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崇神天皇三兄妹(1) [日本の歴史]

9代開化天皇は古事記では左の如く、若倭根子日子大毘毘命と書かれている。この天皇には御子五柱あった。
この中の御真木入日子印恵命が後の崇神天皇である。妹の御真津姫が日?女であり(?=巫か)、卑弥呼と魏志和人伝に書かれた。
 崇神天皇の義弟が日子坐王(ヒコイマス) で久米国王であり、同じく魏志倭人伝では、狗奴国王卑弥弓呼となっている。
 名前はこの様に同一人物が呼び名が、何様もあるので本来は統一すべきだが、分かり易い様に混ぜて使用したい。
 この当時は天孫族は玄米食で現在の健康食品だけだったから長生きだった。魏志倭人伝でも百才位で80、90才の人もあると書かれている。
 この時代は食物のぜいたくなんか、無かったのである。後世になって不健康食品を食べる様になって寿命は短かくなった。
 平均90才でも実に5代の親子である。天皇でも同じ宮に住むことは出来なかっただろう。親せきだけで数百人に達する。



    ‐-- 47ページより引用 ---

 私からの一言

「妹の日?女であり(?=巫か)、卑弥呼と魏志和人伝に書かれた」と記されていますから、

 「日?女」=「卑弥呼」ですから、読み方は「ヒミコ」ですから、
「ヒミコ」 = 「日?女」= 「日巫女」
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スペイン風邪年代考証(4) [日本の歴史]

“ 崇神天皇の妹だった卑弥呼 ” に神武から崇神天皇までの世継ぎは平均22才で生まれたと仮定した時の年代表を示した。
 7代孝霊天皇は190年に亡くなられ,9代開花天皇も191年に亡くなられたことになる。仮定のしかたのため1年の誤差だ。
 両天皇共191年に亡くなられたことだろう。中国から漢の軍隊によって吉備に病菌が運ばれたとしたら話はうますぎる位だ。
 スペイン風邪が流行しただろうことは、中国の文献になくても、漢の年号の特殊な現象の裏を読むことでよかった様だ。
 4種類の全く別の立場で書かれた資料でスペイン風邪が流行したことは、中国の文献になくても、漢の年号の特殊な
現象の裏を読むことでよかった様だ。


私からの一言
 今回も、「崇神天皇の妹だった卑弥呼 ” に神武から崇神天皇までの世継ぎは平均22才で生まれたと仮定した時の年代表を示した」と書いてある通り、前ページには、神武天皇から、崇神天皇までの、10代の天皇の名前とも各天皇の在位期間を、傍線で図示した一覧表であらわされています。

スペイン風邪年代考証(1) ~(3) と44ページの天皇一覧表のことから、スペイン風邪年代考証(4) のことが言えるように書いてありますが、私の頭の悪さの所為でしょうか。 
 「中国の文献になくても、漢の年号の特殊な現象の裏を読むことでよかった様だ」 この記事の意味がよく理解できません。
 「崇神天皇の妹だった卑弥呼 ” に神武から崇神天皇までの世継ぎは平均22才で生まれたと仮定した時の年代表を示した」と」
 
10人の天皇が、平均22才で生まれることはあるのでしょうか。 確かに、一覧表では、ほぼ、20歳ごとに生まれてはいます。
 魏志倭人伝は、日本人が書いたのでしょうか。中国人が書いたのでしょうか。
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スペイン風邪年代考証 (3) [日本の歴史]

古事記の崇神天皇に関する日本古典文学全集の一部を先に記した。御木本入日子印恵命とは崇神天皇のことである。
 天皇とは後世の人が勝手につけたことで、古事記には即位のことなど全く書いてない。
 天皇家の家系を主にしたものにすぎない。
自分の家系をインチキを子孫に伝える人があるだろうか。
 家系だから語り継がれて来たことは、子孫に正確に受け継がれることが一般である。なぜ古事記を偽書としなければ、気がすまないのだろう。人の家系なら第三者がケチをつけたくなるのは日本の進歩的学者の本性だろう。
 崇神天皇の御世に流行病があったことは、明記されていたのである。人民が無くなってしまう位猛威をふるったのである。
 中国から吉備に侵略していたから伝染したと考えてはいけないだろうか。
 左の古事記で日子坐王がクガミミノ御笠を殺したと書いてある。この続きに小さくこれ人と名なりと書いてあることに注意して欲しい鬼畜に劣る人間だと書いたのである。



        --- 43ページより引用 ---



私からの一言
 「人の家系なら第三者がケチをつけたくなるのは日本の進歩的学者の本性だろう」

著者の田村氏は、辛抱しきれずに、この文章を挟まれた。さて、皆さんは、この文章の意味は、お分かりですか。

「スペイン風邪年代考証」は、次回で終了です。 4回目です。

前回のテーマは「倭国大乱」でした。 この記事は9回まで、続きました。田村氏にとっては、重要なテーマだったことになります。
 ということは、日本の歴史にとっては、重要だったことになります。

今回の「スペイン風邪年代考証」は急に話題を変えられました。 しかし、大いに関係があると思われるのに、スペイン風邪が、大いに関係あると田村氏は思われたのです。大流行した年代を確定したかったのだと思われます。

「スペイン風邪」は、世界的に大流行して、多くの人が、世界的な規模で亡くななられたということは知っていますが、それと、日本の歴史とどのように関係あるのかが、解りません。

 田村氏は、「スペイン風邪年代考証」を書いて、日本では、何時、流行したのか、知るつもりになっておられます。

38ページには、平田俊春著の歴史年表が゛掲載されていましたが、上手く、転載出来ませんので、掲載しませんでした。
本文をもう一度ご覧ください。
 ここに、「190年までに、元号が実に4回も変わっている」と書いてあります。 年表の方には、初年、大漢、昭峯 光? (活字が小さくて読めません) この4つの元号の部分は、大きな円で囲まれています。 (この4つの元号は、ご自分で、探してください。そして、ついでに、この時の中国の歴史を見つけてください) そうしますと、日本の学者に対する悪口の意味が分かるかもしれません。
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スペイン風邪年代考証(2) [日本の歴史]

朝鮮には新羅と百済の正史がある。これは三国史記と呼ばれている。紀元前50年頃から700年頃までの出来事が詳しく書かれている。
 左記は鈴木編訳の三国史記で倭国関係の事象に重点を置いたものだ。新羅の180年代を示しておいた。
 193年6月に和人が職がなくて、千余人がやって来たと書かれている。191年に沢山の人が死んで、192年に作付けが出来なかったと考えられる。
 新羅や百済の記事を500年頃まで眺めても、文化が朝鮮経由日本に流れた形跡はない。
 まして騎馬民族が、日本まで攻めこんできたことも書かれておらない。
 191年が世界的冷害なら新羅や百済にそれらしい記述がなければならない。
 191年には朝鮮には多数人が死んだ記録がなかったのである。
 スペイン風邪は朝鮮には流行せず、中国と交流がなかったと考えてよいだろう。三国史記も意外なことまで教えてくれたことになる。



                     --- 41ページより引用 ---
^  

私からの一言
① 「左記は鈴木編訳の三国史記で倭国関係の事象に重点を置いたものだ。新羅の180年代を示しておいた」と書かれていますが、
 一行目は、
八年(AD191) 秋九月、と記されて、次の漢字は、「山 一 虫 」が縦に書かれた漢字です。 読み方も意味も不明です。
 
②「A」 = 「山 一 虫 」が縦に書かれた漢字>
A 尤 旗 の三字の熟語になっていますが、読み方も意味も不明です。 二行目は、 二スイ+食の漢字ですが、これも読むこともできませんし、意味は調べていません。
 以下、この調子で、意味を知らない熟語が多いため、40ページの文章は、参考にするのは止めました。
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スペイン風邪年代考証(1) [日本の歴史]

日本の学者は自国の本はまったく信用しない。 そのよい例が古事記と日本書記である。本には思い違いが少しあったからとて、全部をなぜ偽作とするのだろうか。
 中国の文献の場合は日中関係になると、お互いに自国に都合のよい様に特に作文されているとをなぜ念頭に入れて考えないのか。
 左表は平田俊春最新年表の180年代である。
 188年には漢の霊帝が僅か34歳で死んでいる。この子は病気で次々と死んだ。
 190年までに実に年号が4回も変わっている。おかしいと感じるべきではないか。
卑弥呼共立と何かあるなと考えるべきだろう。
 スペイン風邪のために子供が次々死んだと仮定して不都合が生じた時に仮定が間違っていたと改めればよいのである。
 この年表には日本書記の年号が入れてある。
190年は成務天皇の60年にあたっている。
日本書記のデタラメサ加減が分かるだろう。


         --- 39ページより引用 ---
^

私からの一言

 ( スペイン風邪のために子供が次々死んだと仮定して不都合が生じた時に仮定が間違っていたと改めればよいのである)

 スペイン風邪のことは、日本では、いつ頃に分かったのでしょう。
この記事によれば、180より190年頃の出来事のように思われます。
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倭国大乱(9) [日本の歴史]

九州から阿蘇の石で石棺を作って運ばざるを得ない人が漢国人と分かればしめたものである。
 吉備で漢の銅鏡が一つの古墳から多数出土すれば大量死だから、スペイン風邪で死んだのであり、190年の古墳だ。
 九州の糸島の周辺には銅鏡が一つの古墳から多数出土することがある。ここは吉備との中継地だったことになる。
 航海中にスペイン風邪で死んだり、110年頃でも船が難破した時には水葬して、銅鏡だけは人数分納めればよかった。
 佐賀には銅鏡が1枚づつ埋葬した古墳が沢山見つかった。これは漢軍の食糧生産を佐賀平野で開始したと考えられる。
 九州基地は本渡か宇土なら好都合だった。熊本から松浦、糸島半島は漢軍に107年から190年まで占領されていたのである。
 倭国大乱が日本国内の争いならば、中国の文献がこぞって取上げる筈がない。取上げざるを得なかった理由が解けたのである。同時に日本で死んだのは20万でもよかったのだ


       --- 37ページより引用 ---
^

私からの一言
 あちこちで、銅鏡が発掘された。一ツずつ、調べていくと、いろいろのことが見えてきました。
 その中の一ツが、「 九州から阿蘇の石で石棺を作って運ばざるを得ない人が漢国人と分かればしめたものである」
のフレーズになります。

本物の銅鏡は見られたことは、おありですか。 私は初めて見た時は、別になにも思いませんでした。 しかし、沢山見るうちに、自然と自分でいろいろ考えるようになりました。
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倭国大乱(8) [日本の歴史]

九州や吉備には漢国の将軍の最新式の前方後円墳がある筈である。
 箸墓や崇神天皇の古墳は漢国の将軍の古墳より大きくないことにはおかしい。外形の前方後円は漢国の墓をまねすればよい。
 しかし墓の内部構造は知る由もなかったのである。漢国の古墳より旧式の石棺が出土して当然である。
 倉敷考古館間壁夫妻の最新版‘古代吉備史の未知を解く’には意外なことが書かれていた。吉備で一、二の古墳の石棺の石に、九州の阿蘇の石が使用されていたのである。
 他の石棺の石は姫路の近くの石の宝殿等の石が使われていた。地元の石でなくて、九州から石棺を運ばざるを得なかった古墳のぬしこそ、漢の将軍だと考えたいのである。
 漢国の古墳が吉備にあって当然である。しかも、阿蘇の石を使った古墳が吉井川の川口近くの山陽町にまであった。
 漢国は吉井川の川口付近を占領して長期戦をやったのである。作戦までが戦術にかなっていた。


            --- 36ページより引用 ---


私からの一言
このページの最初の文章は、 「九州や吉備には漢国の将軍の最新式の前方後円墳がある筈である」 から始まっています。 ----筈である。 から始まっています。 

六行目になりますと、「しかし墓の内部構造は知る由もなかったのである。漢国の古墳より旧式の石棺が出土して当然である」と断定の文章になっています。 何回も読み直してみましたが、この日本語で正しいように思われます。
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倭国大乱(7) [日本の歴史]

倭国大乱が収拾してのが190年頃である。
107年から190年の間に日本で死んだ将校は手厚く葬られたことであろう
 これには漢の習慣に従って、1人に1枚の割で銅鏡と一緒に埋葬された。
 師升も190年までは長生きするはずがない。
従って、大和以外の最大の古墳は師升でよいのではないか。
 前方後円墳は崇神天皇の時突然大和に発生した。しかし日本人が新しい形式の古墳を突然考え出す筈はないのである。
 漢の将軍が107年から190年の間に亡くなれば前方後円墳を作った。これこそ最新のデザインだった筈である。
 崇神天皇の御世になってやっと平和が訪れたのである。これまでは戦争最中で古墳を作れるどころではなかった。
 古墳が大和で初めて作れる状態になったのは、卑弥呼が殺され、魏の軍使等が20人だけ逃げ帰った248年頃である。
 したがって卑弥呼の墓が和製第一号の前方後円墳である。



      --- 35ページより引用 ----


私からの一言

 「107年から190年の間に日本で死んだ将校は手厚く葬られたことであろう」
このフレーズは、大胆な推理ですが、正しいのでしょう。勿論、中国の将校でしょう。
その大きい古墳を日本人に見せることによって、中国人の偉大さを見せたのではと推理します。

田村氏は、ここまでは推理されませんでした。


参考資料
https://osaka-info.jp/page/tomb-emperor-nintoku-daisen-kofun 仁徳天皇陵 
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倭国大乱(6) [日本の歴史]

この様な状況におかれては、どうしようもないであろう。はしごを外された漢軍である。長期戦にならざるを得ない。
 しかも大軍を出兵させた以上、正史で無視して書かないわけにも行かない位大事件だったのである。
 中国からの食糧補給に頼る外なかったのである。しかもこの補給部隊が188年にスペイン風邪を日本に伝染させた。
 これこそ、神風邪で駐留軍は全滅ににひんしたのである。
 漢の侵攻は自然消滅した。中国の文献が日本国内の二国間の争いならば、正史に取上げる筈がない。
 中国の正史が全て倭国大乱を取上げしかも何時片付いたかの時期を明記出来なかった事情は自然消滅のため確め様がなかったのだ。
 これを魏志倭人伝では、卑弥呼を共立して内乱が収まった様に、ウソを書いたのである。 
 スペイン風邪については後稿を参照していただきたい。このスペイン風邪は大和で流行し、孝霊、開花天皇は相ついで亡くなられた。



       --- 34ページ --- より引用


私からの一言
 このページの記事は、田村誠一氏の大胆な、歴史の分析になっています。

「このスペイン風邪は大和で流行し、孝霊、開花天皇は相ついで亡くなられた」

この部分の記事のことは、ご自分で、確かめてください。


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倭国大乱(5) [日本の歴史]

倭国大乱は107年から190年の間の出来事である。これは7代孝霊天皇から10代孝霊天皇の御世である。
 この年代の天皇の軍隊の本部は美作の久米国にあった。
 古事記では景行天皇のときに始めて、大和に屯倉を作ったとなっている。これまでは政府機関は吉井川川口と久米にあった筈である。
 漢軍はこの吉備に侵攻して来たのである。
久米国から吉井川経由大和のルートを中断して久米国を攻撃した。
 しかし漢軍は食糧を現地調達できず、作戦が狂ったのである。
 中国からはるばる運ぶ外なかった。
これが長期戦になった一つの理由である。
第二に久米国は吉井川の上流にあった。揚子江や黄河の様に大河に使用する船は使用出来なかった。
 この川すじを歩いて進軍することは至難であ。さりとて今更漢に引揚げるわけには行かない。偏西風に逆っては、手でこぐ船は進めないのである。


       --- 33ページ --- より引用


私からの一言
「第二に久米国は吉井川の上流にあった。揚子江や黄河の様に大河に使用する船は使用出来なかった。
 この川すじを歩いて進軍することは至難であ。さりとて今更漢に引揚げるわけには行かない。偏西風に逆っては、手でこぐ船は進めないのである」

この部分は、全般の記事から、著者田村氏の心配事のようです。
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