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歴史各論  勾玉(36)  勾玉製造元(25)ヒスイ製勾玉(15) 天神山古墳(7) [日本大好き]

崇神天皇5年の事として、記紀ともに多くの人が死んだことが記されています。
崇神天皇5年に次の様なことが、日本書紀に書いてあります。
 国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶ程であった。
古事記には、日本書紀以上の表現が使われています。こちらは、何時とは書いてありません。

 この天皇の御世に、疫病多に起こりて、人民死にて盡きむとしき。

記紀の両方に記録された事ですから、国内に疫病多く発生したことは確かでしょう。

 これだけですと、どのような疫病であったか判りませんが、中国の資料を眺めますと、
189年 中国では、一年で中平(185年 - 189年)光熹(189年)昭寧(189年)と
3回元号が変わっています。(大変な事件が有ったことになります) 
 この頃、中国人は、頻繁に中国と日本の間を行き来し、絹を運んでいました。
 疫病は、スペイン風邪のようなものではなかったでしょうか。189年に日本へ、ウイルスを持ち込んだと推理できます。
 当時、173年以降に任那と言う軍事基地が出来ましたので、中国人は、任那には立ち寄らなかったのではないでしょうか。
 たちよっていますと、新羅にもスペイン風邪は、蔓延したでしょうが、次の様な記事が残されています。
 「三国史記の193年に、
 〔倭人、大いに鐖う。来りて食を求むる者千余人なり〕

 以上の事から、中国で189年に発生したスペイン風邪は、190年には、韓国漢国の兵士が日本に持ち込み、日本の半分くらいの人が死んだと思われます。この年は、その前に収穫したコメはあったはずですが、半分もいなくなりますと、次の年、191年の田植えは、半分もでき無なかったでしょう。192年の収穫は大幅に減ったと思われます。
 飢餓状態にてえることが出来ない人が、193年に新羅に移住したと思われます。
 と言うことは、崇神天皇5年は、紀元後191年か、192年と言うことになります。

 日本で、半分ぐらいの人が死んだということは、中国でも半分ぐらいの人が死んだと考えてよいことになります。
 これまでに、多くの物資と兵隊を日本に送りこんでいた中国は、日本書紀へ送ることは出来なくなったはずです。とくに、鏡は、全く来ないとなりますと、兵士の戦意の低下につながりますから、日本で銅鏡を作ることになります。
 それだけではなく、一層、立派な鏡を作ることになったのではと推理しています。立派すなわち、大型の銅鏡の製作が行われたと考えます。

歴史各論  勾玉(35)  勾玉製造元(24)ヒスイ製勾玉(14) 天神山古墳(6) [日本大好き]

鏡が日本製であれ、仿製であれ、大した変りがないと思います。中国人が作ったことには、違いがありません。
 例えば、トヨタが、アメリカで自動車を造った場合、これは日本製です。部品もアメリカで造って組み立てているように思いがちですが、今回の福島の原子力発電所の事件で判ったように、大切な部品は、日本から送っていたために、組み立てが出来ず、組み立て能力は半減したと思います。
 どうしても、日本人の考え方を抜きにしては、アメリカでも、トヨタ製の車は、製造できません。
 日本の古墳から出土する鏡は、漢軍の戦死者を葬るのに必要な漢人の身分証明書と考えませんと、歴史は成り立ちません。
 どこの古墳でも、大きい古墳ですと、歴史家の方は「この地方の豪族の墓だと思われる」と書いておられます。中には、豪族が豊かになったから、銅鏡を買い求めた様に書いておられますが、当時は、まだ、貨幣はなかったように思います。
 前漢が滅びたあと、「新」の国の人がやってきました。その人が使っていた貨幣が、日本において見つかっていますが、この貨幣は流通していなくて、中国人同士では使われていたのではないかと思います。(貨泉) http://tragan.web.infoseek.co.jp/komonsen/komon6.htm) 
 
 九州の古墳から、多くの銅鏡が書都度していますが、この豪族たちは、中国へ行って、買ったか、物々交換で手に入れたことになります。
 このような無理な発想をしなくても、中国人、皇帝から軍人であることの身分証明書である漢鏡を貰って、日本に赴任、そして、自分の部下に、銅鏡を作って与えても良い許可を貰っていたとしますと、中国には一切ないのに、日本だけに、三角縁神獣鏡がいっぱいある理由が説明できることになります。

 天神山古墳のことは、今日で6回目になりますが、今までにみてきた古墳と異なる点があります。
 大和天神山古墳の特徴はつぎのようになると思われます。
①水銀朱が41キロと多かった。
②天井石を設けない特異な竪穴式石室
③銅鏡が23面あった。
④木棺と思われる棺があったが、人が入っていた形跡がなかった。
 
③銅鏡が23面あった部分が気になります。多いだけですと、すぐ隣の黒塚古墳も椿井大塚山古墳も、30面ほど出土しています。
 多くの場合、棺の中に、本人が持っていた銅鏡を置き、棺の外に、部下に支給する鏡を置いていますが、全部、棺の中に、納められていました。

前回、複数の人が埋葬されたのではないかと書きました。では、なんのために と疑問がわきます。
 この時は、激しい戦いがあり、多くの人が死んだのではないか と考えています。

この時とは、何時の事かです。崇神天皇陵がすぐ、近くにありますが、天神山古墳は崇神天皇陵の陪塚ではありません。天皇は、このように沢山の銅鏡は持たない筈です。
しかし、崇神天皇と関係があるのではと考えます。
 崇神天皇の御世に多くの人が死んだ事件は、二つあります。
 長くなりますので、次回にします。


歴史各論  勾玉(34)  勾玉製造元(23)ヒスイ製勾玉(13) 天神山古墳(5) [日本大好き]

ウィキペディアには、この4種が日本製。日本製の鏡は中国鏡を模倣しているが、文様に対する知識が少なく、技術も高くなく、稚拙な仕上がりになっている。
と、態々、仿製とは書かないで、4種が日本製と書いておられます。

意外! 被葬者が埋葬されていなかった天神山古墳
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_08_30.htmを書かれた方は、
「出土した23面の銅鏡には三角縁神獣鏡は含まれず、大部分は舶載鏡だった」
とかいて、全部、舶載鏡であったと書いておられます。
 三角縁神獣鏡は、含まずと書いておられますが、
奈良国立博物館の資料には、
http://bunka7.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=199962三角縁変形神獣鏡-2面とあり、変形とありますから、三角縁神獣鏡ではないのかと思いましたら、正面から写した写真が掲載されています。三角の縁の部分は、三角縁神獣鏡に見えます。
 この日本製という言葉は、日本で作られた鏡という意味でしょう。これは、中国人が作ったので、中国製でしょう。
 
 当初は、将軍級の人が、皇帝から鏡を支給されて日本にやってきます。その後、自分の部下をあちこちに派遣する時は、自分から、支給することになったと思います。その鏡は、本国から、送られていたのではないでしょうか。
 
 朝鮮の古代史『三国史記』に173年に卑弥呼が使者を派遣した記述があります。
【三国史記】阿達羅20年(173年)夏五月、倭国の女王の卑弥呼が使者をよこして礼物を献じた。
 文章は至って簡単ですが、新羅は倭人のハハの国です。新羅の初代国王は神武の兄の稲冰命です。このときに、にほんから、命令されたとは、書きたくないから、「礼物を献じた」と書きましたが、日本と共同で、任那に軍事基地を作ったのではないでしょうか。
 173年を境に、中国は、銅鏡を送ることが出来なくなったのではないかと推察しています。

173年以後は、鏡は、日本で製作されるようになったのではと考えます。銅鏡だけではなく、武器も食料も日本で調達しなければならなくなり、日本にいる中国人の戦意は、低下したと思われます。せめて、銅鏡の大きさだけを大きくするようになったのではないでしょうか。
 173年以後は、中国に運ばれる絹は大幅に減少し、後漢の経済にガタがきて、九州には、呉の国。福知山には、魏の国の人がやってきたのではないかと考えています。

歴史各論  勾玉(33)  勾玉製造元(22)ヒスイ製勾玉(12) 天神山古墳(4) [日本大好き]

天神山古墳のことをもう一度考えて見ようと思います。
 前回は、随分長い文章を掲載して申し訳ありませんでした。
 
 最初に掲載したのが、ウィキペディアに書いてあったものです。これは、きっと、歴史のプロの方のものだと思います。
 次は、
意外! 被葬者が埋葬されていなかった天神山古墳
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_08_30.htm
です。このホームページは、写真があるだけに、理解しやすいものです。随分詳しく理解して書いておられます。
 次は、奈良国立博物館の方が書かれたものです。
http://www.narahaku.go.jp/collection/727-0.html  に掲載されていました。
 
 奈良国立博物館のものは、各鏡の写真がありますから、ありがたいです。

これを書かれた三人に共通することは、天神山古墳は、崇神天皇陵の陪塚であることです。と言うことは、陪塚は、一つであるということです。少なくとも、20枚は、崇神天皇が持っていた銅鏡と考えておられることになります。
真実かどうか 判りませんが、崇神天皇に関しては、次の4つの戦争をした事が書いてあります。 崇神天皇10年に、大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、討伐を命じたことになっています。この戦争を命じた時は、崇神天皇は奈良に居なくて、岡山に居たと考えています。
 本人は、戦争をしなくても、もう少し武器らしいものがあってもいいと思います。

鏡は天皇も持っていたかも知れませんが、お墓に埋葬する習慣はなかったと思います。中国人も、多くの場合、一つの鏡が埋葬されたと思います。天神山古墳や隣の黒塚古墳、椿井大塚古墳のように、沢山の鏡が出土した古墳は、特別に権力があるというか、新しい部下に渡すために持っていた鏡だと考えます。

 では、人が埋葬されていなかったということは、どのように考えればいいのでしょう。
①方格規矩鏡5面--- 中国鏡---後漢代(1~2世紀)
②内行花文鏡4面--- 中国鏡---後漢代(1~2世紀)
③画文帯神獣鏡4面[2]--- 中国鏡--三国時代(3世紀)
  上の鏡は、全部で、9枚です。この鏡は、それぞれの人が一枚ずつ、貰ったものではないかと思います。
 人の葬られた跡がなかったどころか、9人、一緒に葬られたとは考えられないでしょうか。

 今までに知っている範囲ではありません。

歴史各論  勾玉(32)  勾玉製造元(21)ヒスイ製勾玉(11) 天神山古墳(3) [日本大好き]

大和天神山古墳
ウィキペディァによりますと、大和天神山古墳の事は、次のようになります。
台地上に立地する墳丘長113メートルの前方後円墳で、短めの前方部はわずかに撥形に開いており、その開きは後円部の直径を超えるものではない。葺石や埴輪がなかった。段築や周濠が不明瞭で、本来なかった可能性も指摘されている。
後円部のほぼ中央に長さ6.1メートルの竪穴式石室が検出された。石室の中央部には、現存の長さ2.6メートルの板材が残っており、その中央は仕切り板で区切って、内法1×0.5メートルの木櫃状になっている。、 本古墳には、合掌式つまり石室の両側へと持ち送って、特に天井石を設けない特異な竪穴式石室である。
石室の内部には、一見木棺のようであるが細部を検討すると木櫃(もくひつ)とした方がよい大きな木製容器が置かれて、総重量約41キロの水銀朱が納められていた。朱を大量に入手し使用している点で、3キロの朱を使用していた岡山県倉敷市の楯築古墳があり、東瀬戸内海との関連が考えられる。
この木櫃の底板は、長さ2.6メートル、幅75センチであるが、断面は緩やかなU字形を呈している。しかし、巨木を刳り抜いたものではなく、縦に長い三枚の板を合わせたものである。従って内部の底面は水平でなく、両端がカーブしてあがっている。
木櫃のなかに水銀朱を取り囲むように20面の銅鏡が置かれていた。20面の銅鏡は木櫃の四周に連続して長方形の辺に置かれていて、前期古墳にしばしば見られるように一面だけ中央に置いてあるという配列とは全く異なる。これは、「邪」から被葬者を守ろうとしたと解されている。古墳社会では階層化が進み、青銅鏡が社会的・政治的に重要なものであり、製作数が飛躍的に増大する[1]。 また、木口板(こぐちいた)の外部にも北方で2面、南方で1面置かれていて、計23面の銅鏡が検出されている。
木櫃内の20面を種類別に見ると、方格規矩鏡5面、内行花文鏡4面、画文帯神獣鏡4面[2]、斜縁変形神獣鏡2面、獣形鏡3面、画像鏡2面、人物鳥獣文鏡[3]である。
武器は、鉄製で、刀が3点、剣が4点、鉄鏃が5点出土している。刀は一般的な片刃でなく、切っ先から20センチまで両刃になった特異なものである。 剣では木製の柄装具に直弧文[4]を施している。これらの剣の一部が絹布に巻かれていた。鉄鏃は、柳葉形で、木製矢柄が一部残っていた。[5]。
前方部から二重口縁壺(布留Ⅰ式)から出土している。

以上の事から、大和天神山古墳の特徴はつぎのようになると思われます。
①水銀朱が41キロと多かった。
②天井石を設けない特異な竪穴式石室
③銅鏡が23面あった。
④木棺と思われる棺があったが、人が入っていた形跡がなかった。

以上の事から、この墳墓は、崇神天皇陵の陪塚と書かれています。

現在の墳墓は、道路によって削られているそうですから、崇神天皇陵に近くに作られたことが判ります。

そして、そのような流れで、ホームページを作ってあるのが、次のものです。

意外! 被葬者が埋葬されていなかった天神山古墳
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_08_30.htm

以下は、私の考えたことです。
 出土した鏡は7種類です。 整理すると次の様になります。
①方格規矩鏡5面--- 中国鏡---後漢代(1~2世紀)
②内行花文鏡4面--- 中国鏡---後漢代(1~2世紀)
③画文帯神獣鏡4面[2]--- 中国鏡--三国時代(3世紀)
④斜縁変形神獣鏡2面---日本製
⑤獣形鏡3面-------日本製
⑥画像鏡2面-------日本製
⑦人物鳥獣文鏡----- 日本製

①~③は、間違いなく、中国から派遣されて日本にやって来た時に与えられた鏡だと思われます。
 中国の鏡が古墳に埋葬されるときは、皇帝などから貰ったものは、大切なものですから、頭の近くとか、少なくとも、棺の中に納められています。ところが、天神山古墳では、20面が、棺の中の周囲に立てて並べてあり、残りの3面は筆切の外にあったと記されています。
下に、奈良国立博物館の説明文を記しておきました。どう云うわけか、出土したか鏡の枚数が異なります。
  崇神天皇陵の陪塚というのは、間違いではないでしょうか。博物館では、4世紀の古墳としておられますが、3世紀の初めではないでしょうか。
 後漢代(1~2世紀)の鏡が多いです。この鏡を大切に何代にも渡って持っていたということでしようか。

 崇神天皇の持ち物が、大和天神山古墳からでてきたのであれば、天皇は中国の鏡をどのようにして、、何時手に入れたのでしょう。大和天神山古墳は典型的な中国人のお墓です。
私がもっとも重要視するのは、どの鏡も割れていないということです。崇神天皇は258年ころに崩御されたと考えています。
 存命中、大和天神山古墳を造ったとしますと、中国人の魂とも思える鏡は、粉々に割ったと思っています。
 このように考えますと、3世紀の終わりか、4世紀の初めではないかと推理します。



天神山古墳では、奈良国立博物館
http://www.narahaku.go.jp/collection/727-19.html波文縁方格規矩鏡は
〔波文縁方格規矩鏡は面径17.5cm。出土時の破損で鈕及び内区約三分の一を欠失する〕

①波文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土)
径15.8  古墳時代 4世紀

http://www.narahaku.go.jp/collection/727-0.html に次のような説明文がヶて最されていました。

天神山古墳は、大和盆地東辺に立地する柳本(やなぎもと)古墳群の中の1つで、いわゆる崇神(すじん)天皇陵の西方に位置する全長113メートルの前方後円墳である。銅鏡は、後円部中央の竪穴式石室の中の木櫃(ひつ)の内外から発見されたものである。その櫃内には41キログラムの水銀朱が埋納され、これをとりまくように鏡面を上に向けて20面の鏡と、木櫃外にも3面の鏡が並べられ、さらにその内外に鉄剣、鉄刀、鉄鏃、刀子、鎌などが置かれていた。 鏡は木櫃の周縁に沿って北から右廻りに20面で一周し、櫃外の北側に2面と南側にも1面が配され、その内訳は、方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)6面、内行花文鏡(ないこうかもんきょう)4面、画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)4面、獣形鏡(じゅうけいきょう)4面、画像鏡(がぞうきょう)2面、三角縁変形神獣鏡(さんかくぶちへんけいしんじゅうきょう)2面、人物鳥獣文鏡(じんぶつちょうじゅうもんきょう)1面である。  天神山古墳の年代は4世紀後半ごろとされているが、これらの鏡は前期古墳によくみられる典型的な三角縁神獣鏡を含まず、後漢時代の方格規矩鏡や内行花文鏡などを主体とする特異な組合せを示している。天神山古墳は遺体を埋納した形跡がなく、すぐ東に崇神天皇陵があり、同陵の遺物のみを埋納した陪塚(ばいちょう)とも考えられている。

①三角縁変形神獣鏡-2面---- http://bunka7.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=199962 径17.0
②半三角縁人物鳥獣文鏡 --- http://bunka7.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=225669 径15.1
③画文帯神獣鏡--- http://www.narahaku.go.jp/collection/727-2.html 径13.9
④内行花文鏡--- http://www.narahaku.go.jp/collection/v-727-3.html 径19.5
⑤波文縁方格規矩鏡 http://www.narahaku.go.jp/collection/727-16.html 径16.1

歴史各論  勾玉(31)  勾玉製造元(20)ヒスイ製勾玉(10) 天神山古墳(2) [日本大好き]

横田遺跡に住んでいた人が持っていた波文縁方格規矩鏡と同じ鏡が奈良の天神山古墳からも見つかりました。
 横田遺跡は、吉野ヶ里から1キロの所にある遺跡です。
 吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国だと騒がれているときは、行きませんでしたが、騒ぎが少し収まった時に、行きました。
 環濠の中も歩いてきました。確かに、外から侵入を防ぐ装置だと思いました。芝が植えてある広場の真ん中で、一時間ほど、寝転んでいました。
 其の後、どんどん、復元されて、国の形は、進んでいるそうですが、資料がありません。
 確か、私の記憶では、立派なたてものはあったように思うのですが、食物を保管する倉庫はなかったように思います。
 人間生きていくには、一番に水であり、つぎは食べ物ですが、お米などの倉庫らしいものは、なかったように思いました。吉野ヶ里遺跡の外にあったのでしょうか。

 それを調べるために。吉野ヶ里の周りの遺跡のことを調べた記憶があるのですが、書いたところが分かりません。
 横田遺跡のようなものが、食物の調達を受け持っていたのかも知れません。
 
少なくとも、吉野ヶ里と横田遺跡の人は、関係がありましたし、横田遺跡の人と天神山古墳の人は、つながりがあったことが判りました。

全部、精しく検討を加えないといけないことになります。

歴史各論  勾玉(30)  勾玉製造元(19)ヒスイ製勾玉(10) 天神山古墳 [日本大好き]

横田遺跡から出土した波文縁方格規矩鏡は、どのような鏡かと検索しましたら、奈良・天理市の天神山古墳に見つかりました。
 地図 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343326&l=1355045 
崇神天皇の御陵があります。西隣りを走っている道路は、169号線です。
この道路の工事をしている時に、天神山古墳が見つかりました。

地図を見る時は、必ず、周りを全部みるようにして下さい。 東へ移動しますと、『龍王山』があります。
 龍王山の麓に住んでいた人は、中国人で、最高級に属する軍人です。

崇神天皇陵の真西に、神社の記号が見えます。この神社は、伊射奈岐神社です。この神社の南側に天神山古墳があります。
北東に黒塚古墳があります。

黒塚古墳のデーターは、
http://inoues.net/club/kuroduka_museum.html
ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3黒塚古墳の事は、又のことにしまして、
 もう一度、鏡を見てください。

 天神山古墳では、奈良国立博物館
http://www.narahaku.go.jp/collection/727-19.html
波文縁方格規矩鏡は
〔波文縁方格規矩鏡は面径17.5cm。出土時の破損で鈕及び内区約三分の一を欠失する〕

 私もまだ、検討していないのですが、大きさはいろいろあるようです。感では、17.5 cmは、大きいのではないでしょうか。大きいほど、時代は新しいような気がします。
天神山古墳の鏡は、全て割れていないように思っていましたが、〔出土時の破損で鈕及び内区約三分の一を欠失する〕と書いてあります。

 と言うことは、発掘していた時のミスで、壊れたということでしょうか。その壊れたうちの3分の1は、誰かが、持ち去ったということでしょうか。

 一番の驚きは、鏡は、全部で、計23面の銅鏡が検出されていることです。
龍王山の麓に葬られただけで、中国人の人です。中国を出る時に、皇帝から、日本での商売を認めるような 鏡を貰っているように思います。それは、一枚です。この一枚は、被葬者の頭の近くに置かれていたように思っていますが、天神山古墳では、そのような鏡は無くて、全部、周囲に並べられていたようです。

天皇家と競争相手であったようにとらえていますが、余りにも、崇神天皇陵に近くにあります。 黒塚古墳では、棺内には被葬者の頭のところに画文帯神獣鏡大量の三角縁神獣鏡。全部で、33面だったと思います。
 このように頭の所に一枚置く方が、タイプは古いのではないかと考えます。

 黒塚古墳の被葬者と崇神天皇とは、同じころではないでしょうか。

天神山古墳は、4世紀頃と書いてありましたが、もう少し古いようにみ思える(3世紀)のですが、お預けにしておきます。
 この人達と、吉野ヶ里近くの横田遺跡の人達は、同じ形の鏡を持っていたことによって、
交流があったと考えてもいいのではないかと思います。

歴史各論  勾玉(29)  勾玉製造元(18ヒスイ製勾玉(9) 横田遺跡  [日本大好き]

今日から、このページを読まれる方は、3つ前の「椛島山遺跡」を読み直してください。
 
 椛島山遺跡に住んでいたと思われる中国人は、その一部は、山口県の竹島古墳に移動したのではないかと思いました。
理由はも次のページの最後に書きましたが、文章では説明がしにくいのです。
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-790.html 
 紀元前に、中国からやって来た人がいました。六角川に浮かぶ、小さな「椛島」(かばしま)に、生活の基盤を置いたと思われます。
 方格規矩四神鏡とはと、検索して調べていましたら、竹島古墳
が見つかりました。芋づる式に、目についたものを調べていきますと、横田遺跡が見つかりましたが、この遺跡は、佐賀県の吉野ケ里遺跡から、1キロ離れているだけです。外にもいっぱいあります。

 竹島古墳と関係あるのは、群馬県、奈良県、兵庫県(但馬)、山口県へつながって、佐賀県に戻ってきました。

これらの間には、強固な証拠らしきものはありますが、「椛島山遺跡」と竹島古墳の間には、証拠らしいものはありません。
 偶然、竹島古墳(小さな島)の近く、海の中に「樺島」と言う名を見付けました。
 
 歴史学領域では、地名は、無視されますが、田村誠一氏は、『楽しい人生』記紀12
から地名のことを書いておられます。記紀によって、地名の表記が違うところにめを付けておられます。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2011/06/12-acd6.html
 「椛島」と「樺島」は、どちらも〔かばしま〕と読みます。私が見つけた「カバシマ」は、佐賀の「椛島」は、はじめは、「樺島」と書いてあったのを、「椛島」は、日本で作られた漢字だからです。
 山口県に移動した人達は、「椛島」に似た小さな竹島古墳に住みつきましたが、少し、島を離れると「樺島」は、住むことはことはできないぐらい小さいと思いますが、目印にはなったので、「樺島」と名付けたと想像しただけです。
 
 前置きが長くなりましたが、横田遺跡は吉野ヶ里の近くです。
 この遺跡は、少し、下火になった時に行ってきました。
 本も買いましたが、邪馬台国だと云われました。もし、そうであれば、240年頃のことになります。しかし、其の後研究が進みますと、遺跡は、紀元前に遡るらしくなってきました。
 今日紹介しました横田遺跡は吉野ヶ里の近くですから、「椛島山遺跡」とはつながっていた可能性は高いです。
 群馬県から、絹はどのように流れて行ったかは、少しずつ、埋められて行く様な気がしています。

参考に、(7年前に私が書いたものです)
No293 秩父の絹は、どのようにして運ばれたか?
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-02

歴史各論  勾玉(28)  勾玉製造元(17) ヒスイ製勾玉(8) 椛島山遺跡(3) [日本大好き]

次は、横田遺跡です。
資料は次の所から、拝借です。
佐賀県重要文化財 横田遺跡出土遺物(よこたいせきしゅつどいぶつ) 

昭和63年4月4日指定
佐賀市城内1-15-23(県立博物館)
考古資料
________________________________________

 横田遺跡は、吉野ヶ里遺跡から約1キロの東方、神埼郡吉野ヶ里町の横田丘陵上に位置する。昭和41年の東脊振村営住宅建設工事中に甕棺及び石棺から出土した遺物である。
 波文縁方格規矩鏡は面径17.5cm。出土時の破損で鈕及び内区約三分の一を欠失するが現在修復されている。方格内には十二支銘が置かれ、内区の方格には青龍・白虎・朱雀・玄武の四神を配す。銘文は「尚方作鏡真大巧 上有仙人不知老 渇飲玉泉飢」と認められる。
 素環頭鉄刀は全長61.8cm、全体に細身で、途中から内側に著しく屈曲している。素環頭は平面楕円形で一端を曲げて柄に接合している。弥生時代の鉄刀としては津島トウゴウ山石棺出土品に次いで長い。
 鉄剣は46.5cm。茎の末端を矢や欠失する。両関式で短茎である。

波文縁方格規矩鏡 とは
参考—1 奈良国立博物館 http://www.narahaku.go.jp/collection/727-19.html 奈良県天理市柳本町天神山古墳出土

参考2—奈良国立博物館  鏡写真-―拡大可能です。
参考3—奈良国立博物館   参考2において、〔関連鏡-〕をクリックしますと、―拡大可能です。 流雲文縁方格規矩鏡の画像が見ることができます。 そうしますと、奈良の天神山古墳出土の鏡を見ることができます。 デザインが同じ、流雲文のある、縁のある方格規矩鏡です。   -奈良国立博物館---天神山古墳では、三角縁変形神獣鏡があります。 奈良の天神山古墳は、崇神天皇の近くにあります。 違う形式の道鏡が数枚あるということは、ここの被葬者は、長い年月、このあたりを支配していたと思います。 時代は、西暦240よの250年ぐらいでしょうか。

歴史各論  勾玉(27)  勾玉製造元(16) ヒスイ製勾玉(7) 椛島山遺跡(2) [日本大好き]

変なことになってきました。
椛島山遺跡のことを調べようとして、次のページを覗きましたら、
http://www.pref.saga.lg.jp/web/kankou/kb-bunka/zai_top/kensaku_top/data_ken_kouko06.html 
椛島山遺跡の上に、田島遺跡と横田遺跡出土の写真がありました。自分で誉めるのもおかしなものですが、鏡の写真が気になるので、田島遺跡を調べることにしました。すると、
 その資料には、日光鏡が出土と書いて有りました。
 日光鏡は、どのようなものかと検索しましたら、
http://we.magma.jp/~ark/sinkyou_utyuu/honkan/g001-nikkou.htmが見つかりました。
 此処には、次のように書いてありました。
この日光鏡は直径6.9cmの小型の舶載鏡で完形品である。鏡面は凸面で、鏡背に「見日月之明光田貞(卓)」の八文字の銘文がある。この日光鏡と同形のものが中国江蘇省連雲港市海州の前漢雀賀墓より出土している。
①舶載鏡であること。
②直径6.9cmの小型
③同形のものが中国江蘇省連雲港市海州の前漢雀賀墓より出土。
中国の鏡は、古いものは、きっと、このように小さい。小さい、即ち、古いと考えてよい?
田島遺跡に住んでいた人は、中国江蘇省の近くに住んでいた人であり、ただ、日本に来ただけではなく、命令をされて九州にやって来た人と云っていいのではないか。

 椛島山遺跡、田島遺跡。横田遺跡とも、離れていますが、気になったのは、3つの鏡とも、割れていないのが特に、気になりました。
 次回は、横田遺跡を見ます。

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