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日本大好きNo100出雲風土記と国引き –3 [日本大好き]

もう一度、簡潔にした文を掲載します。
①「栲衾志羅紀乃三埼矣」来縫國者、自去豆乃折絶而、「八穂米支豆支乃御埼」。                                            以此而堅立加志者、石見國與出雲國之堺、有名「佐比賣山」是也。亦接引綱者、「薗之長濱」是也。
②「北門佐伎之國矣、」引来縫國者、自多久乃折絶而、「狭田之國」是也。
③「北門良波乃國矣、引持引縫國者、自宇波縫折絶而、「闇見國」是也。
④「高志之都都乃三埼矣、引来縫國者、「三穂乃埼」。接引綱、「夜見嶋」。固堅立加志者、有伯耆國「火神岳」是也。

②③は、佐伎之國と良波乃國と書かれており、国であることが判ります。このほかに、国が付けられているのは、①の石見國と出雲國です。④伯耆國です。
①の志羅紀には、国が付いていません。④の高志にも国が付いていません。志羅紀も高志も国ではないと考えるのが普通です。地名は、すべて日本の地名ですのに、どうして志羅紀だけを朝鮮の新羅としたのでしょう。
志羅紀の前に栲衾があります。「栲衾」は「たくふすま」と読みます。栲は「たえ」とい名前の木のことです。衾は「ふすま」と読み、布団のことです。栲は、かじの木とも言い、この木の皮の繊維で織った白い布を言いますが、転じて白い布のことを言ってたらしいです。
古事記にも、万葉集にも登場して、白いものの枕ことばとして使われている例があるそうです。そこで、栲衾志羅紀の栲衾は、枕ことばとして使われているようです。そうなりますと、後ろに書かれている志羅紀は、白木か、白紀か判りませんが、「白」の意味があったから、栲衾が使われたのであって、読み方が志羅紀(シラキ)という土地の三埼ですよと書いたことになります。
 今度、高志之都都乃三埼です。
古事記に、「八千矛神(大国主神)が、高志国の沼河比売を婚(よば)はむとして、幸行でましし時、その沼河比売の家に到りて、歌ひたまひしくか…・」と書かれたところがあります。ここに書かれた高志国は、国と書かれていますから、越の国だということになっています。
ここには、大国主神ではなく、八千矛神と書かれていますから、大国主神になる前ということになります。八千矛を持って、全国を走り回っていた時ですから、越の国でもいいのですが、その前に、千代川を遡った所に住んでいた八上比売と結婚した後ですし、スサノオの娘である須世理毘売と駆け落ちまでして、倭に宮殿を建てたところです。
 このように、この頃には、西伯郡西伯町のあたりにいたことになります。
古事記では、その後、大国主神は出雲に滞在していましたが、須世理毘売の嫉妬がひどいので、「その夫の神わびて、出雲より倭国に上りまさむとして、束装し立たす時に・・・・」といあ文があります。ここに書かれている倭国は西伯郡西伯町にある倭です。このように、大国主神は、馬で出雲に出かけていたのでしょう。出雲から奈良の大和へ帰る時ではありません。
沼河比売と結婚しようと出かけたのです。日頃、見かけて知っていたから、高志国へ出かけたと思われます。「高志」をキーワードにして、検索してください。福井県、新潟県、富山県、佐賀県にも、高志と名前の付く高校・病院などかありますが、島根県にも高志町が二か所あり、高志原という地名もあります。高志之都都乃三埼とありますから、海岸沿いだったと思われます。「都都」は「津津」でしょうか?

つづく


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