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日本大好きNo101出雲風土記と国引き –4 [日本大好き]

「北門佐伎之國矣、」と「北門良波乃國矣」が最後に残りました。北門が良く判らないのですが…。これに似たものに、神門(かんど)があります。神さんが入る入口です。私は、ここは神さんの入る入口で、全国に、これに似たものとして、神戸(これはいろいろ読み方があります)があります。これらに共通することは、なんらかで、ユダヤ人と関係があると思っています。神門郡を流れる川は、神門川です。地図をだして眺めてください。この辺りには、
「神」の字がつく地名がいっぱいです。ここには、古志郷の名前も見えます。島根県のホームページでhttp://www.pref.shimane.jp/section/bunkazai/fudoki/fudokif/kando.html
神門郡は、【出雲大川(斐伊川)下流の西側が神門郡に当たります。現在の出雲市の旧出雲市内大半と、出雲市湖陵町、出雲市多岐町がおおよその範囲です。「神門」の名は「神門臣伊加曽然(かんどのおみいかそね)」が「神門」(鳥居のこと?)を奉献したことにはじまります】と書いておられます。では、もう一歩、突っ込んで、神門臣の臣は、どうして賜ったのか、どこの誰にとなりますと、宿題です。

話は変わります。
現在残っている風土記の中で、全文が残っているものは、出雲風土記だけであること、以前に書きました。しかも、提出されたのは、30年も経ってからでした。責任者は、国造帯意宇郡大領外正六位上勲業出雲臣廣嶋であり、実際に書いたのは、秋鹿郡人神宅臣金太理であることが、出雲風土記の最後に書かれています。秋鹿郡の人とありますから、秋鹿郡に住んでいたのでしょう。秋鹿郡は、島根県のホームページには【松江市北西部の湖北地区に松江市鹿島町佐太・名分・恵曇地区、出雲市東端部の伊野地区を加えた地域です。出雲国でもっとも小さな郡で、郷が4つ、里(こざと)が各郷に3つ(合計12)ありました。
 郡の規模は小さいですが、神が隠れこもる山として崇められた「神名火(かんなび)山」や、出雲四大神のひとつ「佐太大神」が鎮座する「佐太御子社」(佐太神社)があったところです】とあり重要なところであったことが判ります。次のところに地図を公開しておられます。
http://www.pref.shimane.jp/section/bunkazai/fudoki/fudokif/aika.html

神宅臣金太理は、大和朝廷から派遣された人ではないでしょうか? なぜかと言いますと、
風土記の責任者が国造帯意宇郡大領外正六位上勲業出雲臣廣嶋であるのであれば、執筆者の名前は必要ないと思われます。出雲の国造が、いつまで経っても提出をしないので、神宅臣金太理が派遣されたのではないでしょうか?
この辺は、私の単なる想像です。神宅臣金太理の「神宅臣」がどのような経緯で授けられたのか調べていませんが、神門臣と神宅臣の両方に、「神」の字が付いています。
 このようなことを言いますと、誰からも相手にされないのですが、紀元前から、ユダヤ人の援助があって、天皇家は存続を維持できたと考えています。「新しい日本の歴史」のNo20~52ぐらいまでに書いていますが、これだけでは説明が足りませんので、現在も続けて書いています。http://homepage1.nifty.com/o-mino/page550.html
 神門のあたりが、ユダヤ人が最初に上陸した地点ではないかと想像しています。
「日本大好き No69、70 秦王国は出雲だった」に出雲は漢人が支配していたところだったことを書きました。神門郡の東側、すなわち、出雲大川(斐伊川)下流の東側になります。風土記は、713年に提出するように全国に命令されました。私は、藤原不比等が、日本書記の制作に利用するためと考えていましたが、日本書記が完成した720年になっても、出雲は風土記を提出していません。やはり、出したくなかったのだと思います。
風土記を調べたわけではありませんが、各国に、どのような郡、郷、村があり、どれぐらいの人が住んでいるのか、どのような神社があるのか、金が取れるのか、鉄が取れるのか、報告するように通達されたのでしょう。このように見ていますと、すべて、重要な軍事情報です。このようなものは、敵方に公開できるわけがありません。
 しかし、出雲は、最後には、藤原氏が支配する式内社をいっぱい制定されました。そして、大国主神の一族を封じ込めましたが、出雲臣も藤原氏の支配受けることになりました。

日本大好きNo98に、国引き神話は出雲国がどうしてできたかを書いたのではないと書きました。意宇郡という名前がどうしてついたかを書いたものであることは、最後に、【八束水臣津野命が「国は引き終わった」と仰せられ、意宇の杜に御杖を突き立て「おゑ」と仰せられた。 よって此の地を意宇という】と書いてあることで決定です。
 「おゑ」とは、どういうことかと言えば、4つの土地を引っ張ってきて、意宇郡にくっつけるつもりであったのですが、うまくいかなく、疲れて、「あ~あ」とため息をつかれたのが、「おゑ」でしょう。
 なんのことはありません。余っている国を4つもぎ取って(略奪)くるつもりでしたが、そのような大それたことは成功するわけがありません。ダジャレを織り交ぜて、今でも、意宇郡は、「淡道穂狭別島(島根半島)」とくっつくことはありませんでした。
 と、弁解を書いたのではないでしょうか?  出雲のことではなく、国造が住んでいる意宇郡の最初にかいているところに意味があると思います。

では、「北門佐伎之國矣、」と「北門良波乃國矣」の北門はどこだ。佐伎之國と良波乃國はどこだ。皆さん、大いに挑戦されたら楽しいと思います。一番スケールの大きい方は、【ウラジオストックの「発見」】--を書かれた方です。興味のある方は、読んでください。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou54/furuta54.html

私は、先に述べましたように、国造・出雲臣廣嶋が、このような馬鹿話を書いて許しを願い出たと思っていますので、これ以上、追及する気はありません。
 ただ、風土記に書かれている神社と式内社に書かれている神社は、余り、数が違いませんので、神社に関しては、正しい報告をしたのではないかと推察しています。
ひょっとすると、報告した為に、重要な神社とひの氏子は、藤原氏の下に着くことになったのかも知れません。


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