてはなりません。自国にとって不利なことは、極力掲載しないか、するとしても悪く取られないように書く必要があります。
前置きのつもりが長くなりすぎました。
何分、2000字の内容ですのに、よくもこれほど、いろいろ違う見解を考えられたと関心するばかりですが、上記のようなことを書いた書物はあまりありません。このような事も考慮にして、「卑弥呼の死因」を考えてみようと思います。
「卑弥呼以死」 この部分で切るのでしょう。卑弥呼と死は、誰にでも解ります。「以」という字の意味が判らなくて、見解は分かれます。卑弥呼が死んだことは確かのようです。 


No3 中国の資料を使用して、日本史を考える

日本史の勉強をします。折角、日本人がするのですから、できれば中国人の方にもして頂ければと思います。そこで、どのように書いたら中国人の方にも判るか考えました。結論、自分の日本語も頼りないので、要らぬことは考えないでおこうと考えました。
 ただ、以前に、朝鮮の方が、〔日本書紀に「任那」のことが載っているのは、日本人のデッチ上げで、本当はそのようなものは、存在しないのだ〕と云っていると書かれたものを読んだ記憶(出所不明)があります。朝鮮の資料にないから、日本の資料はデッチ上げというのは、中国の資料にもありますので、少し乱暴なようにも思いますが、この真偽はどうでもいいと思います。このように考える人が居られるのですから。
 「日本の資料にこのように書かれていますから、日本の歴史は、これこれです」という論法は、日本では正しくても中国では通用しません。このことを痛いほど感じられた方が、金達寿という方です。1919年、朝鮮・慶尚南道に生まれ、10歳のときに来日されました。素晴らしい研究をされ、「日本の中の朝鮮文化」ほか、多数の著書を出版されています。いくら研究しても誰からも認めて貰えないので、編み出された方法が、すべて、日本人の研究成果のみを繋ぎ合わせて、それまでに誰も考えなかったことを考えたという話ばかりを書いておられます。「朝鮮人が言ったのではありません。朝鮮の資料から編みだされたものでもありません」このような意味のことを、ヒツコイぐらいに書いておられます。金氏の本をどんどん読んでいきますと、朝鮮の方を除いては、今日の日本人はあり得ないと思えます。それどころか、半分以上の人が、朝鮮人の血を受け継いでいると思えてきます。
私の世代は、帰化人という言葉を学校で学びましたが、この方の怒りが、日本人に通じたと思われ、今では、渡来人が使われ帰化人という言葉を使うことは出来なくなりました。
 私は日本人と思っていますが、なぜ、日本人と思うのかと質問されますと返事はできません。私が何人であるかは、どうでもいいように思いますが、国家が表に出ますと、どうでもいいではすみません。はっきりさせないと国どうしは拗れるばかりです。
そこで、始めから日本の資料は使わないで、日本史を探ってみようと思います。資料はいっぱいあるそうです。朝鮮の三国遺事・三国史記、中国の魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝などです。いくらあっても、私の手に負えませんので、「魏志倭人伝」に書かれていることから考えて見ます。


歴史を知ると物の見方が変わる

昨年9月から、古事記を原文で読むことをはじめました。読む前の古事記に対する見方は、古事記は、神話ばかりで古代の人の夢物語である。それに対して、是ではいけないと考えた人が、直ぐに、訂正するつもりで書き表したものが、日本書紀である。
 ここ8年間、奈良を散策する楽しみを教えて頂いた方がおられます。家内の中学時代の国語の先生です。当時の教え子を引率して奈良を一ヶ月に一度、案内して頂きますが、そのときに、膨大な資料を作ってこられ、その中に、古事記と日本書紀の原文が、度々登場します。はじめは、先生が読まれるときに、何処を読んでおられるのか見逃さないように字を追いかけるのがようようでしたが、最近は少し読むことができるようになりました。
原文を読みますと、是までと違った見方ができることが判るようになってきました。これも私一人の力ではなく、ある人が書かれた本の影響です。
その方の云われていることを、一言で記しますと、「古事記に書かれている神話は、実際にあった話」です。
話しは飛びますが、10年ほどまえに、中国に行き万里の長城をみました。100メートルほど、実際に歩きました。凄いなの一言です。7年ほど前に、ローマを訪れました。こちらも、街の中のあちこちに、当時の城壁がありました。こちらは、他の遺跡に圧倒され、凄いなという意識はありません。ローマの城壁は、ローマ市内だけですが、ローマがどんどん勢力範囲を広げたときには、どんどん城壁を作っていったことが、NHKの番組で報道されていました。(確か、イギリスにある遺跡でした) ローマの城壁は、万里の長城以上のものです。
最近は、凄いなではなく、城壁は、物を取った人達が今度は取られたくないために作るものだというような考えに変わってきました。どれほど、凄い搾取を行ったかの歴史的証拠だと思っています。
このように物の見方が変わったというだけで、このことが、正しいとは限りません。


はじめまして

はじめまして
 中国と日本の関係は、最近、少しギクシャクしています。なぜギクシャクするかと云いますと、中国の実力が日本と対等になったからだと思います。本当は、対等になっていないが、対等になったと勘違いしているからかもしれません。日本は中国より上だと思い、中国は日本より上だと思っています。
中国は、日本の教科書が間違っていると堂々と発言しています。教科書のここが間違っていると、具体的に言っているわけではありません。どこが間違っているのかと尋ねますと、そんなことが判らないのか。今まで、どれほどひどいことをしてきたと思っているのだと云わんばかりに、「日本の歴史を勉強しなさい」と叱責しています。
 そればかりではなく、会談を申し入れておきながら、小泉首相に対して、会談をキヤンセルしました。日本人はいいとしても、叱られた小泉首相は、日本史を勉強する必要はあります。

はじめから、政治色の強いものとなりましたが、今後、このような話はありません。叱られたついでに、日ごろ、私が考えている日本史をみなさんに聞いて頂き、日本史を考えてみようと思って、ブログをはじめました。

気軽に、読んで戴ければと思います。

最新の記事は、http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/ です。

平成18年3月3日 追記
本日は、「新しい日本の歴史」を訪問ありがとうございました。
 このタイトルで書き始めましたのは、2005年5月28日です。 書く内容が決まっていたわけではありません。古事記と日本書紀を読み始めましたら、古事記は書いてあることが、神話ではなく、実際にあった話であることがわかりました。それに対して、日本書紀は藤原不比等が、日本を征服した記念に自分達にとって、都合の良いように、日本の歴史を書こうとしました。 しかし、古事記には、都合の悪いことがいっぱい書いてあるので、古事記なくする事にしました。古事記が出来たのは、710年です。この古事記を見て、訂正版の日本書紀が完成したのが、8年後の720年です。すべて処分されたはずの古事記が400年後に発見されました。
 しかし、この古事記も藤原氏によって手が加えられたと思われますが、辛うじて今日まで残っています。
この二冊に加えて魏志倭人伝を加えて、日本史を考え直しますと、日本は中国人によって、征服されたまま、現在の日本があるというのが、この「新しい日本の歴史」の中身です。
とはいうものの、完成されたものでありませんので、毎日、調べて毎日考えたことを書き続けまして、今日で177回目になります。
例えば、No166の倭の五王は、五人とも天皇ではないことを書いています。普通は五人のうち、武は雄略天皇だと確定していますが、私はそうではありませんと書いています。、その後、続けて書いていますが、こんな重要なこと、数枚のページでとても説明できるものではありません。しかも、そうであることを説明するために、No173でもまだ続いています。
という次第で、タイトルを見て、途中から読んで頂いても、なんのことかさっぱり判らないと思います。
大変な量ですが、最初から飛ばさないで読んでください。そうしますと、九州に邪馬台国があったというような説は、間違いであることがすぐに、判ります。崇神天皇が、四人の部下をなぜ四箇所に派遣したかも、ご自分で自然と判るはずです。
神武天皇より以後、どれほどの天皇が九州に征伐に出掛けているかなども自然と判ります。
 ブログから、順番に読みますと、なかなか思うページが出ませんので、同じものをホームページに書き写しました。こちらをご覧ください。
新しい日本の歴史http://homepage1.nifty.com/o-mino/page550.html
このホームページには、私がこのシリーズを考えるときに、利用した資料も掲載していますので、ご利用ください。著作権など申しません。自由に使ってください。



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