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歴史各論 三角縁神獣鏡(97) 魏志倭人伝(48) 邪馬壹国は、何所に(44)邪馬壹国(3) [三角縁神獣鏡]

投馬国の一回目の時に書きました。ここは、5万戸だと魏志倭人伝は記していることを。
人口に直すと、55万人です。これほど多いと、九州に投馬国や邪馬壹国があると云われた方は、説明が出来ませんから、無視されている方が殆どです。

邪馬壹国は、7万戸です。投馬国の時は、何故多かったかは、証拠がありませんでしたから、苗族の人を神武天皇が入植させたからだと簡単に書きました。しかし、7万戸となりますと、77万人です。
 このような人口を有する町は、東京近辺でしたら、ザラにあるでしょう。
私の町は、131,450人です。30000人になったので、市制が開かれたのが、1956年です。56年たっても、4倍の13万人です。隣の豊中市は、1985年までは増え続けてきましたが、現在は、減少傾向にあり、389,341人です。
 両市とも、家がびっしりと建っています。しかし、大阪府では、緑の多い方です。どの家でも、狭いながらも、小さな庭を持っています。地図で見ますと、広大な面積です。
 我が箕面市では、まだ、米も野菜も作られていますが、131,450人の人口のお腹を満たす食糧は確保されていません。それどころか、先日、家内のお供をしてスーパーへ行き、野菜のコーナーで商品を眺めていましたら、野菜の産地が、すべて印字されていました。四国や九州から運ばれていました。
 投馬国の55万人を養おうとしますと、どれほどの面積が必要なのかは、計算していませんが、福岡に邪馬台国があるとされておられる歴史家は、邪馬台国が存在するに必要な面積を計算それるべきだと思います。
 
紀元元年頃の1戸を形成する家族数は、10人ぐらいでしょうか。そんなに多くないだろうと思われるでしょう。何を根拠にそう思われますか。6人に減らしても、42万人です。

この数字を誰が調べたかと云いますと、難升米ではないかと思います。
投馬国と邪馬壹国、そして、これらの国を守る軍隊は、狗奴国にいました。一番警戒が強い国を調べるには、相当困難が伴ったと思います。 これらの国の面積など分りませんから、一部を調べて、何倍かするのではなく、歩いて調べたと思われます。

不思議なことに、考古学が盛んになりましたが、古代には、家族は何人ぐらいであったかを考えた方は居られません。本当は、居られるのでしょうが、私が知らないだけかも知れません。

 次回は、私がどのように推察して人口を出したかを書いて見ます。

歴史各論 三角縁神獣鏡(96) 魏志倭人伝(47) 邪馬壹国は、何所に(43)邪馬壹国(2) [三角縁神獣鏡]

前回に書きましたように、以下、田村誠一氏の田村誠一氏著 『燦然と輝いていた古代 追』(平成5年出版)の116頁にある 【邪馬台国は夜麻登国】のコピーを記ます。

 末廬国の南で、水行十日陸行一ヶ月の所に女王がいる邪馬台国があると書かれています。奴国から伯耆街道を一ヶ月かかって津山盆地に達します。ここから吉井川を高瀬舟で十日かかって下れば備前の国で邪馬台国と書かれ人口は七万戸もありました。
ここは古事記で黒姫がおられた所で、仁徳天皇が黒姫を慕って皇后に内緒で訪れました。
この時、黒姫が詠まれた歌に、この国が夜麻登として登場します。
 邪馬台国は夜麻登国に下卑な当て字をしていました。当て字だから邪馬台国をヤマタイ国と読むのは間違いで、邪馬壹国が正式だと議論するのも問題の解決になりません。
 郡から邪馬台国まで万二千里で、郡とは韓国の帯方郡のことです。起点が韓国なら、ここからの距離は韓国の単位で測るべきで、八四〇キロに相当します。この直線距離をどうして測ったかを考えることです。この能力があれば方角や距離は正確な筈です。
 邪馬台国の東、海を越えて千里の所に倭種すなはち倭人が住んでいた



魏志倭人伝に書いてある通りの所に、邪馬壹国があります。 田村氏は、〔起点が韓国なら、・・・・・・・・この能力があれば方角や距離は正確な筈です。〕と、軽く書いておられます。
魏志倭人伝では、どこそこの方角が、間違っているとか、距離をオーバーに書いたとか、自分で訂正されているのを、軽く戒めておられます。

歴史各論 三角縁神獣鏡(95) 魏志倭人伝(46) 邪馬壹国は、何所に(42)邪馬壹国 [三角縁神獣鏡]

今日から邪馬壹国です。田村誠一氏は、私の様にクダクダと書かないで、どの国も、一ページで収まるように書かれました。
 前回の投馬国は、その一ページをそのまま、コピーして紹介しました。
 もう一度、ご覧ください。

歴史各論 三角縁神獣鏡(90) 魏志倭人伝(41) 邪馬壹国は、何所に(37)投馬国
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-07

田村氏は、投馬国が、どうして、人口が多いかの理由を次の様に書かれました。
吉備に八年駐留して苗族を入植させました。このため投馬国の戸数は五万戸に達していました。当時は若夫婦も一緒に暮らしていたので人口は五十五万人は遥かに超えていたことになります。 

 前の部分は、許せても、後ろの「人口は五十五万人は遥かに超えていた」は、どなたも、なんと馬鹿なと思われたでしょう。

この部分は、歴史家の頭では、書くことの出来ない部分だと思います。

 投馬国に関しては、抜群の考え方だと思います。そこで、邪馬壹国のところでも、田村氏の書籍からコピーをして見て頂こうと思っています。

 次回にします。

歴史各論 三角縁神獣鏡(94) 魏志倭人伝(45) 邪馬壹国は、何所に(41)投馬国(5) [三角縁神獣鏡]

岡山県の古代史を知るためには、文献は殆ど、役に立ちません。
 私の場合は、投馬国も邪馬台国も岡山県にあるとしていますから、このことを立証するためには、ここに、多くの人が住んでいたことを確認しなければなりません。
 岡山県には、大型の古墳がこれでもかというほどありますが、こうした古墳は、地元の豪族の墓であると片づけられています。
 これでは、歴史になりません。大きな古墳が築かれたということは、余程、住民から尊敬されていたか、恐ろしくて従っていたか を説明しなければいけないと思います。
 
 現在の歴史家が考えておられる歴史では、何も解決できないと思います。古代と寺院が
建設された時代の間には、少し、年月が経ちすぎていますが、仕方がありません。
 岡山県にある廃寺をすべて、調べれば何か糸口がつかめるのではないかと、調べ始めました。その成果は、次の所に蓄積するつもりでした。
岡山県の廃寺
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page860.html

結果は、ごらんの通りです。
インターネットでは、資料を見付けることが出来ません。
と云う次第で、中断しています。
 ただ、高梁川を挟んで、天皇方と中国人方が、住み分けていたのではとの感触は感じています。
 〔岡山県の廃寺〕に記しました廃寺は、10年程前にその地にやって来た人が、お寺を建てたと考えるよりは、その地に、4代ぐらいの人々が、100年ぐらい住んでいて、建てられたと考える方が、無理がないと思います。
 そうしますと、大型古墳時代が終了して、小さくなっていった古墳時代とドッキングをすると思われます。
 と云うことで、廃寺を調べる時は、その寺の周り2キロ以内にある古墳の特徴は調べる必要があろうかと思います。

投馬国は、今回で終了です。次回は、邪馬壹国のことを書いて見ます。

歴史各論 三角縁神獣鏡(93) 魏志倭人伝(44) 邪馬壹国は、何所に(40)投馬国(4) [三角縁神獣鏡]

邪馬壹国と投馬国が並んであった話は如何でしたか。
 邪馬壹国が九州や奈良盆地にあると思って、研究を続けておられる先生方には、100%受け入れられないことだと思います。
 
 邪馬壹国という名前は、日本の歴史書には、残っていないのに、なぜか日本ではあったことは確実とされています。
 何故かと云いますと、魏志倭人伝に書いてあるからです。

 では、日本の歴史書である古事記、日本書紀、先代舊事本紀 等は、多くの歴史家は、古事記は、偽書であるとされています。先代舊事本は、ウィキペデイに執筆された先生?は、「日本の歴史的書物である。学術的には偽書とされている。ただし、部分的には資料的に価値があるとする見解もある」と誰からもイチャモンを付けられないような記述になっています。
 
 長いこと、誰も認められないようなことを書いてきましたが、同じ事象のことを取上げてあるときに、違うことが書いてありますと、書いた人の考え方が何故違うのか、追求しますと、真実が浮かび上るのではないかと考えています。

前置きが長くなりましたが、歴史の真実を追求するには、これらの書物をいくら分析しても限度があります。

 そこで、出来るだけ、いろいろのものから推察する必要があると思います。
鳥取と岡山のことを調べていますと、廃寺が多いなと思いました。
 鳥取県の上淀廃寺は、日本では、二つ目の壁画が見つかりました。
 歴史家の先生は、当然、法隆寺の方が、古く、上淀廃寺を造ったひとは、法隆寺を参考にして造ったと考えておられるように思います。
 
 上淀廃寺の事は、http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2581213/ この辺りから書き始めています。この廃寺は、天皇家の人たちによって造られたのではないと推理しています。それだけではなく、法隆寺が建てられた以前に建てられていたのではないかと考えています。

 このような観点から、投馬国近辺にある廃寺のことを調べたことがあります。
それは、次回にまわそうかと思っています。

歴史各論 三角縁神獣鏡(92) 魏志倭人伝(43) 邪馬壹国は、何所に(39)投馬国(3) [三角縁神獣鏡]

この記事のシリーズは、〔三角縁神獣鏡〕を眺めることによって、日本の歴史を違う角度から眺めてみようと始めました。
 今回で、92回目になります。
 三角縁神獣鏡は、判っているようでわかっていません。
この鏡は、鏡の縁の断面を見ますと、三角形になっているので、この様に呼ばれているのですが、詳細に眺めますと、どうやら、中国人が、日本にやって来て作ったのではと考えています。
 多くの人は、当時の大和朝廷が、部下に渡したように思っておられるようですが、卑弥呼の時代の前後に、作られて、殆どは、死後、お墓に埋められたことが分かってきました。

このシリーズの2回目には、歴史各論 三角縁神獣鏡(2)を書いています。
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2011-08-04
 ここでは、東之宮古墳から出土した同氾鏡のことを書いています。
 三角縁神獣鏡(2)の二つ先では、
東之宮古墳から出土した鏡の同氾鏡の事を書いています。同氾鏡が出土したお墓の主は、全部仲間だったという捉え方をしています。

歴史各論 三角縁神獣鏡(14)  手古塚古墳の鏡 月の輪古墳
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2011-11-11
では、〔月の輪古墳〕のことを書いています。

〔月の輪古墳〕はどこにあるかと云いますと、吉井川の河口から地図上で遡ってください。英田町と吉井町の間位にあります。
 この周りの地名を眺めますと、難読地名が多いので、ユダヤ人が活躍していた所です。

 吉井川の河口にあったのが、又、後に書きますが、邪馬台国です。
 邪馬台国を遡っていきますと、久米町です。ここには、天皇家の軍隊がいました。魏志倭人伝に書かれた狗奴国です。 ここの〔大倭〕に4代から8代までの天皇が、ある時期に住んでいたと思われます。

 大倭村は天皇の故郷
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page727.html
 
 邪馬台国の西隣りが 〔投馬国〕です。 魏志倭人伝では、邪馬台国と投馬国は別の国に扱っています。
と云うことは、住んでいる人たちが少し違うグループだったのではないかと推察しています。
  どの様に違うのか、よく判りませんが、邪馬台国の人は、吉井川を中心にして栄えた。投馬国の人は、高梁川を中心にして栄えた人なのではないかと推理しています。

 前回、鷲羽山の辺りは、何時の頃からか判りませんが、中国人が支配する処庤なりました。
 一方、先ほど書きました月の輪古墳は、三角縁神獣鏡が出土しましたから、ユダヤ人の勢力地(美咲町飯岡は、ユウカ)だったのに、崇神天皇の頃には、三角縁神獣鏡を所持する中国人の勢力地に変っていたことになります。

歴史各論 三角縁神獣鏡(91) 魏志倭人伝(42) 邪馬壹国は、何所に(38)投馬国(2) [三角縁神獣鏡]

投馬国は、現在の都市名で云いますと、岡山市の南にある玉野市になります。
 岡山県の地図を出してください。
 現在の岡山駅の辺りは、海抜2mぐらいです。岡山駅から宇野線が出ています。線路の上は、全て海抜2mです。西隣りの倉敷市も2mです。 
 と云うことは、紀元元年の頃は、この辺りは、海でした。 少し、東へ移動しますと、西大寺辺りは、海抜4mですから、貝塚がみつかっています。紀元元年の頃は海岸だったと思います。ニニギ命が高千穂に降臨したのは、この頃より、まだ、150年も前のことになります。
 高千穂でも、遺跡は見付かっていません。投馬国でも同様に、遺跡は見付かっていないと思います。
 倉敷市の少し北に、早島町があります。ここも西大寺にも国道2号線が走っています。
この線は、紀元元年の頃、海岸線であったと思います。
 従いまして、2号線より、南は、海であったと思います。
 
 この様に見てきますと、玉野市は児島半島と書かれていますが、小島が一杯集った所だったのではないでしょうか。
 鷲羽山のある部分は、大きな岬になっています。ここに龍王山、近くに臥龍山が有ります。従いまして、児島半島の南一帯は、中国人の支配地で、福田のように、〔田〕の字のつくところは、苗族の人が入植して稲作を行った所だと理解しています。

歴史各論 三角縁神獣鏡(90) 魏志倭人伝(41) 邪馬壹国は、何所に(37)投馬国 [三角縁神獣鏡]

本日から、投馬国の事を書いて見ます。
投馬国は何所にあったか、地図をご覧ください。
 田村誠一氏の 『燦然と輝いていた古代 追』(平成5年出版)の104頁にある地図です。
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-889.html 
 
 以下、田村誠一氏の『燦然と輝いていた古代 追』(平成5年出版)の115頁にある「備中と備後が投馬国」をコピーして読んで頂きます。
 
 奴国から日野川を遡って、国境を超えれば、高梁川の源です。この二つの河川に沿って伯備線が走っており、車中からでも殆どの行程が高瀬舟が通えることが分かり、これが水行二十日と書かれました。高梁川の河口付近が投馬国と書かれて備中、備後のことです。
 高橋川の河口の西の笠岡市に神武が八年間駐留した吉備高島があり、倭人の勢力圏で、末廬国の南と書かれていて方角も正確で、投馬国は玉島に由来していると思われます。
 古代には流れが緩やかな川が道の役目をしました。嵐山を流れる保津川は最近まで舟を引っ張って亀岡に物資を運んでいたのです。水行とは舟に乗って行けることです。
 神武は安芸に七年、吉備に八年駐留して苗族を入植させました。このため投馬国の戸数は五万戸に達していました。当時は若夫婦も一緒に暮らしていたので人口は五十五万人は遥かに超えていたことになります。 
 陳寿は倭人の風俗習慣はちゅうごくとも朝鮮とも共通点がなくて海南島の平野部の民族と同じと書いていて、ここには紀元前後に苗族が住んでいました。
 この海南島の男子は稲作をやっていました。又女子は桑を栽培し蚕を飼って、繭から絹織物を紀元前に織っていたことは「前漢書」に書かれています。魏志倭人伝でも稲と麻を作り、蚕を飼って絹や木綿を織っていたと書かれています。吉野ヶ里は苗族とは全く共通した点はないのに邪馬台国と考える根拠は何ですか。

 以上、田村誠一氏の見解です。

私からの一言---ブームが過ぎた頃に、私も吉野ヶ里を訪問しました。復元された遺跡を歩き回り、疲れましたので、芝生の真ん中で、寝ていましたら、一時間ほど、寝てしまいました。
 その後、どんどん遺跡は復元されたようですが、するほどに、邪馬台国ではなかったことに、訪れた皆さんは気づかれたと思います。佐賀県の方でも、やはり邪馬台国ではないなと思っておられるでしょう。
 投馬国の人口は、吉野ヶ里とは比較にならないほど、人口が多いです。

歴史各論 三角縁神獣鏡(89) 魏志倭人伝(40) 邪馬壹国は、何所に(36)狗奴国(7) [三角縁神獣鏡]

前回、資料を「卑彌呼以死、大作冢、径百餘歩、徇葬者奴婢百餘人」と区切ったから良くないのではないでしょうかと書きました。魏志倭人伝は、何所で区切れるのか分かりません。漢字の羅列だけが続きます。
 「卑彌呼以死」の前にも、文章があります。

『其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。』
『其八年、太守王[斤頁]到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、 遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書・黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。』

その六年(245年)、倭の難升米が黄幢 (こうどう)を賜わり、 (帯方)郡経由で仮授した。
その八年(247年)、太守王[斤頁]が到着した。倭の女王卑弥呼は、もとから狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ)とうまくいってなかった。倭は、載斯烏越等を派遣して帯方郡を訪問し、戦争状態の様子を報告した。(魏は、)塞曹掾史(さいそうえんし)張政等を派遣して、詔書・黄幢を齎(もたら)し、難升米に授け、檄文を為(つく)って戦いを激励した。(告喩す)
  この訳文は、http://inoues.net/mystery/kunakoku_nazo.htmlからお借りしました。

 この文章の後ろに、「卑彌呼以死」が続いてあります。

難升米とは、どの様な人でしょうか。 卑弥呼の使いとして、魏の皇帝に使いを出しました。その時の、職業というか、地位は書いてありません。「大夫」とのみありました。大夫の意味は、ウィキペディアをご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%AB
 
 日本での身分を表すものとすれば、日本の律令制度にも取り入れられたと書いてありますから、これが正しいとしますと、中国における身分を表すことになります。
 大陸から日本へ来る時に、いろいろの国を通過してきます。その国における官吏の名前が、魏志倭人伝には書いてありますが、太夫のような短いものはありません。
 日本の卑弥呼の一番の部下の筈ですが、どうして、身分が太夫なのでしょうか。

 もとから狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ)とうまくいってなかったと書いてあります。
 卑弥呼が生きていた頃は、崇神天皇の御世です。崇神天皇は、大和と吉備の間を行き来していたと思いますが、奈良は、殆ど、中国人に征服されていて、危険ですので、狗奴国の男王卑弥弓呼に守ってもらっていました。
 このような書き方は正しくありません。
 天皇家の軍隊があった所が、魏志倭人伝に書いてある狗奴国です。この国は、難升米もなかなか、スパイを送り込んでも、国の様子は、分りませんでした。

 それどころか、卑弥呼のことすら、よく判りませんでした。

 〔相攻撃状〕だったのは、囚われの身になっている卑弥呼を助けるために、出撃した卑弥弓呼と難升米が戦になったことを著しています。崇神天皇をおびき出すために、卑弥呼を人質にしていましたが、難升米に殺されましたと魏志倭人伝に書くわけには行きません。
 
 日本の国を崇神天皇から奪うために、「遣塞曹掾史張政等因齎詔書・黄幢、拜假卑弥呼爲檄告喩之。」であれば、総司令官の軍旗(黄幢)を難升米に渡したことになります。
 
 「檄告喩之」とは、どういう意味なのでしょう。皇帝の詔書を渡したのも、卑弥呼ではなく、難升米がうけとったことになります。 詔書には、卑弥呼を殺し、日本全国への出動命令をするように書いてあったのでしょうか。
 勿論、「卑弥呼」殺しなさいと命令したことにはなっていないでしょう。
と云うことは、「難升米に授け、檄文を為(つく)って戦いを激励した」と云うような、翻訳になるのでしょう。
 
 卑弥呼は邪馬壹国の女王ですから、難升米は、邪馬壹国の将軍と云うことになります。
 古事記に書いてあることは、全部嘘で、嘘というよりは、神話だと考える方は、魏志倭人伝は、全て、正しいと考えられますと、日本史は解けないことになります。
 
 以前に、狗邪国の北にある不弥国のことを書きました。陳寿は、このような名前を付けました。政治の行渡らない国という意味です。難升米は、この国の事は調べていたので、そのように本国に報告したのでしょう。
 政治をしていた神武天皇は、神武東征以来、鳥取県にいなくなりましたし、軍隊の本拠地も、鳥取の久米郡より、句奴国に移動しました。
 現在の地名で云いますと、美作の久米郡大倭村です。
 
大倭村で生まれたり、生活をしていた天皇の名前には、「大倭」の文字が含まれます。
4代から8代の天皇の名前を確認してください。


参考に 
大倭村は天皇の故郷
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page727.html
美作国と天皇の関係
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page729.html

歴史各論 三角縁神獣鏡(88) 魏志倭人伝(39)  邪馬壹国は、何所に(35)狗奴国(6) [三角縁神獣鏡]

狗奴国の名前は、誰が付けたか判りませんが、総大将の難升米ではないでしょう。
 これから日本を手に入れようとする指揮官が、相手を誹謗するようでは、はじめから負け戦を宣言しているようなものです。
 と云いましても、結果は負け戦となりました。大国の魏が国の歴史に、負けましたというような記録は残す訳に行きません。相手を罵るように国名をつけたのは陳寿でしょう。

 難升米は100才近い卑弥呼を人質にした上に、殺したと思われますが、殺したとも書くわけにいきませんから、陳寿は、簡単に 「卑彌呼以死、大作冢、径百餘歩、徇葬者奴婢百餘人」と書きました。
 卑弥呼が自然死したのであれば、「卑彌呼死」でもいいと思うのですが、漢文では、自然死したときは、「卑彌呼以死」と書くのでしょうか。「以」とはどういう意味でしょうか。
「大作冢、径百餘歩」大きな塚を造ったのであれば、「作大冢」でしょうね。

「大作冢、径百餘歩」に書いてある〔大〕はどういう意味でしょう。

この点は、お預けしておくとして、「難升米は100才近い卑弥呼を人質にした上に、殺したと思われますが」と書きました。どうして、そのように考えるかと云いますと、
「卑彌呼以死、大作冢、径百餘歩、徇葬者奴碑百餘人」の部分だけですと、「卑彌呼は死至った」「大いなる卑弥呼のためにお墓を作った」となるでしょうか。歩幅が、50㎝としますと、50mほどのお墓になります。殉死した者は、奴婢100名ほど。

 原文には、〔徇葬者〕と書いてあります。〔徇〕の漢字は、元々の意味は、「従う」と云うらしいです。
 どのような使い方をするかと云いますと、
〔徇義〕----義の為に命を棄てる
〔徇国〕----国に殉じる
〔徇財〕----命をかけて財を求める
〔徇察〕----あまねく調べる
〔徇節〕----節義のために死ぬ  (魏の時代の文章にある)
〔徇難〕----国難に命を捧げる
〔徇名〕----名声のために命を棄てる

此れは、白川静著『字訓』を引用しました。すべてに共通することは、〔徇〕の次に書いてあることに対して、命を投げ出して 「従う」と書いてあります。
私たちが考える殉死の意味は書いてありません。
〔殉〕の漢字も掲載されています。こちらには、使い方として、殉死という熟語は掲載されています。主人が亡くなれば、殉じて死ぬということでしょう。

皆さんも調べてください。100人の奴婢が生きたまま、お墓の周りに埋められたのでしょうか。
 卑弥呼の部下が、殉死したのでしょうか。 
このように考えてきますと、殉死したのではなくて、「徇葬者」と書いてありますから、葬儀に参列したと読んでも良いことになります。

 これだけの事で、卑弥呼が殺された証拠にはなりません。
資料を「卑彌呼以死、大作冢、径百餘歩、徇葬者奴婢百餘人」と区切ったから良くないのではないでしょうか。

 次回は、
「難升米は100才近い卑弥呼を人質にした上に、殺したと思われますが」と私が書いた部分のことを考えて見ます。

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