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歴史各論  勾玉(26)  勾玉製造元(15) ヒスイ製勾玉(6) 椛島山遺跡 [日本大好き]

椛島山遺跡からヒスイ製の勾玉が出土しました。この遺跡は、いつ頃存在した遺跡か。誰が埋葬されていたのかを知るつもりになっています。

 前回見て頂きました通り、椛島山遺跡、紀元前後の頃は、周りは海で、島であったことは分りました。
 島の名前は、周りが海の頃には、島であったから、「椛島」と付けられたと思います。では、住民が中国人であったから、早い頃から、「椛島」と書いて、「カバシマ」と呼んでいたのかと云いますと、「椛」と言う字は、当時は無かったようです。「椛」の漢字は、日本で作られた漢字で、中国人がつけたにしても、漢字はなかった筈です。
 「椛」の漢字は、「木+花」です。「木+はな」であれば、「樺」は、字通にも掲載されています。ただ、この島に木があり、その木がいっぱいの花を付けていたから、「樺島」と呼ばれたのかも知れませんが、字通には、「樺」を使った例は、「樺燭」が掲載されているのみです。 このようなことを考えますと、「樺島」と名つけたにしても、中国人の可能性は少ないように思われます。

 椛島山遺跡の資料を掲載します。
椛島山遺跡は武雄市北方町に所在する。杵島平野の西奥にある独立丘陵上に立地する弥生時代中期から古墳時代にわたる遺跡である。
地図 
 ミカン園造成の際、2基の石棺が発見され、内部より豊富な副葬品が出土した。一号石棺墓からは内向花文明光鏡1面、素環頭刀子1本、硬玉製勾玉3個、碧玉製管玉36個、二号石棺からは方格規矩四神鏡1面が出土した。
 内向花文鏡は径10.3cmで8個の内向花文を配している。方格規矩四神鏡は径13.1cm。素環頭刀子は全長16.7cmで中国漢代に流行した環頭刀剣の系譜を引くものである。これらの遺物は出土品の内容から弥生時代後期前半のものと推定され、一号石棺に見られる鏡・玉・剣の組み合わせは弥生時代の墓制を考える上で重要である。

出土鏡他写真
http://www.pref.saga.lg.jp/web/kankou/kb-bunka/zai_top/kensaku_top/data_ken_kouko06.html
一号石棺墓からは
①内向花文明光鏡1面、
内向花文鏡は径10.3cmで8個の内向花文を配している。
参考—写真 http://www.eonet.ne.jp/~yamauo2005/ayahito.html

②素環頭刀子1本、
 古代の剣と刀 http://museum.city.fukuoka.jp/je/html/341-350/342/342_02.htm

③硬玉製勾玉3個、---硬玉製勾玉がヒスイとは限りません。WEBのどこかにヒスイ製とありました。

④玉製管玉36個
二号石棺からは
方格規矩四神鏡1面が出土した。
 方格規矩四神鏡は径13.1cm。素環頭刀子は全長16.7cmで中国漢代に流行した環頭刀剣の系譜を引くものである。
参考--- http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/data/kouko/houkaku.htm
写真 http://we.magma.jp/~ark/sinkyou_utyuu/honkan/g015-houkakukikusisin.html
連弧文昭明鏡--弥生時代(中期)・前2~前1世紀  佐賀県立博物館蔵

精しくは、http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-784.htmlをご覧ください。

今度は、資料から眺めて見ます。
一号石棺墓からは
①内向花文明光鏡1面が出土しています。どのような状況で出土したかが、大切です。顔の周りに置かれている場合は、その鏡は、被葬者が中国を出る時に、自分の主人から受け取った鏡だと考えています。
 必ず、一面であります。 
二号石棺からは
方格規矩四神鏡1面が出土した。この鏡も、漢代の鏡です。
 二人とも、同じ遺跡に葬られていたのですが、どちらの鏡が古いのか判りません。
方格規矩四神鏡は、前漢から後漢の間に作られたらしいです。この間は400年ありますから、余り役に立ちませんが、その様な古い時代の鏡を、どのような理由があるにせよ、周りが海だった時代に、持った人が、椛島山遺跡に住んでいたことになります。
 
 それだけではなく、メインと思われるJRの走っている安全な所ではなく、危険な所で、住んでいたことになります。
JRの走っている安全な所と書きましたが、ここは、すべて、海抜4mですから、2000年前は、海でした。 国道は、海抜6,mの所が多いですから、海岸線の道であったと思われます。

 素環頭刀子1本が出土しています。 この刀も、主人筋から貰ったものでしょうか。一本ぐらいあっても、武器にもならないと思われます。

歴史各論  勾玉(25)  勾玉製造元(14) ヒスイ製勾玉(5) [日本大好き]

椛島山遺跡はどこにあるかご存知ですか。佐賀市の方ならどなたでもご存知でしょう。
何故かといいますと、近いからです。しかし、2000年前はどのような所だったかはご存じないと思います。
 現在は、普通の住宅地だと思います。何故かと云いますと、遺跡という名前があるということは、随分前に人が住んでいた証拠の遺物が出て来たからです。
 そのくせ、遺跡の名前には、椛島山遺跡と付けられています。 この遺跡は、〔椛島〕であって、〔山〕があったと想像できます。

 地図をご覧ください。
 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=331238&l=1300456
椛島山遺跡の周りは現在でも、田です。 芦原という地名がありますから、長い間、葦が生えていたのが、何時の日から田になったと思われます。 少し、南に熊野神社があります。この神社は、祭神といつからあるのかを調べる必要があります。一般には、イザナギとイザナミが祭られていることが多いです。
 お寺もあります。お寺だけ先に出来ることはありませんから、お寺の歴史も重要です。北に六角川が流れています。当初は、人々は、この川を利用して生活をしていた筈です。 従いまして、六角川の上流に遺跡が有るはずです。

 このように、次々と調べますと歴史が判ります。
 椛島山遺跡は、上の事から、昔、島であった可能性が強いことが判ります。海抜を調べて見ますと、椛島山遺跡の周りは4mです。
 と言うことは、2000年前は、海であり、椛島に人が住んでいたことになります。
山は、高さ50mの低いものです。
椛島山遺跡の北に、国道らしきものが走っていて、この道路にそって、集落が発達したことが判ります。調べていませんが、きっと、海抜は100m前後だと思います。
ところが、この道路と並行してJRが作られるはずですが、佐世保線は、追分の辺りから、南西に方向が変わっています。
行先を追っていきますと、武雄温泉に行く着きます。JRにとって大切なのは、武雄温泉は大切だったようです。
さて、出来るだけ多く、周りのことを調べたうえで、椛島山遺跡を眺めますと、
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-784.html いろいろのことが判ると思います。

次回は、遺跡の出土品などから考えて見ようと思います。

歴史各論  勾玉(24)  勾玉製造元(13) ヒスイ製勾玉(4) [日本大好き]

ヒスイ製勾玉について、調べようとしましたら、大変なことになってきました。
前回、私が考えてきました勾玉とは、どのようなものであるかを復習する意味で見て頂きました。
 勾玉の、あの思議な形は、どのようにして形づくられたのかは、私は動物が大きくなるときの一時期の形であり、どの動物も共通であることです。
 例えば、飼っていた犬が、初期の頃に、流産をして、出て来た羊膜の中を開いてみて、その形を知ったのではと思っています。
 好奇心の強い人間の事ですから、他の動物でも、そのような事実を発見することになったと思っています。
 もし、中国の人が見つけたのであれば、中国でも、名前は勾玉でなくても、同じ形のものが中国でみつかってもいいですが、見つかっていないらしいです。
 では、誰が日本で製作をし始めたかです。
 今、丁度、オタマジャクシが大きくなっている最中です。田にでられますと、早いところでは蛙が鳴き始めていると思いますが、まだ、喧しいほどではありませんから、近くの水たまりでは、勾玉に似たオタマジャクシが、うじょうじょしていると思います。
 勾玉が、動物が成長するとき一過程であると仮定しても、それがどうして、日本だけで、
 持っていると幸せになるという考え方になっていったかが問題です。
 
 この疑問を解決するのが、中国人ではないとしますと、日本人だということになりますが、それを知るには、勾玉がいつ頃作られたかを知る必要があります。ヒスイの原石をあの形に加工するには、石を削る道具が要ります。穴を開ける道具が要ります。
 その技術は、日本にやって来たアマテラス、スサノオ、ツキヨミではないかと思われます。それ以前にやって来たイザナギかも知れません。イザナギは、北京の近くにあった中山王国からやって来たのではないかと推理しています。そうだとしますと、中国の人と言うことになります。
 中山王国は、突如として消滅した国です。遊牧民だったらしいのですが、発見されたものから判断しますと、相当高度の文化を有していた人たちではないかと思われます。
 一見、中国人のように思われますが、田村誠一氏は、この人達は、紀元前、5000年頃に、東北地方に居た人たちではないかと考えておられました。
 
 思いついたまま、書いていますが、どうしても、勾玉に行きつきません。
そこで、勾玉と一種の信仰が結びついたのは、やはり、紀元前から日本に居た人のうち、ユダヤ人が関係しているのではと考えました。神社も、ユダヤ人が持ち込んだものではないかと。
 間は、とんでしまいますが、勾玉は、天皇家の人たちで大切にされましたので、古事記の重要な部分に登場することになったとの結論になっています。

 前置きが長くなりましたが、こうなりますと、簡単です。出土した勾玉が、天皇家の人たちと思われる遺跡から出土しますと、勾玉だけではなく、日本史の謎が、一気に解明できることになります。
 
 一つずつ、調べるつもりになりました。http://www21.atpages.jp/skeikas/ の勾玉に移動して、次に、一番下の〔ヒスイ製勾玉〕に移動してください。
11番の椛島山遺跡 の「私の資料」に掲載しておきました。私が考え易いように書きましたので、良く判らないかも知れませんが、その時は、ご自分で、探してください。

椛島山遺跡は 「かばしまやま」と読みます。どうして、この様な地名が付いたのでしょうか。周りに、どのような遺跡が有るのでしょうか。
まだ、調べていません。見つかったら、教えて下さい。そして、ご自分用のページを作成してください。 
 私のページから、リンクして、ドンドン資料が増える様にしたいと思います。

 椛島山遺跡は、いつ頃にあった遺跡でしょうか。被葬者は中国の人だったのでしょうか。

次回、考えたことを書いて見ます。

歴史各論  勾玉(23)  勾玉製造元(12) ヒスイ製勾玉(3) [日本大好き]

 少し、調べただけですが、ヒスイ製勾玉は沢山出土しているようです。
 現在のところ http://www21.atpages.jp/skeikas/page173.html に掲載しました 19例だけですが、九州に多いような気がしています。
 子持ち勾玉は、http://www21.atpages.jp/skeikas/page175.htmlに掲載しました13例です。
 子持ち勾玉は、普通の勾玉に似ていますが、別のルートで、中国人が作り、持っていたのではと推理していましたが、兵庫県の 雨流遺跡 からは、子持ち勾玉と普通の勾玉が両方出土していますから、両方を求めたことが判ります。だから、両方とも中国人が作ったとは断定できませんが、作った可能性はあるようです。

 5月11日に、
勾玉(1) 勾玉は天孫降臨のときの持ち物
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2011/05/1-70f3.html次に、勾玉(2) 勾玉の形
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2011/05/2-858f.htmlそして、勾玉(3) 勾玉の形は胎児からか 
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2011/05/3-45ad.htmlを書き、自分では、勾玉は天皇家が大切にしていたものととらえていました。ところが、
ヒスイ製勾玉が、九州から沢山出土しました。
 現在の所、佐賀県だけですが、この辺りは、神武天皇が、神武東征を行った時に、中国人が早くから、住んでいたと漠然ととらえていましたから、そこから、ヒスイ製勾玉が出土するようでは、私が考えていた日本史は、全滅です。
 
ヒスイ製勾玉が出土した一覧のうち、http://www21.atpages.jp/skeikas/page173.html上から14つは、全部、中国人の遺跡だと思います。
 下鈎遺跡 より下に書きました遺跡は、全部調べませんと、前に進めません。

 ご一緒に調べて頂ければと思います。

歴史各論  勾玉(22)  勾玉製造元(11) ヒスイ製勾玉(2) [日本大好き]

前回に書きましたように、「勾玉に使われる宝石レベルのヒスイ(硬玉)の産地は、アジアでは日本とミャンマーにほぼ限られる」が本当ですと、態々、ヒスイがミャンマーから日本に運ばれることは、少ないでしょうから、糸魚川産限定と言うことになります。
 日本中のヒスイ製勾玉を製造する所が、すべて、糸魚川流域と関係があったと、考えるには、無理があると考えました。 すなわち、ヒスイ製勾玉は少ないだろうと推理しました。
 ガラス製勾玉は、きっと、新しい技術だから、少ないと思ったのですが、少ないのは、当たっていたようですが、考えていたより、古いように思われます。
 現在の所、10例ほどしかありませんから、各遺跡がどの時期にあったかを調べて見ようと思います。
 ヒスイ製勾玉は、調べ始めたばかりですから、よく判りませんが、九州に多いようです。佐賀県と福岡県に多いのではないかと思います。
 その外では、滋賀県が多いように思います。
 まだ、調べていませんが、勾玉がみつかったところの遺跡名を書いておきます。

 下鈎遺跡 http://www.gensetsu.com/04simomagari/doc1.htm 現地説明会資料
銅鐸--土製鋳型
http://www.ex.biwa.ne.jp/~r-shutudo/simomagarihoukokukaisiryou.pdf勾玉 8個
滋賀埋文ニュース
 http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/buried_cultural/leaflet/304/
 下鈎遺跡は、環濠遺跡です。勾玉の鋳型は見つかっていませんが、銅鐸の鋳型が見付かっています。
 銅鐸は、イザナギの一族が作り、持っていたように考えていましたが、環濠遺跡は、殆どが、中国人の遺跡ではないかと推理していました。
 そうしますと、晩年は、イザナギとイザナミが作ったのではなく、中国人が、作って、イザナギ一族の人に、渡していたことになります。

 古事記に拠りますと、イザナギとイザナミの子供がアマテラス、ツキヨミ、スサノオと書いていますから、天皇家の人達と思っていましたが、イザナギの子孫の人が、銅鐸を造るのではなく、中国人の人たちが、作ってイザナギ族の人たちに配っていたことになり、変なことになってきました。
 
 どこかで、私の考えが間違っていることになりますので、別のことを考えて見ることにしました。

一つは、子持ち勾玉の事も、資料集めをしようと思います。
もう一つは、滋賀県の式内社を調べようと思います。

 【ノックさんの目次】
http://homepage1.nifty.com/o-mino/ に式内社と祭神 を掲載していますが、近江国は、155件あることは、掲載していましたが、多すぎて、詳細は調べていませんでした。しらべることにしました。
 式内社は、700年頃には、藤原氏が支配していた神社だと思っています。645年頃にも、中国人が支配力が強まった所だと推理しています。

 この神社と子持ち勾玉が出土した地域が一致すれば、子持ち勾玉も、勾玉も中国人が好んで持っていたことが云えるのではないかと思います。

 これは、大変なことになってきました。頭がおかしくなりそうです。

歴史各論  勾玉(21)  勾玉製造元(10) ヒスイ製勾玉 [日本大好き]

ヒスイ製勾玉は、あまり出土しないと予想して、ガラス製の勾玉のことを先に調べ様と思いました。どうして、そのように考えたかと云いますと、ウイキペディアの〔ヒスイ製勾玉〕を読んだからです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%B9%E3%82%A4%E8%A3%BD%E5%8B%BE%E7%8E%89 その一部を記します。
 ヒスイ製勾玉(ヒスイせいまがたま)は、勾玉のうちヒスイ(翡翠)でできているものをさす。
日本産のヒスイを、日本の工房で加工した物とされる。北海道の美々4号遺跡、ヲフキ遺跡、青森の三内丸山遺跡、亀ヶ岡遺跡、新潟糸魚川の長者ヶ原遺跡、長野の離山遺跡などから出土しており、縄文中期(BC5,000年)頃から作られていた。特に長者ヶ原遺跡からはヒスイ製勾玉とともにヒスイ加工工房も見つかっている。蛍光X線分析により三内丸山遺跡や北海道南部で出土するヒスイが糸魚川産であることがわかっており、縄文人が広い範囲で交易していた事実を示すと考えられている。

朝鮮半島では5世紀から6世紀にかけての新羅・百済・任那の勢力圏内で大量のヒスイ製勾玉が出土(高句麗の旧領では稀)しており、新羅の宝冠や耳飾などにヒスイ製勾玉が多く使用されている。このことから、戦前の日本の考古学者は、倭国の勢力範囲を示すモノと解釈していたが、戦後に至り、一時期、朝鮮から日本へ伝来したものという新解釈を提唱する学者が現れた[要出典]。
しかし、勾玉に使われる宝石レベルのヒスイ(硬玉)の産地は、アジアでは日本とミャンマーにほぼ限られる事、朝鮮半島での出土例は日本より時期的にさかのぼるものが見られない事に加え、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じ組成であることが判明し、倭から朝鮮半島へ伝播した事が明らかとなった[1][2][3]。

日本産のヒスイは、どこでもとれると思っていましたが、「勾玉に使われる宝石レベルのヒスイ(硬玉)の産地は、アジアでは日本とミャンマーにほぼ限られる」と書いてあります。
 歴史家は、日本に存在するもののルーツは、殆ど、中国か朝鮮と考えます。どうしてかと云いますと、日本の文化は、中国か朝鮮より劣っていると考えるからだと思います。

 漆、鉄、絹、水銀、神(人間)は、全てそのように考えられています。私は、この5つは、全て日本が先に優秀だったのではないかと考えています。
 優秀だから、紀元前から、多くの人が日本へやって来たと考えています。日本には、文字がなかったので、記録として残っていませんが、言葉は勿論ありましたから、日本語をしゃべっていました。その言葉、地名や特殊な言葉として残っています。
 その例を挙げますと、
① どのような織物か判りませんが、「倭文」は、「しずり」と読んでいます。
②舞鶴の「女布」、但馬の「祢布」は両方とも〔にょう〕という地名です。 ここでは、水銀は採れた証拠はありませんが、水銀を採っていたと思います。 「丹生」、これは、だれでも、知っておられると思います。〔にゅう〕で水銀がとれたところです。
③舞鶴の「遠敷」も水銀が採れたところだと思います。 読み方は、〔おにゅう〕です。中国語では、水銀をどのようにいうのでしょう。
 

中国の『後漢書』では「"出白珠青玉"(倭では真珠と青い玉が採れる)」と記されてあり、『魏志倭人伝』によると、「壱与が魏に2つの青い大きな勾玉(孔青大句(勾?)珠二枚)を献上した」と記されている。また、『隋書81巻 列伝46』 によると、「新羅と百済は倭を珍しい文物の多い大国と崇め、倭へ使いを通わしている」と記しており、勾玉とくにヒスイ製勾玉が交易品として重要な意味を持っていたことがうかがわれる。

歴史各論  勾玉(20)  勾玉製造元(9) ガラス製勾玉 [日本大好き]

森尾古墳からはガラス製の勾玉が二つ出土したことをとりあげて、少ないように書きましたが、少しずつ、見つかりました。
奴国の丘歴史公園
のページを眺めていましたら、ガラス勾玉の鋳型の写真が載っていました。これは、福岡県春日市の赤井手遺跡から出土したガラス勾玉の鋳型です。ということは、赤井手遺跡は勾玉の製造所であることになります。

 これまでに、ガラスの勾玉鋳型が出土したのは6カ所です。
①大阪府茨木市の東奈良遺跡
②山口県菊川町の下七見遺跡
③福岡県の弥永原遺跡
④春日市の赤井手遺跡
⑤成田市の船形手黒遺跡
⑥春日市の井尻B遺跡 

鋳型ではなくて、勾玉だけが見付かった所は、この外にもありそうです。ただ、ガラス製勾玉は少ないようです。
見つかり次第、資料室に追加していきます。http://www21.atpages.jp/skeikas/

歴史各論  勾玉(19)  勾玉製造元(8) 森尾古墳が造られた年代 [日本大好き]

森尾古墳からはガラス製の勾玉が二つ出土しましたので、森尾古墳が造られた年代が判れば、その時代には、他の古墳でも、ガラス製の勾玉をつくる技術があったことが判ります。
こガラス製の勾玉は、これまで調べて来た一覧表 http://www21.atpages.jp/skeikas/page127.htmlでは、福岡県春日市の須玖岡本遺跡 だけということになります。 この遺跡は、2000年前の遺跡とされています。
 森尾古墳のことは、余り詳しいことは分っていないようです。
「東西方向に主軸をもった小型の石室(箱式石棺的か)が3基、並んで発見されたようである」と書いてあります。と言うことは、3人の人が同時に亡くなられたのでしょうか。
どうやら竪穴式ではなさそうです。同じ頃に亡くなったのでなくても、近い頃に続けて亡くなった可能性はあります。
 正始元年とは、241年です。此の年に作った鏡を主人から貰って、日本にやって来たことになります。その後、10年後に死んだのか、20年後に死んだのかは判りませんが、この前後に、3人の親近者が亡くなったことになります。
このように、時代は簡単に分ることになります。ただ、問題点はあります。
「外区に唐草文様帯をもつ方格規矩鏡」があったと書いてあります。外区とは、どのようなことを指すのか解りません。石棺の外にあったとすれば、これは、被葬者本人が、主人から貰ったものではなくて、被葬者が、なんらかの理由で、手に入れたものと言うことになります。
 方格規矩鏡はどのような鏡か分りませんが、インターネットで調べた限りでは、中国で作られた鏡で、紀元前の鏡と言うことになります。(しかし、中には、3~4世紀と書いておられる人もあり、あまり、年代を特定できる鏡ではなさそうです。)
 素人考えでは、デザインは古いような気がしています。直線が多いです。直線で描いた図は、定規さえ作ることが出来ますと、図は書きやすいです。
 それにしても、方格規矩鏡と三角縁神獣鏡は、多いです。
 この二つの鏡のことは、自分で調べませんと他の人が云われることを信用していますと、歴史は無茶苦茶になります。
 せめて、国は、全ての方格規矩鏡と三角縁神獣鏡の拡大可能な写真を公開すべきですね。
 話を元に戻します。
 仮に、方格規矩鏡がおじいさんの代からあったとします。すると、おじいさんがどのようにして手に入れたか分りませんが、240年は経っていることになります。
 被葬者は、森尾に来る前は、外の土地に居たとしますと、それから、240年です。森尾で生まれたとしますと。この人たち一族は、200年前から、森尾に住んでいることになります。
 だんだん、書いていることが、怪しくなってきました、方格規矩鏡のあるということは、前漢の時代から、日本へやって来ていたことになります。

 勾玉のことは、出来るだけ毎日、資料を増やしています。その為、新しい資料が加わるたびに考え方が変わるかも知れません。
 http://www21.atpages.jp/skeikas/ を覗いて、一緒に考えて頂ければ思っています。
ガラス製が多くなるだろうとの予想で、先に取り上げましたが、ヒスイ製の方が多いかも知れません。

歴史各論  勾玉(18)  勾玉製造元(7) 森尾古墳のガラス製勾玉 [日本大好き]

森尾古墳の所在地は、兵庫県豊岡市森尾字市尾です。有名なものでは、近くに、中嶋神社があります。
 中嶋神社は、式内社で、祭神 田道間守命を主祭神とし、天湯河棚神を配祀します。。
田道間守は天日槍命の五世の子孫で、日本神話で垂仁天皇の命により常世の国から「非時香果(ときじくのかぐのみ)」(橘のこと)を持ち返ったと記される人物です。
この神社から東1kmの所に山が見えますが、その南の尾根の上に、森尾古墳があります。
【但馬の主要遺跡】田畑 基氏筆から転記しますと、以下の出土物がありました。
東西方向に主軸をもった小型の石室(箱式石棺的か)が3基、並んで発見されたようである。遺物の出土状況も不明確だが、銅鏡は各施設から1枚出ているらしい。魏の年号である正始元年銘をもつ三角縁同向式神獣鏡、三角縁四神四獣鏡、外区に唐草文様帯をもつ方格規矩鏡である。このほか玉類としてヒスイ製(1)やガラス製(2)の勾玉・碧玉製管玉(27)・ガラス製小玉(52)、銅鏃(8)、鉄製品では刀・剣・鏃・斧・ヤリガンナなどが確認でき、朱の精製にもちいる石杵が1点ある。

 上に書きましたように、ガラス製(2)の勾玉 が出土しています。ガラス製と言うことは、新しい技術によって造り出されたものです。 ガラス製小玉と言うのは、真ん中に穴を開けて、糸を通してつなげることによって、首輪にしたと思われますが、多くの古墳から出土しています。しかし、ガラス製勾玉となりますと少ないように思われます。
 できれば、この製品によって、作られた年代が判ればと考えています。

 森尾古墳を有名にしたものの一つは、正始元年銘の三角縁神獣鏡です。同じ銘の鏡は、全国で、外に、3ヶ所から見つかりました。
①桜井茶臼山古墳 (奈良県)
②蟹沢古墳(群馬県高崎市柴崎)
③森尾古墳(兵庫県豊岡市)
④竹島御家老屋敷古墳(山口県周南市)
  この正始元年銘の三角縁神獣鏡は、重要なことではないかと考えます。 一般に、三角縁神獣鏡は、魏の国から日本の豪族が貰ったことになっていますが、この4つの古墳に葬られた人は、同じ仲間で、同じ年代に活躍していた人だと考えています。

 どのような仲間かと云いますと、この4人の人は、中国からやって来た人で、中国の皇帝、又はそれに匹敵する人から、日本に派遣されて、絹の売買を任されていた人ではないかと考えています。 この4人の人が、お互いに連絡し合って仕事をしていたかどうかは、此れからの調べに拠ります。

 例えば、桜井茶臼山古墳からは、81面の鏡が見つかりました。 全部割れていたということは、新聞報道では、盗掘された時に割れたとありますが、これだけ、粉々に割れているということは、商売敵に割られたと考えたくなります。
奈良新聞WEB http://www.nara-np.co.jp/20100108110604.html

新聞報道にも書いてありますが、三角縁神獣鏡は、卑弥呼と関係あるように匂わせていますが、直接関係ありません。 上に書きましたように、日本に派遣された人が、派遣を命令した人から、受け取ったと考えませんと、増える一方の三角縁神獣鏡の役割の説明がつきません。 

桜井茶臼山古墳の被葬者は、自分の部下に渡すために、沢山持っていたと考えますと、数の多さは説明できます。
  どうして、このようなことが云えるかは、一言では説明できません。田村誠一氏が、書いておられるものを次の所に、転載しておきましたので、読んで頂ければと思います。
三角縁神獣鏡(1)  楽しい人生 http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2010/11/1-3ef2.html

森尾古墳のことは、次回に続けて書いて見ます。

歴史各論  勾玉(17)  勾玉製造元(6) 唐古鍵遺跡(5) [日本大好き]

唐古鍵遺跡から、勾玉の製造過程の欠片とか、材料になる石がいっぱい見つかったのであれば、この遺跡は、勾玉製造元であったことになります。
 見つかったのは、褐鉄鉱に閉じこめられた勾玉、ただ一つだけです。銅鐸の場合は、鋳型まで見つかっていますから、銅鐸を製造していたと云えるかもしれません。では、勾玉は一つしか見つかっていないからと云って、製造はしていなかったのかと云いますと、それも云えないと思います。
 唐古鍵遺跡の広さは、まだ、判っていないからです。製造場所がどこかにあって、今後、発見される可能性はあるからです。
 
 勾玉のことは、調べ出して、日が経っていません。勾玉は、古墳の中から出土するものと思っていましたが、そうではないことを淡路島の雨流遺跡で見て頂きました。
歴史各論  勾玉(8) 遺跡から出土
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2011-05-23 古墳でもなく、普通の人が、勾玉を持っていたということは、重要です。
 雨流遺跡の勾玉は、出雲の花仙山のものであったことも紹介しました。このようなことを考えに入れますと、勾玉、製造して売っていた人がいたと考えるしかありません。売ると云っても、貨幣の流通がないときですから、物々交換となるでしょうか。 それにしても、出雲から購入にしては、少し遠すぎます。
 淡路となりますと、大阪から、岡山に向けて船で絹を運んでいた人が、淡路島に船をとめて、その時に、水とか食べ物と交換に、勾玉を受け取ったと考えることが出来ます。
 雨流遺跡から、紡錘車でも見つかりますと、雨流遺跡の人も、絹の売買に関与していたことになります。
 いずれにしても、日本全国において、人々が、移動していたと考えませんと、勾玉も、全国にいきわたっていたとしますと、どうして、そんなに、全国にあるのか、説明がつかないことになります。
 もっとも、全国で勾玉があるかどうかは、これから調べに拠ります。
 
 前方後円墳でさえ、膨大な古墳が、全国にあるのですから、勾玉のような小さなもですと、全国から10000個、見つかっても不思議ではありません。
 ただ、勾玉は、朝鮮半島から見つかってはいますが、玉の好きな中国では見つかっていないらしいですから、前方後円墳と同様、日本独特のものであるらしいことが判って来たような気がしています。
 
 問題は、タイトルに書きましたように、唐古鍵遺跡は、勾玉の製造元かどうかです。この勾玉がも古墳から出土したのであれば、被葬者が、勾玉を大切に持っていたことになるでしょうが、褐鉄鉱で出来た仙薬〔禹余糧〕の中から、見つかりましたから、これも、一つの製造過程であるとしますと、勾玉製造元と言うことになります。
 製造過程とし、どのようなことが考えることが出来るでしょうか。 例えば、こうすることによって、他の勾玉と違った光沢が出るとか、変わった模様が現れるとかです。
 勾玉は、輝いていたと思われますが、製品になる前は、ただの石ころです。例え、ヒスイであっても、石ころです。この石をどのように細工をしますと、宝石のような輝きを増すのでしょうか。どのような宝石も、研磨することによって、光ることになります。研磨は、石に限りません。鉄であっても、銅であっても、表面を磨きますと、鏡のようになるはずです。 
 記事には書きませんでしたが、読んだ記事の中に、水銀が含まれていて、その水銀が、仙薬の働きをするようなことを書いた記事がありました。
 〔禹余糧〕には、ヒ素がふくまれるとの記述もありました。水銀を含む記事は、一つでしたから、紹介しませんでしたが、水銀は、強い殺菌力があります。今は無くなりましたが、以前は、〔赤チン〕という消毒薬があり、どのような怪我の時でも、ひと塗りするだけで、傷は化膿することはありませんでした。
 水銀は、銅鐸をつくるときに、使われたと思うのですが、間違っていたでしようか。勾玉の光沢をだすために、水銀が使われたとしますと、猛毒ですから、この水銀を取り除くために、一時、〔禹余糧〕に入れたのではとも考えて見ました。そうだとしますと、勾玉についていた水銀は、〔禹余糧〕に移ったということになります。
 
 唐古鍵遺跡が、勾玉の製造所と言うのは、一時お預けと言うことにします。

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