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村社 天高神社 [日本の歴史]

東伯郡西郷村大字八屋字宮峰 鎮座

祭神 天津日高彦波?武??草葺不合尊、依姫命、倉稲魂神、菅原道真
由緒 創建年月不詳なりと雖、三代実録によれば元慶七年伯耆国天高神授
   従五位下云々とあり、寛永年間には伯州河村郡西郷大明神と称し寛
   文年間よりは宇野宮大明神と称し来りしが、寛永六丑?都市五月故
   の如く天高神社西郷大明神と復称しょう、此の時かん領長上卜部侍
   従より天高神社西郷大明神と記せる欅板額面を寄贈し、社帳面へ官
   社たるべき旨記載方許可けられたり、明治維新の際天高神社と改称
   、同時に末社二神を合祭せられ、同三年旧鳥取幡より奉幣使を差遣
   幣帛を捧らる、旧御神像の千余年前のものと云へる木像を存せり、
   大正十四年十一月二十日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

   例祭日 十月十七日
   建造物 本殿、拝殿、神楽殿、神輿庫兼参籠殿、宝物庫
   境内坪数 七百六十一坪
   氏子戸数 四十戸

 私からのコメント
   氏子戸数 四十戸は、40軒と考えて良いでしょうか。 我が家は、100坪です。
   両隣も同じ様でしょうか。我が家は二世帯ですから、家屋は二軒、建っています。
   庭は土地の半分を占めていると思われます。
   ということは、我が家は、大阪の郊外ですか、住宅地です。
   
   このように考えますと、鳥取県ですと、もう少し、ゆったりとあってもいいと
   思います。
   資料の数字は、間違っているのでは ? ?

間違っていました。  坪数は、境内だけの坪数でした。 1時間経過して、頭が
   疲れているようです。

-★ 現在の東伯郡の地名-----殆どの地名が変わっているように思えます。 
   https://www.yu-bin.net/pc/html/31370.html
   

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村社 立原神社 [日本の歴史]

東伯郡西郷村大字上剩由緒 創建年月不詳と雖、字立原 鎮座
 
祭神 伊弉諾尊、速玉之男命、事解之男命、倉稲魂神

  由緒 創建年月不詳と雖、往古より熊野三社権現と称し、大字
  上餘戸字小瀬ヶ谷山林内に三社を建立し崇敬せしものなりしが、
  境内地の狭隘と崇敬上の不便の不便とに依りて右社殿を現今の
  地に奉遷祭祀せしものなり、然るを明治元年十一月三社を合併
  して一社となし社号を立原神社と改称せられ、一社となし社号
  立原神社と改称せられ、同時に末社の神(祭神倉稲魂神)を合祭
  す。

 例祭日 十月十九日
 建造物  本殿、拝殿、神楽殿、神輿庫
 境内坪数 三珀四十七坪
 氏子戸数 五十四戸
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村社 新宮山神社 [日本の歴史]

東伯郡西郷村大字下餘戸字屋敷廻鎮座

祭神 天照大神、素戔嗚尊、稲田姫命、倉稲魂命、
由緒 創建年月不詳と雖、旧来祇園牛頭天王と称して崇敬し来れるものなり、明治維新の際新宮山神社と改称せられ、同時に末社の神倉稲魂命を合祭せらる、明治四十年四月二十七日神セン幣帛料共進神社に指定せらる。

例祭日  十月七日
建造物  本殿、拝殿、神楽殿、神輿庫
境内坪数 五百五十坪
氏子戸数 二十三戸

私からの解説
 氏子戸数 二十三戸の人達で、本殿、拝殿、神楽殿、神輿庫のものを建設できたのでしょうか。

新宮山神社---下記の新宮山神社と同じ神社でしょうか。
https://www.google.co.jp/search?source=hp&ei=qmB0XLH5EeeFr7wPt-yNCA&q=%E6%96%B0%E5%AE%AE%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE&btnK=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&oq=%E6%96%B0%E5%AE%AE%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE&gs_l=psy-ab.3..0i30j0i5i30.8380.24497..40502...1.0..0.125.1538.17j1......0....2j1..gws-wiz.....0..0i4j0i131i4j0i131j0j0i4i37j0i10j0i4i30j0i5i4i30j38j0i13i30j0i13i5i30.8sKnValYDak


コメント②
 挑戦して、地図を表示してください。東伯郡の位置は、鳥取県の海岸の近くです。 大山も見えます。 この辺りは、大陸から、日本人の先祖が、初めに、上陸した所だと、田村氏が考えておらる場所です。同時に、中国人も、流れ着いたところでもあります。
 古事記に登場する「高天原」は、中蒜山の頂上にあったことになります。

祭神をご覧ください。 古事記の最初に書かれている神です。 田村氏の考えは、正しいかもしれません。 
 地図は、大きくしたり、小さくしたり、いろいろの角度から見ることが出来ます。

他の人が、書いておられる新宮山神社では、写真を掲載しておられます。周囲4メートルの大木の写真も掲載してあります。
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栗尾神社 [日本の歴史]

東伯郡西郷村大字栗尾字白山 鎮座
祭神 伊弉諾神、伊弉冉神、大山祇神
由緒 創建年月不詳なりと雖、往古より白山妙理大権現と称し、加賀国石川郡白山比?神と同体の神なり、南條伯耆守氏神として崇敬最も篤かりし神社にして、南條氏によりて維持経営せられしが、天正年中羽衣石落城の後は年と共に社殿破壊す、村民之を憂ふと雖戦国の際微力にして再興するの力なく、空しく星霜を経るに至る、然るを元禄五年申年村民戮力して境内外樹木を売却して社殿を再建し以て崇敬の実を拳ぐるに至れり、明治元年末社の神(祭神大山祇神)を合祀す、境外に別當銀地福山法台
寺と云ふ寺院ありしと云ふ。

例祭日  十月二十四日
建造物  本殿、神楽殿、神輿庫
境内坪数 三百坪
氏子戸数 三十戸
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露谷神社 村社 [日本の歴史]

 気高郡中郷村大字露谷字石畑 鎮座

   祭神 上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、天狭霧命、国狭霧命、保食神
   由緒 大正五年一月十六日中郷村大字露谷字宮ノ谷鎮座村社子守神社と同村同大字字石          ひらきてねん比におかませらる (略下) と記せり。

      例祭日 十月九日
      建造物 本殿、幣殿、拝殿、宝物庫、随神門 兼神楽殿
      境内坪数 851坪
      氏子戸数 85戸

済みません、夜中に起きてきて、間違って、前回と同じ記事を掲載しています。消去してもいいのですが、折角、訪問していただきましたので、なにか、書いてみます。

 ① 上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命の名前は、三社、似ています。祭神と記されています
   が、村ができる前に、三人の兄弟が居られて、「筒」に関することで、活躍した三人兄弟が
   居られたのでしょうか。
 ② 天狭霧命、国狭霧命 も、兄弟のようです。霧の部分の活字は、霧に見えますが、壊れて印
   字されています。
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村社 露谷神社 [日本の歴史]

気高郡中郷村大字露谷字石畑 鎮座

   祭神 上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、天狭霧?命、国狭霧?命、保食神
   由緒 大正五年一月十六日中郷村大字露谷字宮ノ谷鎮座村社子守神社と同
村 同大字字石畑鎮座村社露宮神社と合祀し、露谷神社と改称して現地に移転せり、然して
   旧子守神社には
ひらきてねん比におかませらる (略下)と記せり。
      
例祭日 十月九日
   建造物 本殿、幣殿、拝殿、宝物庫、随神門 兼神楽殿
   境内坪数 851坪
   氏子戸数 85戸
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幡井神社 村社 [日本の歴史]

気高郡中郷村大字絹見字中尾 鎮座

祭神 天照大御神、栲幡千々姫命、須佐之男命、事代主神、保食神、天熊人神
由緒 延喜式所載の神社なり、宝亀三壬子年勧請せりと伝ふ、古老の口碑に古来社地を転ずること三度にして、因伯二州に跨る久津賀七ノ庄(絹見、長和瀬、筒地、石脇、泊、園?、宇谷) の氏神なりしか、中世以降僅かに絹見一ヶ村の氏神となれりといふ、明治元年境内鎮座末社稲生社(祭神 捕食神)
同村字天王鎮座摂社稲生社(祭神 保食神) 摂社子守大明神(祭神 天熊人神)を合祀す、明治四年村社に列格す。大正五年三月二日大字絹見字字天皇鎮座無挌社引地神社(祭神須佐之男命)を合祀し同年四月十七日青谷村大字長和瀬字宮ノ前鎮座村社長和瀬神社(祭新須佐之男命) 及び同長和瀬神社境内神社たりし水無瀬神社(祭神事代主命)を合祀す、大正七年四月三日神せん幣帛料供進神社に指定せらる。

例祭日  十月二十六日
建造物  本殿、幣殿、拝殿、神楽殿、随神門 祭器庫
境内坪数 二百八十六坪
氏子戸数 百五戸

写真 ネット上にあったものです。私のものではありません。
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1071153719.html
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山名神社 [日本の歴史]

 気高郡中郷村大字鳴瀧字稲荷 鎮座

祭神 応神天皇、神功皇后、山名氏豊、天児屋根命、武内大臣、小林源蔵、保食神、倉稲魂命、菅原   
   道真
由緒 元慶二年八月山城国男山八幡宮を勧請すといふ、八幡宮と称し、当郡八葉寺村字御殿山神館平
に鎮座天歴六年惣社の称号を賜ふ、元和九年二月鳴瀧村字大立山へ奉遷し、次いて寛永十六年八月現社地に奉遷し惣社八幡宮と称し、桑原、澄水楠根、紙屋、田原谷、八葉寺、鳴瀧七ヶ村の惣氏神たり、社領一石七斗八升を領す、天正八年八月伯耆倉吉城主山名氏豊當郡八葉寺村に於て吉川元春と戦ひ戦死せられしが、慶長十六都市十一月郷人共の霊を當社に鎮祭し、尚同時に其の長臣小林源蔵の霊を境内に末社として鎮祭し二宮ノ社と称す。明治元年境内鎮座春日大明神(祭神天児屋根、武内大臣) 同境内鎮座末社稲生神(祭神保食神、倉稲魂命)、当村字村内鎮座天満宮(祭神菅原道真)及び二宮ノ社を合祀し社名を山名神社し改称す、紙前神社の摂社たり。

例祭日  九月十五日
建造物  本殿、神楽所、参籠所
境内坪数 三百五十三坪
崇敬者戸数 三百三十戸

280 page より


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全国の神社の数 [日本の歴史]

神社の数は、全国およそ8万8,000社以上に上ると言われ、仏教系寺院よりも数が多く、日本で最も多い文化建築物のひとつとなります。その内、有人神社(神職者が常駐している社)は、2万社程度とも言われておりますが、実態は定かではありません。--- 以下省略

http://jinjajin.jp/modules/contents/index.php?content_id=112


この一覧表を掲載する前に、神社数の多い
順位を書いた一覧表がありましたので、神社数の多い順に書き出しました。

新潟県 4778、 兵庫県 4425、
福岡県 3385、 愛知県 3334
 
宮崎県 653   和歌山 426
大阪府 568   沖縄県 41


これらの数字から、どのような事が言えるかと考えて見ました。

新潟県の場合ですと、4778社ですから、一人の人で、調べることは大変です。
どこかにあった一覧表から抽出されたものであれば、これぐらいの相違は出るでしょう。
 しかし、名前や住所だけですと、住所録や電話帳で調べればわかります。
 普通は、現実に存在するかどうか、神社を訪れて、調べることになります。


 このように考えますと、沖縄県では、一人で調査は出来ます。
沖縄県のような神社数の少ないところで、倍の神社数の違いが出ることは、不思議なことです。

以上のことから、この調査結果は、信用できないことになります。
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第9話 中国人が書いた日本書記 田村誠一著 [日本の歴史]

 古代史の怪 (2)
天皇には系図があり古代には代々天皇の御子に引継がれている。従って世継ぎの王子が生まれた時の天皇の年齢は平均10代でも、平均30代でもおかしい。
 21代雄略天皇は456年に即位したとすれば、天皇が生まれた年には自ら年代の許容範囲がある筈である。
 この天皇は允恭天皇の7番目に生まれたと記されている。従って允恭天皇が30才位の時に生まれたと考えられる。
 このような考え方で天皇家の系図を上代にたどって行った時の、崇神天皇の在世の上限と下限が求められる。崇神天皇は系図を否定しない限り、4世紀より上代に亡くなられた。
 イザナミの命すなはちイザナギのの命の妻を祀った所が、古事記に書かれた所、すなはち出雲と伯耆の国境に比婆山が地図に現存している。 (比婆ゴンとは別の位置)
 イザナギの命が行かれた近江の多賀が古事記に書かれた所に現存する。
 高店原から降りる前の地名が、地上に現存してたのが、古代史の怪の二番目である。



             ― 4ページより引用 ---


私からの一言
このページは、何度も読んだのですが、書かれている意味が理解できません。特に、初めの三行が分かりません。

タイトルの「中国人が書いた日本書記」は、正しいのではないかと考えています。

古事記が書かれたのは、712年、日本書記は、720年でした~か。 確かめればいいのですが、確かめていません。もし、間違っておればがっかりするので、720年にしておきます。

おかしいですね。古事記が完成して、10年も経たないうちに、二冊目の日本の歴史書が完成しました。

現在では、古事記は、歴史書ではなくて、日本書記が、正しいような歴史書ととらえられているように思います。
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