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歴史各論 三角縁神獣鏡(107)魏志倭人伝(58) 邪馬壹国は、何所に(54)邪馬壹国(13) [三角縁神獣鏡]

タイトルの三角縁神獣鏡と魏志倭人伝と、邪馬壹国は何所にと邪馬壹国とは、どのような関係があると思われますか。

 初めに、歴史各論と書いています。日本の歴史の流れは、追いかけて、7~8年になります。
古代の事で、記録に残っている者のうち、信用がおけるのは、日本書紀と古事記だけではないかと考えるようになりました。
 日本書紀と古事記と書きましたが、この二冊の書物と外国の記録、例えば魏志倭人伝と三国史記を組み合わせますと、日本の古代史が、浮かび上って来たように思っています。

 日本書紀と古事記は、殆ど、同じことが書いてあると思っておられる方が多いように思われます。一見そのように見えますが、一つずつ丁寧に読み比べていきますと、偽書と思われている古事記には、本当の事が書いてあり、一方の日本書紀には、どの様に考えても、不思議なことが一杯です。
 例えば、日本書紀には、大国主神を祀る、出雲大社のことは記されていません。大物主が祀られている大神神社の事は、書いてありますが、訳の分らないことが書いてあります。 
 この二社は、知らない人はないほど、有名ですが、学者と云えども、どなたも口出しはされていません。メディアの人も、どの会社も説明はしません。
 その外に、有名な所では、奈良の春日大社、石上神宮、伊勢神宮なども同様です。
 どうして、研究をされないのでしょう。 そのようなことはないと思います。研究はされましたが、大まかな日本の歴史からは、遠ざかっておられます。

 日本の歴史の大きな流れは、ほぼ、確定したような気になっています。本人が思っているだけです。 このブログは、書き始めて7年になります。
 スタートは、はじめまして nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-05-28 です。
 
 多くの方に読んで頂いていますが、続けて、〔お前の言う通りだ〕と云って貰える方は、ゼロに近いと思います。
 そこで、総論は、止めにして、各論を書く気になっています。
その第一回目は、三角縁神獣鏡を詳しく眺めることによって、三角縁神獣鏡が登場した時の日本は、どの様なようすであったかを眺める気になりました。

三角縁神獣鏡は、どのような鏡かと云いますと、魏志倭人伝に、卑弥呼が100の鏡を皇帝から貰ったと書いてあります。本当は、貰っていないと思うのですが、貰ったと思っておられる方が多すぎと思います。

 専門家のかたも、殆どそうだと思います。この間違いを知って頂くために、魏志倭人伝に書いてある卑弥呼の事、邪馬壹国のことを書いてきました。
 結論だけを書きますと、
①三角縁神獣鏡は、当初は、魏の国から、日本に派遣された部下に支給された鏡である。其の後、魏の国からの支給品が届けることが出来なくなり、日本書紀国内で製造されることになりました。三角縁神獣鏡には同氾鏡があり、多くの鏡を所持している者を中心に、中国人のいくつかのグループがあったと考えています。

②魏志倭人伝に書かれている卑弥呼は、いろいろの事を勘案しますと、崇神天皇の妹で、西暦150年から248年頃まで生きた人と思われます。邪馬壹国の女王ではなく、卑弥呼は岡山県にあった邪馬壹国と福知山の間を行き来していたと思われます。
 卑弥呼の役目は、外国からやって来る人を受け入れる接待掛と天照大御神をお祀りする役目でした。
 
③魏志倭人伝が記す、末廬国は、出雲の松江の所です。邪馬壹国は、岡山県の西大寺の格です。

 このようなことを書くものですから、どなたも、馬鹿らしいと思われるのだと思います。
 上に書きました卑弥呼の年令は、ほぼ、間違いないと考えています。100才近かった筈です。兄の崇神天皇も、100才を超えていたと考えています。
 崇神天皇に至っては、日本書紀にかいてあることから、計算しますと、168才になります。
 しかし、この年齢は、日本書紀が、60才プラスして、古事記の干支と合うようにしたと思われます。崇神天皇だけではなく、超高齢の天皇は、60才を減らしますと、すべて、辻褄が合うことになります。
 
 天皇に限らず、一般の人でも、100才近く生きられる方が多かったのではないかと無理矢理こじつけて書いています。

 ところで、NHKの棚田に生きる】の映像をご覧になりましたか。はなしは、途中で切れたままですので、次回は、続きを書きます。

歴史各論 三角縁神獣鏡(106)魏志倭人伝(57) 邪馬壹国は、何所に(53)邪馬壹国(12) [三角縁神獣鏡]

平成24年2月5日にNHKから【天空の棚田に生きる】が放映されました。タイトルから分るように、天空まで届くほどに作られた棚田に生きるハニ族の人たちの生活を放送していました。

 この放送は、文章では伝えることは出来ません。NHKに依頼すれば、送って貰えますが、4000円ぐらいかかるのではと思います。図書館にあるかも知れません。無ければ、依頼すれば購入してもらえるのではないでしょうか。

 放送のなかでも、述べられていましたが、ハニ族の人たちは、漢字のような文字は持っていなかったらしいです。その為に、農業の方法などは、歌で伝えられていたそうですが、歴史が判っていません。1300年ほど前から住んでいたことは判っているそうです。では、1400年前は住んでいなかったのかといいますと、判らないらしいです。ここへ来る前は、チベットに居たとのことですが、精しい内容はありませんでした。
 私は、2000年ほど前から住んでいたのではと・・・・・。

 棚田の低いところは、聞き漏らしましたが、高いところは、標高1800m。私の近くに見える六甲山は、960mですから、倍の高さです。
 岡山県のヒルゼン高原には、雲南省の苗族の人たちがやって来て、ヒルゼン高原に高天原を築いたのではと考えています。
ヒルゼン高原の山の高さは、 上蒜山(1202m)・中蒜山(1123m)・下蒜山(1100m)です。彼名は、どれほど高い所で、稲作をしているかを見せてくれます。

 日本にやって来た苗族の人たちは、全国に散らばりました。ヒルゼン高原には、棚田はなかったのではと思っています。現在、日本に残っている棚田は、このハニ族の人が伝えたのではと思っています。
 ヒルゼン高原にやって来た人たちが、稲が育たず、逃げ出したと考えていますが、若し、ハニ族の人達でしたら、 中蒜山(1123m)の麓の上福田は、515mぐらいですから、稲作には成功していたと思われます。

 どうして、ハニ族や苗族の人がやって来たかと質問されそうですが、【天空の棚田に生きる】を見れば一目でわかります。日本人とそっくりです。 ハニカミヤさんが多いのも特徴です。
 収穫されたお米は、ジャポニカ種ですが、それが映像からは分りません。日本では普通は、お米は炊きますが、ここでは蒸していました。このようなことも、丁寧に見てください。

 【天空の棚田に生きる】の事は、なにからお伝えすればいいのか、迷います。
 低い所から高い所まで、全てが揃って始めて、この集落は成り立っています。山の上から森林・集落・棚田と縦に並んでいます。棚田には、一年中、水が張られていて、稲刈の
時だけ、水位は下げられます。この水は、一番上の森林に降った雨で賄われています。住居は、棚田の上にありますから、生活水は、全て、棚田に流れる仕組みになっています。
 田の中には、鮒やどじょうなどが飼われており、貴重なタンパク源となっています。

 日本の棚田のある集落は、低い所にあり、棚田は、その上にあります。どちらにしても、稲を作るには、上下に移動する必要がありますが、住宅が上にありますと、戦争になり、村ごと奪われたとしても、その村を占拠した人達は、このような高い所では、食べるものも無いし、水も無いことになります。即ち、生きていけないことになります。
 NHKは、このような視点では取材をしていませんでしたが、きっと、村の周りには、村を守る城壁のようなものは無かったのではないかと想像しています。

 話題があちこちに飛びますが、天皇が住まわれたところでは、外敵から守る壁や濠は、後世ではありますが、始めの頃は無かったのではないかと・・・。
 平城京は、壁は復元されていますから、行かれた時は、ご覧ください。防御の働きはありません。いくらでも乗り越えることができるような代物です。

 佐賀県の吉野ケ里遺跡では、環濠があり防御が完璧であるから、邪馬台国であると騒がれましたが、吉野ヶ里遺跡に居た人は、苗族の人ではなくて中国人の集落だと思います。
 いわゆる環濠集落は、日本のあちこちで見つかっています。

環濠集落 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page230.html すべて、調べますと、大半は中国人のものであることが判るのではと推理しています。推理と云うことは、調査が完成すれば、予想通りになる筈と云うことです。
 環濠集落は400以上、三角縁神獣鏡は、500枚近く、銅鐸も500個近く、どれもこれも、500個になってきます。

 脱線でした。本日は、日本人は、昔は長生きをしていた。100才以上生きていた証拠として、
【天空の棚田に生きる】のことを書いています。

 これまでの所、長生きらしい話題は出てきません。
 本日は、これぐらいにして、次回にしたく思いますが、それまでに、私の余計な話など、頭に入れないで、【天空の棚田に生きる】を見ておいてください。

ただ、見終わった後に、ハニ族の人は、なるほど、長生きされるだろうと思われるかどうかです。
 NHKのスタッフは、ハニ族の人には、何才までいきられますかというような失礼な質問はしておられません。老人の映像も撮っておられません。

歴史各論 三角縁神獣鏡(105)魏志倭人伝(56) 邪馬壹国は、何所に(52)邪馬壹国(11) [三角縁神獣鏡]

現在より、古代の方が長生きをしていたのではないかと考えるようになったのは、最近です。しかし、10年ほど前に、江戸時代は意外と長生きをしていたのではないかと思うことがありました。
大阪の北に、豊能町があります。歴史に興味を持った時に、古文書読む会があり、いろいろ見る機会がありました。その中に、各家庭の人員構成・田畑の広さ・田畑の等級などが書いてあるものがあり、これは、面白いと思って、全部お借りしてコピーしました。
コピーの時間だけでも、相当かかりましたので、何時かは分析しようと思っていました。
先日、分析しようと思いましたが、どこに片づけたのか分かりません。

 と云う次第で、肝心の時に、役立ちません。
 
どうして、コピーする気になったかと云いますと、これは、税金を取り立てる時の、税務台帳の様なものでした。分析していませんから、なにも判っていませんが、殆どの家では、親子3代が生活していました。
あまり、自分たちの村からは、出ることは無かったのではないかと思いました。お米の取れ高だけが書いてあるのですが、何故か、生活が豊かであるように感じられました。
江戸時代の歴史の知識は、ゼロに近いのですが、何故か、江戸時代は、8代ぐらいから、次第に幕府の財政が駄目になったように理解していましたが、どのように悪くなっていったかは知りません。今の日本ではありませんが、国の収入よりも支出が多かったということでしょうか。
国の収入となりますと、当時は、鎖国をしていたようですから、税収が、国の収入の大半を占めていた筈です。と云うことは、次第に税収が減って来たと考えるかです。
どは、どうして、収入が減って来たかです。
このことは、現在の歴史家は解明しておられません。
稲作を中心にした生活は、紀元前からありました。直播であった農業の技術は次第に改良され、収穫は増えて行ったと思われます。なのに、どうして、コメの収穫は減ったのか。

このことを調べるのは、大変です。
私が、ここ12年、いろいろの所へ行き、見て聞いたところでは、江戸の最後頃には、全国的に、絹の生産が、半分ぐらい占めていたのではないかと想像しています。

絹の生産は、全国的でしたが、中でも関東は抜きんでていたのではと想像するだけです。記録がありません。(記録はありませんが、古墳が一杯あります) 千葉、群馬の人たちは、但馬に移動してきました。
従いまして、但馬は、稲作と絹の生産で、豊かな地域だったと思うのですが、享保元年(1716年)の野間村の年貢率は、7割5分です。 元文元年(1736)の年貢率は、7割9分です。
『和田山町の歴史 1』22ページには、元和4年(1618)から、起った百姓一揆のすべてが掲載されています。総数46件です。

日本中で、状態の悪かったのは、和田山町だけでしょうか。元和4年(1618)から150年後には、江戸幕府が崩壊します。 その後、僅かの間に、日本は、ロシア艦隊を打ち破ることになります。
 この間の歴史は、戦のことは語られていますが、経済の事は、誰も語っていません。

 紀元前後の人は、長命であったことを書こうと思いながら、又、別の事を書いてしまいました。
 話は、飛びますが、次回は、2月5日に放映された【天空の棚田に生きる】のことを書いて見ようと思います。

歴史各論 三角縁神獣鏡(104)魏志倭人伝(55) 邪馬壹国は、何所に(51)邪馬壹国(10) [三角縁神獣鏡]

タイトルは、邪馬壹国(10)です。
 邪馬台国は、どこにあったか判らないのですが、九州の方は、九州にあったと思っておられます。関西の方は、奈良の桜井市にあるといわれている纏向遺跡がそうだろうと思っておられます。
 関西の方はと書きましたが、奈良の方はと書いた方が正しいかも知れません。次の文は、2012年4月5日の読売新聞の夕刊に掲載されたものです。

 【纒向研究拠点が開所】
邪馬台国の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)を調査・研究する「桜井市纒向学研究センター」が同市東田(ひがいだ)で開所し、5日、式典が行われた。
同センターを拠点に発掘調査を進め、遺物の展示、大型建物跡の復元などを行う。
 大和王権発祥地の地ともされる同遺跡は3~4世紀の都市とされ、2009年に宮殿とみられる大型建物跡(3世紀中頃)が出土。しかし調査を終えたのは東西2キロ、南北1.5キロのうちまだ5%で、同センターは、調査範囲の拡大にも取り組む。

 新聞では、僅か、一行12字で17行の文章ですから、200字ほどの記事です。
他の新聞では、写真も掲載し、内容はもっと、多いです。読売新聞は、纒向遺跡が邪馬台国の有力候補地と記していますが、「桜井市纒向学研究センター」を設立された方は、間違いないと思われているのでしょう。
 その証拠となるものが、〔2009年に宮殿とみられる大型建物跡(3世紀中頃)が出土〕ち記事には、書いてありますが、これは、卑弥呼が住んでいた建物、即ち、宮殿と思われています。

 この辺り一帯は、崇神天皇を挟んだ天皇の御陵があることになっていますが、これらは、全部証拠がないことになっていて、崇神天皇のお墓は、行燈山古墳 と呼ばれ、崇神天皇御陵と云ってはいけないことになっています。それどころか、崇神天皇は存在したらしいが、その前の9人の天皇は、作られた天皇であろうとなっています。

 いっぱい、御陵とか、資料がある天皇が、存在しなかったのに、魏志倭人伝に書いてある卑弥呼は、纒向遺跡に住んでいたことになり、そのことを立証するために、
今後、調査を終えたのは東西2キロ、南北1.5キロの範囲の内、5%だけである。そこで、残る95%を発掘して、ここに、邪馬壹国があったことを立証しようとのことです。

 これは、此れでいいのですが、仮に、纒向遺跡のところが、邪馬壹国の中心地であったことが判ったとします。末廬国、不弥国、奴国、伊都国は、邪馬壹国より北にあることになりますから、立証するには、奈良中を掘りまくらなければなりません。

  どうして、このような発想で、「桜井市纒向学研究センター」の設立になるのか判りません。
 残っている資料を利用しようとしますと、余りにも、多くの天皇が生きておられた年数が多すぎるために、資料は当てにならない。そこで、考古学から解明しようと思われているのでしょうか。
 
 神武天皇から応神天皇辺りまでは、あまりにも、享年が高すぎます。 しかし、現在は、男性の最高齢が、115才になられたばかりです。
 医学の進んだ現在ですから、115才です納得できるかも知れません。今から2000年も前ですと、現在より早く死ぬように思われます。崇神天皇は、特に高齢すぎます。

年令のことは、横に置くこととして、「桜井市纒向学研究センター」の方は、邪馬壹国は、どれぐらいの広さだと考えておられるのでしょう。但馬国ぐらいの広さはあったのでしょうか。

この様なことを考えていますと、やはり、2~3世紀は、高齢者が多かったと説明しないことには、日本史は、益々謎が深まります。

今、考えているのですが、400字ぐらいの文章では書ききれないなと、外の事を書いています。

歴史各論 三角縁神獣鏡(103)魏志倭人伝(54) 邪馬壹国は、何所に(50)邪馬壹国(9) [三角縁神獣鏡]

以前に何回か見て頂いたと思います。タイトルは少しおかしいですが、【歴代天皇家年表】と云います。
 私の外のブログの「おかしな世の中」のhttp://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-868.html
に掲載しています。
 この表は、私が制作したものではなく、田村誠一氏が作られたものです。
 古事記では、いつ亡くなられたかは書いてありませんが、何人かの天皇は、亡くなられた時の干支が書かれています。
干支は、正しいとし、天皇は、平均21才の時に、皇太子をお生みになったとして、年表を作成しておられます。
 其の為に、多くの天皇の誕生日は、推定になっています。天皇は、平均21才の時に、皇太子をお生みになったのではなく、22才にしても、19歳にしても、全体の数字にはあまり影響を与えません。
 9名の高齢の天皇が浮かび上ります。 日本書紀の作者は、古事記に書いてあることは、間違っているように見せるために、9名の天皇の崩御の都市に細工をしました。古事記に書いてある干支と狂わないように、60才多く書いた考えて、田村氏は、修正をされました。
 そうしますと、高齢すぎる天皇が、常識と思われる年齢に修正されました。
 
 このように修正をしますと、10代までの天皇は、辻褄が合わないから、実在しなかったと云われる方が居られますが、欠史10代と呼ばれた天皇は、実在していたと考えても良いことになります。

 これほど狂わしたにも関わらず、長い間、おかしいなと誰にも思われなかったということは、実際には孝霊天皇ぐらいの年令の人が大勢いたのではと推理しました。

 前回と同じようなことを書きましたが、【歴代天皇家年表】は、殆ど、見て頂けませんでしたので、もう一度書いて見ました。

歴史各論 三角縁神獣鏡(102)魏志倭人伝(53) 邪馬壹国は、何所に(49)邪馬壹国(8) [三角縁神獣鏡]

邪馬壹国と云う国が、日本にあったとことは、誰もが信用しているのに、日本の歴史書である古事記にも、日本書紀にも書いてありません。
 邪馬壹国のことが書いてあるのは、中国の歴史書で、魏の国のことが書いてある歴史書の中の日本の事が書いてある『魏志倭人伝』の中に書いてあります。ここには、卑弥呼のことも書いてあります。卑弥呼も不思議なことに日本の歴史書には登場しません。しかし、卑弥呼が死んだ年は、魏志倭人伝から推測しますと、248年になります。
 「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は邪馬壹国に居住し(女王ノ都トスル所)、鬼道で衆を惑わしていたという(卑彌呼 事鬼道 能惑衆)と書いてあります。
 
 簡単です。卑弥呼は、魏の国があった時代に、日本のどこかにあった国です。誰がそれを認めたかと云いますと、魏の国の人が、自分が持っていた情報網から得たものであることが判ります。

 卑弥呼は、ウィキペディアに拠れば、170年頃 - 248年頃の人とされていますが、私の推察では、160年頃の生まれで、90才近くで亡くなったと考えています。 
 卑弥呼は日本の史書には掲載されていませんが、200~248年の頃に、邪馬壹国の女王をしていたということになっています。
 同じ頃に、日本には、初代の神武天皇以来、続けて天皇が日本を統治していたことになっています。
 160年頃 - ~248年頃までの間、どの天皇の時代であったかを検討します。

 天皇が治めていた日本は、「倭国」と呼ばれ、その初代の天皇は、古事記には、神倭伊波礼毘古命と書いてあります。同じ天皇を日本書紀では、神日本磐余彦天皇と記しています。
 
 日本書紀によると、在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日?)~ 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日?)とされています。
 
 神武天皇は、紀元前660年の生まれだとされています。これが正しいとしますと、
卑弥呼が女王をしていた200~248年の頃の天皇は、どの天皇だったのでしょう。
 計算しやすく、一人の天皇が、100才生きていたとしますと、神武天皇から数えて、900年ぐらいたっていることになります。そうしますと、9代か10代の天皇の頃が、200~248年になるでしょうか。
 この計算は、おかしいですね。神武天皇が、100才で死んで、2代の天皇が、次の天皇になって、又、100年天皇であったと考えますと、計算は合っています。
 神武天皇が、100年生きていても、天皇在位が100年ではありません。神武天皇が、20才の頃には、子供が生まれます。神武天皇が、40歳の時には、2代目は、20才になります。
 20才で、天皇の位を引き継ぐとしますと、10代までの天皇の在位の合計は、200年になります。

 神武天皇が生れた紀元前660年から、卑弥呼が亡くなった240年までは、900年あります。
 先ほどの、20年で天皇の位を譲るとしますと、45代目の天皇が、200~248年頃に当たります。
別に、このようなことでも、いいのですが、魏志倭人伝に拠りますと、日本にあった国々は、邪馬台国だけではありません。天皇が、治める倭国以外に、20を超える国が日本にはあったことになります。
日本の歴史家は、魏志倭人伝も信じ、日本書紀も信じておられます。どちらかに書いてあることが間違っていると考えませんと、辻褄が合いません。

 この辺りの矛盾を解き明かしておられる方は、WEBでは見当たりません。

 魏志倭人伝に書いてあることを元にして、邪馬壹国が何所に有るかを書いてきました。、島根県の松江を末廬国と考えますと、魏志倭人伝に書いてある通りの、方角と距離の所に、全ての国が、収まります。
 これほど、みごとに、一致するということは、魏志倭人伝に書いてあることは、正しいことになります。即ち、日本書紀にかいてある 「在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日?)~ 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日?)」は、嘘であることが判ります。

 以前にも書いていますが、崇神天皇だけは、ほぼ、正確にいつ頃の人であるかが、判りますので、書いて見ます。

ダブりますが、
 次のところにもかいています。
No115 崇神天皇は、紀元200年頃の人
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-12-20

歴史各論 三角縁神獣鏡(101)魏志倭人伝(52) 邪馬壹国は、何所に(48)邪馬壹国(7) [三角縁神獣鏡]

日本書紀では、天皇の享年を高齢に書いてあるのに、誰も、おかしいと思わなかったのは、紀元前後には、120才ぐらいの人は、大勢いたと考えるしかないと書きました。

その2は、日本書紀に細工をしただけではなく、古事記にも改ざんを加えたからではないかと思います。では、古事記のどの部分に改ざんをしたのかと云いますと、膨大すぎて判りにくくなっています。
日本書紀に細工をした部分は、判り易いです。「一書に曰く」と書かれた部分です。古事記に書かれている部分を、いくつかの「一書に曰く」に分けて書き改めています。
日本書紀の形式は、日本書紀以外に、当時、存在した書物には、次のように書いてありますと、多いときには、10冊ぐらいの書物から抜粋したように書いてあります。不思議なことに、古事記と同じものは一切見ることは出来ません。
日本書紀では、不思議なことに、読み方は古事記と同じなのに、漢字はすべて、読むことが出来ないような難しい漢字が使われています。

田村誠一氏は、「神話にすぎない日本書紀」のタイトルで、6回に分けて書いておられます。
私の【楽しい人生】http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/03/1-d07d.html
に掲載していますから、読んでください。

古事記を改ざんした部分は、「神話にすぎない日本書紀(3)」に於いて、次の箇所だと書いておられます。
日本書紀と古事記とで、記述が矛盾していて、しかも完全に一致した天若日子(天雅彦)を葬った場所である。この場所は両書共「美濃の藍見河の河上の喪山といふ山なり」と書かれている。

意味はお分かりですか。お葬式が行われた所は、高天原から下った所なのに、「美濃」になっています。

 きっと、理解出来ないと思います。高天原は、ヒルゼン高原だったのに、古事記を参考にして、日本書紀を制作する時に、意味が不明になるように、製作しましたから、歴史の学者も全員騙されることになりました。
 高天原は、歴史学者だけではなく、日本人、全員が、宮崎県の高千穂という山の天上にあるとしておられます。
 山の上と云いますと、宇宙ということになります。

 日本書紀を編纂した影の責任者は、藤原不比等だと思われます。712年に発行された古事記は、悉く、没収したと思われていましたが、若し、どこかに残っていたのでは、天皇家は、日本の正当な支配者であったことが判ってしまうので、古事記に書いてあることは、間違っていると思わせる細工をしたと考えています。
 ところが、実際には、古事記は、残っていなかったのではないかと推理しています。その古事記が、どうして、400年も後に発見されることになったか、判っていませんが、発見された古事記を眺めていますと、不備なところを見付けたのではないでしょうか。右近衛大将藤原朝臣が手を加えることとなります。
 古事記の改ざんされた所は、「神話にすぎない日本書紀(3)」以下にも、書いてありますから、ご覧ください。

以上、2回にわたって、日本書紀が作られて以降、どうして、だれもが、騙されてしまうことになったかの要因を二つ挙げて見ました。

 次回は、本当に、紀元前後には、120才ぐらいの人は、大勢いたという推理が、どうして、そう思うことができるのかを書いて見ようと思います。

歴史各論 三角縁神獣鏡(100) 魏志倭人伝(51) 邪馬壹国は、何所に(47)邪馬壹国(6) [三角縁神獣鏡]

前回は、10代ぐらいまでの天皇は、100才ぐらいまで生きたのではと考えて見ました。それが、邪馬壹国とどのような関係があるのだと思われたでしょう。

 邪馬壹国とは、関係はありません。

邪馬壹国は、中国の魏志倭人伝に書いてある国です。日本の資料には残っていないのですが、みなさん間違いなくあった国だと思っておられます。
 間違いなくあったのであれば、どの辺りにあったのか。それは、どれぐらいの広さのくにであったかぐらいの事は、判っていて当然です。

 私のような素人を含めますと、邪馬壹国は九州、四国、岡山(私の意見)、滋賀県(近江八幡)、奈良県などなどです。一番有力な説は、九州のようです。佐賀県で、吉野ヶ里遺跡が発掘された時は、此処が、邪馬壹国と発掘された方や、新聞社が、ほぼ決定の様に書かれました。そのように書いてある本を二冊購入しました。
 なぜ騒がれたかと云いますと、魏志倭人伝に書いてあった環濠などをはじめとして、全部揃っていると云われました。
 本当は、そうではなく、吉野ヶ里遺跡が邪馬壹国を彷彿させるに十分な広さがあったからだと思いました。
 ほとぼりが冷めた頃に、訪れました。折角、遠くまで行ったのに、がっかりしました。
吉野ヶ里は、あまりにも狭かったからです。帰ってから、吉野ヶ里遺跡の周辺の遺跡を調べました。

http://homepage1.nifty.com/o-mino/page630.html
 
これらの遺跡は、精しくは調べていませんが、吉野ヶ里遺跡と何等かの関係はあったと思いますが、邪馬壹国ではないと思いました。 中国人のお墓だと思われるものが、見つかっています。

 魏志倭人伝には、邪馬壹国は七万戸とあります。吉野ヶ里遺跡の周辺の遺跡を合わせますと、これぐらいの人口を養うことが出来ますが、吉野ヶ里遺跡だけでは、無理だと思いました。
 七万戸には、何人の人間が住んでいたのかを知るつもりになっています。

〔崇神天皇は、享年168才となっていますが、60年を差し引いた108才が本当の享年だという一覧表です〕と書きました。
 これは、魏志倭人伝ではなくて、どうやら、日本書紀に書いてあった記事から、計算されたものです。

 日本書紀は、720年に完成したことになっています。 今でこそ、168才と書けば、誰も相手にしません。この時に、崇神天皇は、享年168才となっていますが、100才以上の人が、全くいなかったら、日本書紀は、誰にも信用されなかったでしょう。日本書紀は、現在でも、読める人は、歴史を勉強している人でも、一人もいないのですから、720年当時は、読める人は、殆どいなかったと思います。それにしても、中国人で一杯でしたから、500人ぐらいの人は、読むことが出来たでしょう。
 
 日本書紀の中で、素人でもおかしいとすぐわかる箇所が、崇神天皇の享年168才でしょう。
 崇神天皇一人ではありません。9人もの、享年を60年ごまかした日本書紀の編集者は、怪しまれずに済んだのでしょうか。
 少しは、変だと思う人もいたでしょうが、延々と、現在までの日本人を誤魔化せたということは、いくつかと要因があったと考えるしかないでしょう。

 要因その1は、当時は、168才は無理としても、120才ぐらいの人は、大勢いたと考えるしかないと思います。
 ここ数年、日本人の寿命は、年々伸びています。100才を超える人が増えてきました。
 後、10年もしますと、110才を超える人は、増えるのではと考えています。

次回は、要因その2を書いて見ます。

歴史各論 三角縁神獣鏡(99) 魏志倭人伝(50) 邪馬壹国は、何所に(46)邪馬壹国(5) [三角縁神獣鏡]

神武天皇は、初代天皇とされています。いや、そのような天皇はいなかったと説明している歴史家が居られます。その証拠として、10代天皇とされている崇神天皇が、初代天皇だと説を唱えておられる方が居られます。
 
 本当は、お一人ずつ、本名を書いて、どこがいけないのか、論破しなければなりませんが、お一人に1年かかったとします。100人居られますと、論破するのに、100年かかります。
 従いまして、どの学者が間違っておられるかを指摘しても意味がありません。

 お一人だけ、例を挙げて書いて見ようと思います。

ウィキペディアの崇神天皇の所をご覧ください。
 

この記事を書かれた方の名前は、書いてありません。私のブログと同じです。全く無責任極まる事例です。

 署名なしを非難しておきながら、署名しない私が以下の事を書くのは、矛盾していますが、私の疑問とする部分を書いて見ます。
先ず、はじめからの9行です。

 崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年(紀元前148年) - 崇神天皇68年12月5日(紀元前29年1月9日))は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日(紀元前97年2月17日) - 同68年12月5日(紀元前29年1月9日))。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。

 崇神天皇の所は、数人の方が、討論しながら、得られた結論かもしれません。
一番おかしな部分は、太い文字で書かれている 「現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇である」の部分です。誰がこのようなことを認めたのでしょう。私は、はじめに書きました数人の方が認められたのではないかと考えます。とすれば、この9行の文章は、意味が無くなります。
 上4行は、『古事記』『日本書紀』に書いてあることから、現代日本の学術上、証明されるということでしょうか。

 和風諡号は
①『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と書いてある。

②『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)です。

 ①②の事から、現代日本の学術上から言えることは、崇神天皇が、初代天皇であると云ってもいいだろうという感触が得られます。

この後、いっぱいの記事がありますが、スクロールして、8 関連項目 に移動してください。
1:神武天皇前660-前585 / 2:綏靖天皇前581-前549 / 3:安寧天皇前549-前511 / 4:懿徳天皇前510-前477 / 5:孝昭天皇前475-前393 / 6:孝安天皇前392-前291 / 7:孝霊天皇前290-前215 / 8:孝元天皇前214-前158 / 9:開化天皇前158-前98 / 10:崇神天皇前97-前30 /・・・・

 この記事はどういうことでしょうか。
神武天皇は、前660-前585 まで生きて居られたということでしょうか。天皇の在位期間でしょうか。
 このような話は、素人でも、誰も認めないと思います。ここに書いてある数字は、日本書紀に書いてある数字を現在の表記の仕方に修正したものだと思われます。

と云うことは、ウィキペディアの崇神天皇の所を書かれた方は、日本書紀に書いてあることを信用して、日本書紀の歴史を考えようとしておられることが分かります。

田村誠一氏は、『日本書紀は神話にすぎない』という文章を書いておられます。まだ、全部掲載していませんが、ゆっくり読んでください。

【おかしな世の中】という私のブログに、田村氏が作られた「歴代天皇家年表」を掲載しています。コピーして、ゆっくり眺めてください。天皇家で、長生きされた天皇の小生さ
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-868.html

 崇神天皇は、享年168才となっていますが、60年を差し引いた108才が本当の享年だという一覧表です。残念ながら、拍手をされた方は、お一人でした。その他の方は、この表の意味が判らなかったか、こんなバカなと思われたか、どちらかだと思います。

 2000年前に、崇神天皇が108年も生きられたのか、信じられないと思われる方が殆どだと思います。
 医学が発達していなかったから、この頃は、108才まで生きたと考えられます。
 70年ほど前は、60才ぐらいで死んでいた人々が、医学が発達したから、最近は、110才まで生きれる様になりましたと考える人が普通の人ですが、私は、それは間違いだろうと考えています。
 その証拠を知るには、110才~110才の方に、どのような人生を送ったか。例えば、どのような食事をして来たか。どのような仕事をして来たか。どのような遊びをしてきたか。どのような勉強をしたか。 結婚をしたか。今でも、夫婦二人で生活をしているか。
 だれかに助けてもらいましたか。 一番楽しかった思い出はなんですか。

 最後に、長生きをしてよかったか。まだ、長生きをしたいと思いますか。

 全部質問してください。 
 長生きの条件が、浮かびあがってくると思います。


 最近は、長生きしたくない人は、自殺をされます。ここ8年間、長生きしたくない人の自殺が増え続いています。一年に、30000人を超えていると思います。


 神武天皇は、紀元前52年の誕生で、崩御は、紀元後、25年です。日本書紀のデーターに拠りますと、享年、137年ですが、実際の享年は 77才だったという年表です。

 神武天皇は、古事記に拠れば、16年間も、戦争を続けて、柏原に宮城を建てたことになっています。
 これは、西暦紀元元年の事です。今日は、2012年ですから、2012年前に、神武天皇は、始めて、日本を治めたことになります。
 
 西暦元年という数字がハッキリしましたので、崇神天皇の五年も、ハッキリすることになります。と云うことは、神武天皇から開化天皇までは、実在した天皇であることが、立証できることになります。

 ストレスの多かった神武天皇でも、108年も生きられたということは、一般の人民は、110才ほど生きていたと考えても良いことになります。

 長生きをしていた古代史は、バラ色の時代だったと思います。

歴史各論 三角縁神獣鏡(98) 魏志倭人伝(49) 邪馬壹国は、何所に(45)邪馬壹国(4) [三角縁神獣鏡]

魏志倭人伝には、末羅国から始まって、邪馬壹国まで沢山の国が書いてあります。その国を治めていた長官と副官の名前が書いてあります。名前なのか、職種なのか判りませんが、誰一人として、このことについて書いておられる方はありません。そして、外には国の人口が書いてあります。少ない方は、伊都国は千余戸、不弥国の千余家、多いところは、奴国の二万戸、投馬国の五万戸、邪馬壹国の七万戸です。

 伊都国と不弥国を較べてください。千余戸と千余家です。不弥国の方は、建っている家の数です。伊都国は千余戸の方は、世帯数です。建っている家の数は、だれでも、数えればいいことになります。戸数の方は、どうしてわかったのでしょう。

 外の所にも、目を向けます。
奴国の長官は、兜馬觚 副官は卑奴母離です。兜馬觚は中国人でしょうか。卑奴母離は、奴国の守でしょうか。そこに「卑」が付いています。中国人でないことを著しているのでしょうか。卑弥呼の「卑」と同じです。外に、「卑」の付く名前は、対馬国の卑狗と卑奴母離、一大国の卑狗と卑奴母離です。
 この名前を書いたのは、魏志倭人伝の作者の陳寿ですが、報告を受けたのは、卑弥呼の使いとして中国へ行った難升米から報告を受けたのではないでしょうか。
 このようなことなども考えますと、難升米は、卑弥呼の家来ではなく、卑弥呼を捕えて捕虜にしていた説の補強になります。

 千余戸ぐらいですと、調べるのは、難しくはありませんが、七万戸となりますと、どの様にしてしらべたのだろうと、この辺りですでに、疑問がわきます。しかし、七万戸は、七千戸の書き間違いであろうとは云わないで、全て正しいであるということで、検証をすべきだと思われます。

 七万戸とは、一軒の家の中で、家族全員が住んでいるとして、七万家あるということでしょうか。そうではない様に思われます。
先ほど、書きました〔伊都国と不弥国を較べてください。千余戸と千余家です〕で、若し、「戸」と「家」が同じものであれば、かき分ける必要はありません。別に書いたということは、「戸」の方は、大きな家族で会っても、小さな家族集団であっても、一戸は、一戸であると思われます。
 吉野ヶ里遺跡では、いろいろの建物が復元されていました。生活を主体とする建物として、竪穴住居が復元されていましたが、住むには、十五人が限度でしょうか。
 この一戸を表す建物は、復元してなかったように思います。例えば、二軒で一戸と分る。又は、三軒で一戸というような復元の仕方です。

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